加藤のメモ的日記
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2014年01月21日(火) 大鵬幸喜

お父さんが亡くなったのは2013年の1月19日。心室頻拍という診断でした。ただ、今振り返ると、2012年12月に入院する少し前から、心のどこかで死期の近さを予感していたのかもしれません。というのも、かって部屋にいた若い衆のことを思い出すようになったんです。「今あの子は何をしているんだろう」とか、「病気をしていたらしいな。大変だろうな」なんて言葉をふと口にするのを何度か聞きました。ほとんど使うことのなかった携帯電話で、級友に連絡をとったりもしていました。用事はとくにないんですよ。「おう、元気か」と声をかけて、思い出話を少しするだけでした。

ただ、一番の変化は、家族に対する接し方。心根は元から優しい人でしたが、昔は「このヤロー」とか「バカヤロー」と、怒鳴ってばかりだった。そんな人が、急に柔らかくなったんです。思い出すと切なくなるのは、亡くなる何日か前のこと。お父さんが、「芳子、芳子」と私を呼んだ。「なに?」と聞くと、「好きだよー」という言葉に続けて「お母さん、お前がいたから、俺はここまで頑張ってこれた。いろいろ大変な思いをさせたな。ありがとな」と言ってくれた。冗談っぽく「おい、チューぐらいしてくれや」とも。でも恥ずかしいのと、まさかその後すぐに亡くなるとは思いもよらなかったので、私は「何言ってんのよ」と、はぐらかした。あのとき抱きついて、チュッとしてあげればよかったって……。

もともと寂しがり屋でしたが、亡くなる数が月前からは何をすにも私が一緒でした。家政婦さんがいようと私を呼ぶ。ちょっと用事で外に出たとたん、「いいからすぐに帰って来い」と電話がかかってくるんです。多い時には何十回も着信があり、私もくたくたになりました。それだけ必要とされたのは、妻として喜びでもありましたが。

亡くなる日も、病室から真っ先に私に連絡が来ました。朝の8時くらいに、「よーしこー」とすごく調子がよさそうだった。「どうしたの?元気だね」と返事をすると「早く来てくれ」と。それが最後の言葉でした。電話を切った30分後ぐらいに、病院から危篤だと連絡がありました。

病室に駆けつけ、先生が手を尽くしてくれている間、「お父さん、お父さん。いつまでも寝てないで、お話ししよう」と、ずっと声をかけました。意識はもうなかった。でも、お父さんの眼の端から涙が流れたんです。声は届いていたんだと思います。ただね、一つ伝えておきたいのは、お父さんが弱さを見せたのは、私の前だけということ。世間に対しては最後まで大横綱・大鵬でした。

正月前に仮退院した後、再び病院に戻る日のことです。白鳳関が「ほんの少しでいいから、どうしてもお会いしたい」ということで、挨拶にいらっしゃった。具合が悪く、あまり話もできない状態だから、お父さんは不安になっていました。私も「無理しなくていいよ」と言っていた。でもね、いざ白鳳関の前に立つと、顔つきが一瞬で変わった。「おう、俺はこれからな、病院に行くけど、頑張るからな。お前はただ頑張るだけじゃだめだぞ。相撲も日常生活も、何から何まで、ちゃんと横綱らしくしないと、真の横綱ではないからな」と熱く語ったんです。私は胸がいっぱいになった。本人はもう精一杯なんです。

しんどくてしんどくてしょうがないんです。その証拠に、白鵬関と別れると「芳子、早く。もう病院行くぞ」と疲れ切っていた。だれよりも強くあろうとしたお父さん。そんな人だからこそ、私にだけ見せてくれた「弱さ」が忘れられないんです。



『週刊現代』1.4


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