加藤のメモ的日記
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2013年05月15日(水) 旅順と南京

日中50年戦争の起源 

最前線の兵士と軍夫が残した日記から浮かび上がる「日本人と中国人の戦争」

丸木が見た「道路には清兵の死体…首ばかりのもののあり」という情景は砲弾の炸裂のためか、それとも日本軍将兵による斬首が行なわれたためか。「どうしたわけかまえもしだらなく死に居」た娘は、単なる戦闘の巻き添えとは言い難いように思われる。丸木が描いた死体を見下ろす日本兵たちのなんと目つきの鋭いことか。「敗残国の人民はあわれなものなり」というのが丸木の感想であった。

このように、旅順虐殺事件の惨状は、すでに金州において規模こそ違えど現実のものになっていた。第2軍はかかる事態を経験したにもかかわらず、清軍の不規律のせいと片づけてしまって、敗残兵と住民との区別に対し何らかの対策をとろうとしなかった。このことが、旅順の事件で国際的批判を浴び、対応に苦慮させられる一因となったといえよう。

旅順虐殺事件とは、双台溝と土城子の間で清軍と日本軍奇兵隊が交戦し、日本側は戦死者11人を出す敗北を喫した。日本側の資料による清軍の死者は旅順口で約4500人。捕虜355人であった。また市街に散在する清国人の死体2000人、そのうち500人は非戦闘員だったとする。捕虜の数字は異常に少なく、しかもそのうち259人は応援に来た海軍陸戦隊の一小隊が捕えたものであり、陸軍は基本的に捕虜をとらず、無差別に殺害した疑いがある。清国側の記録では死者2万人とされる。英米の従軍記者が新聞紙上でこの行為を非難したため、大本営は大山第二軍司令官に弁明を求め、虐殺の規模、原因については異論があるものの、市街の兵士人民を混一殺戮した事実は認めざるをえなくなった。

第二連隊兵士の激昂

関根が土城子の先頭において清軍が日本兵の死体を損壊、凌辱したと聞いたのは、翌19日のことだった。彼の日記には「首は斬して見えず、手足は散々断たれ、腹は裂きて胃の腑を取り除き、石を詰めて充たしめ、甚だしきは陰茎を切断して有り」という惨状が記され、それを見た兵士たちは「切歯扼腕勇々坦々に堪えず」、「瞬時も早く旅順を陥落せんとする志気」を高めた。

軍夫の見た捕虜殺害

11月21日、旅順総攻撃の日、軍夫丸木は旅順郊外の栄城子にいた。以前より「旅順虐殺事件」の分析は旅順市街地だけでなく、近傍地域における一連の事態を事件に含めて行なわれるべきだとの問題提起がなされている。大谷が丸木日記からは、確かに市街地以外でも無抵抗の捕虜殺害が行なわれいたことがわかる。

11月22日 水師営方面に大砲小銃おびただしく聞こゆる。先頭は腹減ったので土城子に休止。少し間があるから薩摩芋の徴発と出かけた。農家に入りそこに穴ぐらがあった。その穴に積み上げた薩摩芋がたくさんあり、4〜5名にて取りに入り、初めのうち薄暗くゆえ気もつかず居りしが、何やらうなり声のするので、見れは清兵の負傷者なり。皆穴より飛びいだし我が兵士を呼びたつれば、以前の清兵穴の中より飛びいだし、逃げようとするところへ大勢かけきたり、メチャメチャに切り倒したり。

殊に哀れに思いしは、婆さんに19くらいな娘と子供と23〜4の男が付き添い荷物を天秤に担ぎたるを、我が兵士これを捕えてその男を連れ行く。娘婆さんとも泣き叫ぶ、哀れなるはその男、どこへ連れてゆかれしか、定めし殺されたるべし。

25日清兵により約40名が殺されたというのは、軍夫が自衛用の武器を取り上げられていたのも一因だったかもしれない。ところで軍夫自身も捕虜殺害に関与していたことが、以下の丸木の日記における、旅順近郊での師団長による「チャン公」捕虜試し切りの描写からもわかる。

2月27日同所残兵を捕え来り斬殺するにあたり、係の人より百人長にドウダ斬ってみんかといわれ、物は試しだやってみろと、まず最初斬り方を教えられ、それから縄付きを引きたり、ひとり後ろに縄を持つ、チャン公はハアヨハアヨと泣き居り、容易よきゆえ刀抜きはなせば、チャン公逃げかかる間に首切り落としたり、その時の百人長の顔色青ざめ、惣身ふるえ、ただ茫然ツー立ッたさま血刀さげたるふう、なんとなく驚いた様子、気しょくの悪そうなあんばい、そばに見て居た人が君どうしたといわれて心付く、その時われ思う二。こういう人が神経を起こす元ならん。

また軍夫丸木は「ドウダ斬ってみんか」という軽い言葉で始まった捕虜、もしくは市民の試し切りを見ていたが、南京戦では師団長ら捕虜を使って軍刀の試し斬りをさせ、37年12月13日の日記に「捕虜7名あり、直ちに試し斬りをなさしむ、時あたかも小生の刀もこの時彼をして試し斬りせしめ、頸二つを見事斬りたり」と書いている。

旅順と南京の共通性

旅順における一連の事件と、昭和12年(1937)に起こった南京虐殺事件との共通性に思いをはせる。南京虐殺事件は『世界戦争犯罪事典』によると、1937年12月13日の南京陥落前後約2ヶ月の間に起こった中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵(民服に着替えて安全区などに潜んでいた兵士)、一般住民に対する虐殺などの不法行為を指し、その実態や犠牲者数は、上は30万人から下はゼロまで、をめぐっていまだに激しい論争が日本の国内外で続いている。



『旅順と南京』


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