加藤のメモ的日記
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社会性のあるテーマに切り込んだスケールの大きな作風でベストセラーを生み出した作家、山崎豊子(やまさきとよこ 本名・杉本豊子さん)が10月29日、心不全のため死去した。88歳。大阪。船場の商家に生まれた。1944年、京都女子大国文科を卒業して、毎日新聞に入社。大阪本社調査部を経て45年、同学芸部に移り、副部長だった故・井上靖さんから新聞記者の手ほどきを受け、作家としての資質を見出された。
新聞社勤務の傍ら 、生家をモデルに10年を費やしたデビュー作「暖簾」(のれん)を1957年に刊行。翌年、大阪女の逞しさを描いた「華のれん」で第39回直木賞を受賞したのを機に、毎日新聞を退社し、作家に専念した。
パリを舞台にした「女の勲章」(1961年)の取材中に元同僚と結婚。旧家の遺産相続を扱った「女系家族」(1963年)、大学付属病院を舞台に医学界の暗部にメスを入れた「白い巨塔」(1965〜69年)をはじめ、閨閥政治と資本の癒着を追及した「華麗なる一族」(1973年)など、実地調査と取材に基づいて社会問題に切り込む長編小説を相次いで発表した。
その後も、シベリア抑留を扱った「不毛地帯」(1976〜78年)、日系二世の兄弟の悲劇を描いた「二つの祖国」(1983年)、中国残留孤児の数奇な運命をたどった「大地の子」(1991年)の戦争三部作で、社会派作家としての評価と人気を不動にした。1993年、「大地の子」などの印税をもとに「山崎豊子文化財団」を設立し、帰国した中国残留孤児の子供を援助した。日航ジャンボ機墜落事故を素材にして、200万部を超えるベストセラーになった「沈まぬ太陽」(1999年)の後、「山崎豊子全集」(全23巻)を2005年に完結させた。
1969年には、沖縄返還交渉時の密約報道事件をもとにした「運命の人」を刊行し、同年の毎日出版文化賞特別賞を受賞した。作品の多くが映画、ドラマ化され社会的な反響を呼んだ。新潮社広報宣伝部によると、山崎さんは週刊新潮で、連載小説「約束の海」を執筆中で、予定している第一部を20回分をすでに書き終えており、80歳を超えても続編の意欲を見せていたという。
「あなたはうんと詩を読んだらいいですね」。ある女性記者にデスクはこう勧めた。戦後間もない小紙の大阪本社学芸部、デスクはのちの作家・井上靖、女性記者とは同じく山崎豊子さんだった。のちに井上の代表的短編になる「猟銃」の原稿を発表前に読ませてもらい、「詩のような小説ですね」と感想を述べたのも当時の山崎さんだった。いわば新聞社においては、コラムこの大先輩にあたるお二人だ。
「あなたはおそらく生涯、、原稿用紙と万年筆だけあればいい人なんだ。臆せず書くことですよ」これは新聞社を離れた山崎さんへの週刊新潮の名編集者、斎藤十一(じゅういち)の助言である。そう背中を押された連載「ぼんち」が山崎さんのプロの作家としての出発点となる。「白い巨塔」「不毛地帯」「大地の子」「運命の人」。常に時代を代表する話題作を世に送り続けた。
先の斎藤に言われた「芸術家に引退はない。書きながら棺に入るのが作家だ」との言葉そのまま、週刊新潮に「約束の海」を連載中の訃報だ。「小さい山も、大きな山脈も、断崖絶壁もあった」。そう振り返る作家生活の底に流れていたのは、戦争で亡くなった同世代の友への思いだったという。「今も友達の顔が浮かぶ。生き残った者として何をなすべきか。書くものの根幹はいつもその問いがあった」執筆を牢獄に例えた山崎さんは長編が仕上がると「完結!出獄!」と叫んだという。物語でしか描けぬ時代と人間の真実を苦行僧のように書き続けた。
『毎日新聞』10.1
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