前潟都窪の日記

2004年07月08日(木) 【中国の内陸部は目下普請中・・・河西回廊�А�

平成16年7月7日(水)
 朝8時にホテルの服務員達に見送られて酒泉市内の鐘鼓楼を見学にでかけた。今日は沙漠の中を次のオアシス都市張掖まで沙漠の中を長駆する日である。




ホテル服務員の見送り

 鐘鼓楼は4世紀中頃建てられたが消失し、清時代に再建された。東西南北にそれぞれ次のような門額が掲げられていて、東西南北を結ぶ要衝の地であったことが窺える。
 東迎華岳(東は華山を迎え)         
 南望祁連(南は祁連を望む) 
 西達伊吾(西は伊吾に達す。伊吾は現在の哈蜜) 
 北通沙漠(北は沙漠に通ず) 


 酒泉市内の楡の並木路が街の姿に風格を添えていた。
    
                 


         
鐘鼓楼



酒泉市内の楡の並木路

 張掖市近郊の黒水城へ立ち寄った。漢の時代に造られた古城跡であり、東西2km、南北やく2.5kmあり、見るべき建物は残っていなかったが狼煙台の跡は確認できた。
                       



黒子城跡              



黒子城狼煙台跡

 張掖市のホテルへ到着し沙漠走行中の汗と埃を流してからホテル近くの大仏寺の見学にでかけた。大仏寺の創建は西夏の永安元年(1098年)で大仏殿の中には体長34.5m、肩の幅7.5mの釈迦仏の涅槃像が横たわりその周辺には十大弟子の塑像がずらりとならんでいた。
 大仏寺の後にはチベット仏教式の土塔が建っていたし、各堂塔の庇に吊るされた風鈴がカランカランと涼しげに音をたてていた。燕が沢山飛び交っていたのも印象的であった。この寺の縁起は西夏時代にある国師が座禅をしていると物音が聞こえたので掘り返してみると地下から仏が一体出土したということである。
                        



大仏寺の本堂、この中に涅槃仏が祀られている  




チベット仏教式の塔
 バスで走行中、今日は日本では七夕でいろんな行事があるが、中国ではどのような行事をするのかとガイドの王さん、劉さんに聞いてみたが、本人達に知識がないのか特別な行事はしないという回答が返ってきた。本来1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は陰陽五行説からは陽の日であり、祝い事が行われる。何れにしてもこのような行事の本家は中国であろうと思っていたが現地人ガイドが何も知らないというのは意外であった。
 この日は時間に余裕があったが、疲れていたので市内探索にはでかけず、同行の橋田さんと囲碁を打ち通算三勝三敗の互角に持ち込んだ。

平成16年7月8日(木)
 この日は珍しく雨が降っていた。地元の人達は恵みの雨だと喜んでいたが、旅行者にとっては雨は鬱陶しいものである。幸い本日は移動日のようなもので雨が禍することもなかろう。
 朝9時に張掖市のホテルを出発して、次なる目的地、張掖市粛南裕固族自治県へ向かった。この当たりは河西回廊の中でも南北の幅が最も狭い地域であり、バスはやがて祁連山脈の麓へと入っていった。標高は2000m位である。小雨が降っているせいもあるが肌寒さを感じる程度である。
 バスを降りて前方を見ると祁連山脈の山々を後に控えてパオが幾つも並んでいる。裕固族の村落である。手前には地域活性化の目的で観光客誘致目的で建てられたと思われる新しい建物が軒を並べている。中国沿海部の発展に刺激されて山間の僻地にも開発の波が押し寄せてこれから売り出そうという村の意志が窺える。
                       



祁連山脈の山々の麓にある村落のパオ  



 バスの発着場付近にできた新しい建物
 この村落へ向かって暫く歩いて行くとジーパン姿でほっぺの赤い若い女性が出迎えてくれてパオ村の方へ誘導してくれた。ほっぺが赤いのは化粧しているのではなく、霜焼けしているのである。パオへ到着すると5人の若い女性が民族衣装を纏って、客人一人一人に白い布を肩にかけてくれて歌を歌いながら杯に酒を酌んで勧めてくれる。
                       



歓迎の白い布を客人一人一人に捧げる     
 



着席した客人に歓迎のお酌

 客人を歓迎する最初の儀式である。みると先程道案内をしてくれた女性も民族衣装に早変わりしている。考察してみると彼女はジーパンの上にスカートをつけているのだ。最初あったとき、なんだかお腹が膨らんでいるなという印象をもったが、スカートの裾をまくりあげて上着の下に隠していたのである。そのためお腹が膨らんでみえたという次第である。
 パオと書いたが我々が招き入れられたのは厳密にはパオではなく、仮設テントにすぎない。ここにも観光を売り物に地域活性化を図ろうとする中国人の悪しき商業主義が垣間見える。田舎者の純朴さを装った狡賢いしたたかさを感じ取ったのは筆者だけであろうか。 パオの中で椅子に着席すると、油で揚げたパンとそば粉を水に溶いたような飲み物が振る舞われた。バターも添えられている。当然の事ながら仮設テントであるから絨毯は一枚もなく、丁度品もない。従って客人は靴を脱ぐ必要もない。
 客人達が全員着席したのを見届けると、彼女達は客人に対し一人三回ずつ酌をしてまわりその都度声を合わせて歓迎の歌を歌うのである。
 歓迎の酌が終了したところで、5人の若い女性達による民族舞踊が始まった。音楽はCDに録音された曲である。三種類ほどの踊りが終了した時点で今度は客人も中に入って踊るよう誘いかけてきた。いよいよフィナーレであるらしい。旅の恥はかきすてとばかりに誘われるままに最初に踊りの輪の中に入っていくと、これに刺激されたように次から次へと客人達も加わり見よう見まねで踊り、楽しく交歓することができた。やがて終わりの時がきて今度は惜別の杯の勧めである。度のきつい白酒をしこたま飲まされて客人達は皆ご機嫌であった。
                       



民族舞踊            




客人と共にフィナーレ

 裕固族というのはウイグル族の先祖にあたり高地で遊牧と農業に従事してきてこの地に住み着いた少数民族である。この自治県に約二万人住んでいるが、中国に56種族ある少数民族の中でも最も人口の少ない民族であるという。
 裕固族の訪問を終えて山沿いにある馬蹄寺の石窟を遠くから見学した。
                        



馬蹄寺の石窟         




中央に盛り上がっているのが長城

 張掖のホテルへ一旦帰って昼食を摂った後、武威まで長駆280kmの沙漠のドライブである。途中漢代と明代の長城の遺構を発見し、バスを停めて写真を撮った。
 18時過ぎに武威の天馬賓館に投宿した。


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