前潟都窪の日記

2004年07月19日(月) 【人類の歴史に汚点残したナチスの蛮行・・ポーランド�◆�

 ニューヨークの同時多発テロから一ケ月程経った10月12日、オフイシェンチムへ到着した。先ず目に入るのはポブラ並木のある構内に立ち並んでいる重厚な感じのする煉瓦造りの建物群である。何も予備知識なしに眺めれば軍隊の兵舎が立ち並んでいると思うかもしれない。しかし建物群と敷地を取り巻いて巡らされた高圧電線網を見ると異様な感じがあり、やはり収容所だなと了解するであろうか。

 入り口には高圧電線網が張りめぐらされた扉の上に「ARBEIT MACHT FREI」というドイツ語の文字盤が並んでいる。働けば自由になれるという意味である。ここが悪名高いアウシュビッツ強制収容所なのだ。

 建物の中を順次見学して回ったが、刈り取った頭髪が夥しい程の量展示されている部屋、様々な大きさと種類の靴が山をなして集積されている部屋、革製の大きなトランクには白いペンキで住所氏名が記入されて沢山集積され展示されている部屋もある。移住させるからと騙されて自分の財産を判別しやすいようにとの指示のもとに記入したと思われる白色のペンキの文字が哀れさをそそる。眼鏡だけ集めて展示してある部屋もある。その量は夥しいとしか言いようのない程である。これらの遺品を前にするとその背後にある意味が自ずから察知できるレイアウトになっていて身の毛がよだつ思いで眺めた。

 毒ガスとして使われたチクロンBという薬品の入っていた空き缶の山や、




人間の頭髪を混ぜて織られた織物も展示されている。

 寝室には蚕棚式の狭いベッドが設けられていて、干し草の屑が敷かれているだけで家畜の部屋よりも条件は悪いとさえ思える。

 共同便所の建物の中には幅1m程のコンクリート製の細長い箱が設置され




ており、その上には直径25cm位の丸い穴が交互に配置されていた。穴と穴との隔たりは殆ど設けられていない。監視付きでこんな場所で大勢の囚人達が並んで排便している光景を想像するだけでも吐き気を催してきそうな光景であった。

 天井から毒ガスを注入されたというガス室も残されているし、死体処理のために設けられた焼却炉も展示されていて人間の魔性もよくぞここまで至れるものだとの思いで一杯であった。

 建物の外には処刑のために首を締めて吊るす鉄製の架台




や銃殺するために設けられたコンクリート製の壁も残されていてその前には見学者の備えた供花が沢山並んでいた。

 この収容所の所長夫人は入れ墨のある囚人の革でランプの傘を作らせてコレクションとすることを趣味としていたという事実もあったし、その夫に至っては死体焼却炉の側に風呂を設置して死体が焼けていくのを眺めながら入浴することを楽しみにしていたとも伝えられている。ここまで行くと人間の心は完全に消滅して悪魔そのものである。

 収容所の側には鉄道の引き込み線が設けられていて、各地から移住させるからと騙されて列車で連れてこられたユダヤ人やジプシーはここで全員降ろされた。シャワーで汗を流すようにと言われて裸になったところをそのままガス室へ送られて毒殺されたという。そしてこれらの死体を処理するための労働力として、顔色や体格だけで健康状態を判定され元気そうな者だけが残されて収容所へ収容されたのである。

 殺された人達の中には財産を没収されることを警戒して宝石や貴金属類を飲み込んだ者も多数あったらしいが、ナチスは死体を割いてこれら隠された財宝を回収したと言われており、腹を割くためのコンクリート製の処理台も設置されていたという。

 アウスシュビッツの収容所から車で5分程走った場所にビルケナウの収容所がある。




 40ヘクタールもある広大な敷地が高圧電線で囲まれており構内には木造平屋建ての収容所が何棟か当時の姿のままで残されている。そしてこ
の収容所構内を監視するための見張り塔が一定の間隔で立ち並んでいる。この収容所では全体の配置を見張り塔の上から外観しただけであったが、ポーランド国内に50箇所近くあった強制収容所の中ではここが最大規模であったという。

 ニュールンベルグ裁判のときヘス元所長は収容所で約二百五十万人が殺害されたと証言した。犠牲者はポーランド系をはじめとする各国のユダヤ人、反ナチ活動家、共産主義者、捕虜、ジプシー等世界28カ国四百万人にのぼるともいわれている。

 アウシュビッツとビルケナウの強制収容所は人間が屑のように扱われ、その死体が資源として利用されたことを証明する場所である。

 これらの収容所はゲルマン民族の優秀性を誇り民族浄化政策を掲げるナチスによって人間性の尊厳に対するおぞましい破壊行為が密かに行われ人類史に汚点を残した場所であった。しかし、同時に人間の尊厳を守り、お互いに助け合う場でもあった。他人の身代わりとなって自分の命を犠牲にしたポーランドのコルベ神父はその最たる聖人であった。

 アウスシュビッツとビルケナウの強制収容所を見学した後の衝撃はあまりにも大きく、ユダヤ問題について多少詳しく調べてみた。

 ユダヤ人は起源前15世紀頃メソポタミア地方からパレスチナに移住したヘブライ人の一部族である。セム族に属し狭義にはイスラエル王国の分裂後南に建国したユダ王国に属した民族である。

 ユダ王国はヘロデ大王の死後徐々に独立を失い44年には全領域がローマ総督の直轄下に置かれた。これと前後して祖国の独立を求めるゼロット運動が活発化して総督の失政はユダヤ人を反抗に追いやった。

暴君として悪名の残るネロ皇帝の治世下で遂に反乱となり、一時はユダヤ全域を掌握したが、将軍ヴェスパシアヌスと戦って敗れ、エルサレムは70年に陥落し反乱は失敗に終わった。この時の死者110万人、奴隷として売却さ れた者9万7000人という(第一次ユダヤ戦争)。

 ハドリニアヌス帝の治世下で132年バル・コクバの指導のもとに再び 反乱が起こったが失敗に終わった。一時逃れていたダキア地方からも追い払われて流浪化(ディアスポラ)が決定的となった。135年のことである。

 この時の死亡者は50万人に及んだ(第二次ユダヤ戦争)。

 分散移住し漂泊し、キリスト教を否認してユダヤ教に留まったため特殊な民族とみられ迫害を受けることが多かった。キリスト教全盛の中世ヨーロッパにあっては異教徒であるため活動分野が限定され、商業、金融業に従事せざるを得ず、巨富を築いたことがまた反感を呼んだ。近代に入ってからも経済、学術、芸術等に才能を示す者が多く、各民族の間に混じって活動した。
結集力が強く、そのため排他的,独善的であると見做されることが多い。一八九七年にヘルツルがシオニスト団を結成し、パレスティナに安住の地を建国しようという運動が活発になった。しかしこの運動もその方法を巡って数派に分裂して抗争し、パレスチナ在住のアラブ人との紛争もあり、運動は容易に進まなかった。

 イギリスは東方政策の立場からこれに関心を持っていたが、第一次世界大戦を遂行する必要上、1917年11月にパルフォア宣言(イギリス外相バルフォアがパレスチナにユダヤ人の民族的母国の建設を認めることをシオニストに約束し宣言)を発しこの運動を支持すると同時にアラブ人支持も約し(フサイン・マクマオン条約)現在の紛争の種を作った。

 1920年のサン・レモ会議でパレスティナはイギリスの委任統治領となったが、相反する二つの公約を巡ってアラブ民族とユダヤ人の大紛争がしばしば起こるようになった。そこで1937年イギリスはパレスティナ分割案を発表したが、双方の反対で実現しなかった。

 第二次世界大戦後、イギリスは解決を国連に求め、国連総会でイギリスの委任統治廃止、パレスティナのアラブ、ユダヤ両国への分割が決議された。
この決定により、1948年5月14日イギリスの委任統治期限の満了とともにイスラエル共和国が誕生した。一方のアラブ諸国は国連の決議を不服としてこれを受け入れなかった。

バルフォア宣言は中東イギリス軍の対トルコ作戦基地パレスティナ守備のためユダヤ人住民の協力を得る必要から発したものであるが、他方でイギリス政府はフサインマクマオン条約によりオスマン帝国内のアラブ民族の独立を認めていたためこの二つの条約は衝突してアラブ民族とユダヤ民族のパレスティナ獲得紛争を引き起こす原因となったのである。大国のエゴイズムが残した負の遺産である。

 9月11日に発生した前代未聞のアメリカ国内での同時多発テロの根も煎じ詰めればこのパレスチナ問題に行き当たる。

 同時多発テロが契機となってアフガニスタンの貧困と難民問題に漸く世界の耳目が集まり始め真剣に考えようという機運が出始めているのが今回の事件がもたらした皮肉な効果である。人道という名のもとに爆弾の投下と同時に食料品や医薬品の投下される図は21世紀のブラックユーモア以外のなにものでもない。


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