加藤のメモ的日記
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2013年08月11日(日) 不思議なキリスト教

ユダヤ教とキリスト教はどこが違うか

○キリスト教を理解するときのポイントは、実はユダヤ教があってキリスト教が出てきたということです。ユダヤ教を一方で否定しつつ、他方で保存し、その上にキリスト教がある。つまり、キリスト教は二段ロケットのような構造になっています。イエスが登場したとき、彼はキリスト教という新しい宗教をつくろうとしたのではない。ユダヤ教の宗教改革みたいな感じで出てきたんだと思います。だからまず、キリスト教は、ユダヤ教との関係で理解することが必要です。

キリスト教の非常に独特なところは、自らが否定し、乗り越えるべきユダヤ教を、自分自身の中に保存し、組み込んでいるところです。否定的なものとして肯定しているとでもいいましょうか。この点を端的に示している事実は、キリスト教の聖典が、旧約聖書、新約聖書という形で二重になっていることです。ユダヤ教に対応する部分が旧約聖書であり、イエスの後につけ加わったのが新約聖書です。おもしろいのは、旧約聖書を廃して新約聖書がキリスト教の聖典になっているのではなく、キリスト教の中に、旧約聖書がそのまま残されていることです。

この点におけるキリスト教のユニークさは、他の宗教と比べるとよくわかります。世界宗教になるような宗教はいきなり現れるものではありません。その背景には先行するさまざまな宗教があるに違いない。しかし、自分自身が否定し、乗り越えるべき先行宗教を。自分自身の内部に保存しているような世界宗教は、キリスト教以外にはありません。例えば仏教を考えてみましょう。仏教はそれ以前からあったインドのヒンドゥー教の前史である、古代宗教バラモン教を否定する形でてきますね。第三者の目から見れば、バラモン教と仏教には共通した世界観がありますが、しかし、仏教自身は、バラモン教的なものを日常的に自分自身の中に残すなどということはなく、バラモン教を否定する新たな世界観・真理として出てきます。

仏教と対照的なのは、イスラム教です。イスラム教は、先行するユダヤ教やキリスト教を明らかに前提にしている。ただ、イスラム教の場合には、それらを否定するというより、再解釈した上で、自分の世界の中に取り込んでいます。だから聖典も、旧約と新約のように二種類あるのではなく、コーランという形で単一なものとして統合されている。

しかし、キリスト教の場合は違います。ユダヤ教的な部分を否定しつつ、自覚的に残している。その二重性は、二種類の聖典という形で明白な痕跡を留めています。したがって、まずはユダヤ教をわかっていないとキリスト教がよくわからないというポイントがあると思うんですね。そこで、最初にうかがいたいのは、ユダヤ教とキリスト教はどう違うのか。違いのポイントはどこにあるのでしょう?

●議論の始めなので、ユダヤ教についても、キリスト教についてもよくわからないという前提で、二つの宗教の関係を端的に述べてみましょう。では、その答えは、ほとんど同じです。ユダヤ教もキリスト教も「ほとんど同じ」なんです。たった一つだけ違う点があるとすると、イエス・キリストがいるかどうか。そこだけが違う、と考えてください。

少し補足しましょう。この二つはどこが同じか。「一神教」である。しかも、同じか目をあがめている。ユダヤ教の神は、ヤハウェ、エホバともいう。その同じ神が、イエス・キリストに語りかけている。イエス・キリストは神の子だけれども、その父なる神は、ヤハウェなんです。それを「父」とか「主」とか「GOD」とか言っている。ユダヤ教とキリスト教に、別々の神がいると考えてはいけません。ちなみに、イスラム教のアッラーも同一の神です。違うのはこの神に対する人々の対し方です。

人々は神に対するのに、間に誰かを挟みます。これが、神の言葉を聞く「預言者」です。旧約聖書は、イザヤとかエレミアとかエゼキエルとか、もっと古くは、モーセとか、いろんな予言者がいたという。彼らの言葉を「神の言葉」と考え、それに従う。すると、ユダヤ教になります。

キリスト居も、この態度は同じです。だから彼ら、旧約の預言者をみな預言者として認める。でも、その締めくくりに、イエスが現れたと考える。イエスの出現は旧約聖書の預言者が、やがてメシアがやってくると、予言していたものです。メシアはヘブライ語で、救世主という意味です。それをギリシア語、ラテン語に訳すと「キリスト」です。特に、『イザヤ書』の真ん中より少し後ろの、第二イザヤの預言といわれる部分に、そのことが書いてある。

イエスの先輩格に。洗礼者ヨハネという予言者がいて、イエスに洗礼を授けた。自分の後から来る人はもっと偉大だ。といったので、人々は、ナザレのイエスこそ待望のメシアではないかと期待した。そのあと、イエスが十字架にかかって亡くなると、イエスは神の子だったという人々が出てきた。

「神の子、イエス・キリスト」は、予言者ではない。預言者以上の存在です。なにしろ本人が神の子なのですから。自分の言葉がそのまま神の言葉である。神の言葉を「伝える」預言者とは違う。人々はイエス・キリストをあがめることで、神をあがめることになる。そこで、旧約聖書の預言者は重要でなくなった。なにしろ、神であるイエス・キリストと直接連絡がとれたんですから。この時点でユダヤ教とキリスト教がわかれたのですね。

○なるほど、視界が非常にクリアになりました。イエスキリストの存在がユダヤ教とキリスト教の分かれ目にあるということですね。キリスト教にとってイエス・キリストの存在がいかに大切かということは、同じ一神教の伝統の中にあるイスラム教と比較するとよくわかります。イスラム教ではムハンマドが出てきますけど、イエス・キリストとはちょっと違います。ムハンマドはイスラム教にとって特別な人ですが、「神の子」だとか「キリスト(救世主)だとかではなくて、やはり預言者の一人ですね。

だから、イスラム教は、ユダヤ教の預言者という系列から逸脱していない。それに対して、キリスト教の場合には、予言者の系列の先端に、イエスキリストという予言者とは質的に異なるものが出てくる。そう考えると、イエスキリストこそはポイントです。


『不思議なキリスト教』橋爪大三郎・大澤真幸


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