前潟都窪の日記

2004年07月18日(日) 【天才を輩出した文化の香り漂う国・・ポーランド� �

▼ポーランドの旅 ワルシャワ、ジュラゾヴァ・ヴォラ、チェンストホーヴ
ァー、ヴィエリチカ、クラクフ、オフィシエンチム
               2001年10月12日〜10月20

 ワルシャワ市内の中心地へ入ってすぐ目に入るのは文化科学宮殿である。
これはスターリン様式といわれ現地の人達にはすこぶる評判が悪い。

 文化科学宮殿にほど近いメルキュールホテルを朝9時に出発してワジエンキ公園へ行った。この公園は別名浴場公園とも呼ばれている。

 公園の入り口に大きな銅像が立っていた。ポーランド建国の父といわれるビウスーツキである。




ピウスーツキはリトアニア貴族の出身で医学生時代から独立運動に参加しロシア皇帝アレキサンドル2世の暗殺計画に関与した嫌疑でシベリアに流刑された。帰国後の1892年にポーランド社会党に入党し、党機関紙の編集中に再度流刑されたが脱出した。1904年には来日して独立運動の援助を要請した。当時日本は日露戦争を戦っていた。

 彼は第一次世界大戦ではオーストラリア軍所属のポーランド軍団を指揮してロシアと対戦した。1817年10月のロシア革命により同年11月ソビエット政府はポーランドの独立と主権を認めた。第一次大戦でオーストリアとドイツが敗れたため1918年11月ポーランドは共和国として蘇った。このとき彼は国家元首に選出され司令官も兼任し1920年の対ソ連戦では大いに活躍した。彼は右派との対立から一時公職を離れたが1926年クーデターに成功した。その直後の選挙で大統領に選出されたが象徴的な地位の大統領への就任を辞退して実権を掌握した。彼が1932年に死去すると政局は混迷の一途をたどり1939年のナチスの侵略を受けることとなった。彼が国家元首の時日本の軍人8人が招聘されている。また第一次大戦後、日本に預けられたドイツ、オーストリアの捕虜の内でボーランド出身の者達との交流もあった。いろんな意味でピウスーツキは日本に関係の深い人物であった。

 公園に入っていくと秋色を帯びた林をバックにして広い池があり池を囲むようにして緑の芝生か植えられている。その芝生の一角に銅像があり人々が群れて写真等を撮っている。ショパンの銅像である。




 銅像は柳の木の根元に腰掛けて憂いを含んだ眼差しを下方に投げかけている若いショパンの像である。頭上には柳の枝葉が慰めるように垂れ下がっていた。

 公園の中を散策すると豊かに繁った樹木は黄葉しており地上には金色の落ち葉が敷物を広げたように重なっていて静かな時間が長閑に流れている。




落ち葉の上には孔雀が二羽ゆったりと歩いていた。その傍らには栗鼠がせわしなく餌を漁って走り回っていた。とても印象に残る光景であった。

 このような樹下道を散策しながら「白い家」の前を通り暫く行くと「水上宮」に至る。公園内を流れる川の上に営まれた宮殿である。これらの建物はポーランド最後の王であるスタニスフ・アウグストポーニャ・トーフスキーが18世紀後期に建てたネオ・クラシック様式の建造物である。水に映えてとても美しい。

 公園の出口にはヤン3世ソビエフスキーの騎乗の像がある。




馬はトルコ兵士を脚で踏みつけている。これは1683年にトルコ軍がウイーンを包囲したときヤン3世ソビエスキーがこれを撃破した姿を表現している。ポーランドの英雄の一人である。

 公園を後にして王宮広場へ行って旧王宮と周囲の美しい町並みを見学した。




旧王宮は現在は博物館になっている。第二次世界大戦でワルシャワ市内はその85バーセントが破壊されたが、ワルシャワ市民は根気よく瓦礫を片づけて元の姿に復元したのである。

日本であれば区画整理を行い機能本位の姿に街は変貌するのであろうが、彼らはこの街が栄えた時代の古き良きものを大切にする心を持っていたのである。これはドイツのドレスデンでも感じたことである。

 旧市街のバルバカンを通り抜けて行くとキューリー夫人の生家があって博物館になっている。ここにはキューリー夫人の使用した調度品等ゆかりの品々が陳列されている。

 ショパンの心臓が埋葬されていることで有名な聖十字架教会 、戴冠式等の行われた聖ヨハネ大聖堂等を見学してビラヌフ宮殿を見学した。

聖十字架教会





ビラヌフ宮殿





宮殿の庭




 この宮殿はボーランドのヴェルサイユ宮殿ともいわれ、ヤン3世ソビエスキー王が建立した建物である。室内には豪華なタベストリーや絵画装身具、調度品が展示されていた。天井に描かれたフレスコ画が印象に残った。

 ジェラゾヴァ・ヴォラはワルシャワから約50kmの地点にあるウトラタ川に沿った村でショパンの生誕地である。ここに1931年にショパンの生家が復元され、1949年にはその生家が博物館になった。 

 この博物館を訪問しショパンの生家の一室でピアニストのカタルツィーナ・モスシーシカ女史の演奏するショパンのピアノ曲を数曲鑑賞した。



 案内書を見てみるとショパンの父はフランス人で家庭教師としてこの地へ赴き、フレデリック・スカルべク伯爵の子供達の指導にあたった。伯爵の邸宅には遠縁にあたり将来ショパンの母となるユスティナ・テクラ・クシジャノスカが住んでいたのである。ショパンは生まれて8カ月後に両親とともにワルシャワに移り住むが、成長してからもしばしばここを訪れていて心の故郷になっている。

 ショパンの生まれた部屋や家族が使っていた調度品、ピアノ、ショパンの楽譜、幼少期の手紙等も展示されていてショパンの生育した環境を偲ぶことができる。博物館の周囲は公園になっており豊かに樹木が生い茂っていて訪れる者に暫しの憩いを与えてくれる。

 昼食を摂った後チェンストホーヴァーに立ち寄って「黒い聖母」の安置されているヤナス・グラ僧院を訪問した。ここはポーランド人の聖地になっており、沢山の善男善女がお参りに訪れていた。僧院の中には修道僧達が寄進した宝石や装身具の類や厨子、肖像画等が所狭しと飾られていた。僧院ではミサを、また付設された教会では結婚式を目撃するチャンスに恵まれた。ポーランドの宗教は圧倒的にローマンカトリックであるが、信者達の篤い宗教心のなせるせいか神父の後に続いて信者達が唱和する聖書の一節の音読にも異様な熱気と厳粛さがあり、傍らで参観している異邦人にも身の引き締まるものを感じさせる雰囲気が漂っていた。流石ポーランドにはローマ法王を生み出す宗教的な土壌があるなと感じたものである。

ポーランドの保養地ザコパネのホテルを出発してヴィエリチカへ向かった
ヴィエリチカの岩塩坑はクラクフから南東10kmの地点に位置するヨーロッパ最古の岩塩採掘場である。700年前から採掘作業が続けられていて、現在も営業採掘が続けられている。ショパン、ゲーテ、ロシア皇帝アレキサンドルI世、オーストリア皇帝フランツヨセフI世等もこの岩塩坑を見学して感動したと伝えられている。

14世紀にカジミシェ大王が街を囲む壁を築き塩の採掘と販売を王が管理することになった。塩からの収入は王室財源の3分の1を占めたこともあり、クラクフ繁栄の基礎であった。坑道の深さは64mから327m、九層で長さは200kmに及ぶ。現在はその上部三層のみが塩の宮殿として一般公開されている。

 長い板張りの階段を降りていって目に入る光景は鍾乳洞の特殊なものだと思わせる洞窟である。鍾乳洞と異なっているのは天井から垂れ下がるつららが見当たらないことである。幾つかある広い窟にはそれぞれに岩塩を素材としたキリストや聖母マリア等の彫像が飾られている。これらの彫像は概ね灰色をしていて大理石を思わせる質感である。

伝説によれば当時のポーランドの首都クラクフの近くで白い宝物(岩塩)が発見された頃のポーランド王ポレスワフ・フスティドリヴィはハンガリー王ベラII世の娘キンガ王女と結婚した。この時岩塩坑がハンガリーからポーランドへ移動してきたと信じられている。この伝説を表現したのが「大伝説の間」の岩塩の彫刻である。またこのキンガ王女のお土産に感謝の意を表すために作られたのが地下101mに作られた「キンガ礼拝堂」である。このキ ンガ礼拝堂は500人を収容できるといわれる地下の大洞窟である。この礼拝 堂には岩塩で作られた祭壇があり、岩塩の結晶から作られた大きなシャンデリアが幾つも飾られている。




 次いで古都クラクフへ向かった。クラクフは日本の京都に例えられる古都である。1320年にヴワディスワフ王がポーランドを統一して首都をクラクフに移した。 その後カジミェシ大王の治世の1364年にクラクフに大学を設立し、ヤギュオ王朝のとき、大学の改革がなされヤギュオ大学と名を変えた。この王は西ヨーロッパで圧迫を受けていたさまよえるユダヤ人を商業振興のために多数この国へ導入し都は栄えた。ヤギュオ王朝(リトアニアとポーランドの連合王国)の時侵略者のドイツ騎士団を1410年グルンヴェルトの戦いで撃破し領土は北はバルト海から南は黒海に至るヨーロッパ最大の国に拡大し大いに栄えた。この頃クラクフはプラハ、ウイーンとともに東ヨーロッパの一大中心地として栄えていた。当時のクラクフではヨーロッパ諸国王の会議が開かれヨーロッパ最強の王達が集まってきた。また全ヨーロッパの学者、思想家、芸術家達が集まりクラクフで活動していた。コペルニクスはこの頃の学者である。その頃の名残をとどめるのがヴァヴェル城である。色々な建築様式が混ざりあっているがルネッサンス様式の優れた例として挙げられる城である。

 クラクフの街の中央広場は中世ヨーロッパで最大の広場といわれ、周囲を取り囲んで建つギルドハウス等当時の面影をとどめる建物が立ち並んでいる。


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