加藤のメモ的日記
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冷たい雨のそぼ降る朝、私は銀座8丁目のリクルートビルに行った。今年の4月8日に76歳で亡くなった江副浩正さん(リクルート創業者)にお別れをするためである。白菊で飾られた献花台の真ん中には江副さんの遺影があった。他に人はいなかったので、私は一人その前に立った。手を合わせ、心の中で江副さんに語りかけようと思ったのだが、自分の気持ちをうまく整理することができず、ただご冥福を祈るだけだった。
私は江副さんに対して負い目がある。24年前、私が共同通信の検察担当記者だった時、江副さんはリクルート事件で東京地検特捜部に逮捕された。あとでわかったことだが、彼は113日間にわたる逮捕拘留期間中、拷問のような取り調べを受けていた。本来であれはそうした不当捜査を暴くのが記者の役割である。だが、私はその役割を果たさなかった。それどころか、特捜の尻馬に乗って江副さんを批判する記事を書き連ねていた。なぜ、そんな馬鹿なことをしたのだろうか。
彼の回顧録『リクルート事件・江副浩正の真実』から東京拘置所での取り調べの模様を再現してみよう。リクルートコスモスの未公開株譲渡が賄賂だったことを否認する江副さんに対し、神垣清水検事が怒鳴りだす場面である。
「バカヤロー!おまえは申し訳ないことをしたと国民に謝罪すべきなのに、何たる傲慢な態度だ。そんな態度をとられたのは、俺は初めてだ。特権をなめるな!特捜がどんなに恐ろしいところかお前にはまだ分かっていない!」神垣検事が机を持ち上げる。積み上げられた書類が私のそばにドーンと音をたてて落ちた。「立てーっ!横を向けっ!前え歩け!左向け左っ!」壁のコーナーぎりぎりのところに立たされた私の脇に立って、検事が怒鳴る。
壁にもっと寄れ! もっと前だ!」鼻と口が壁に触れるかどうかのところまで追いつめられる。目をつぶると近寄ってきて耳元で、「目をつぶるな!バカヤロー!俺を馬鹿にするな!俺を馬鹿にすることは、国民を馬鹿にすることだ!この馬鹿!」と鼓膜が破れるのではないかと思うような大声で怒鳴られた。鼻が触れるほど壁が近いので、眼を開けているのは非常につらい。目がかすみ、耳はぼうっとしてくる。
「目を開けていろ!動くな!」しばらくすると壁が黄色く見えてくる。目が痛くて、瞳孔が縮んだせいか壁に黄色いリングが見える。悲しくないのに涙が出てきた。壁に向かって至近距離で立たされ、目を開けることを強いられるのはとても辛い。耳元の大声も辛い。かってスキーで骨折し6週間ギブスをはめていた左足が痛い。次第に足の裏がうっ血してくる。江副さんは逮捕前から精神が不安定で、入院先の病院でこう討つ剤を処方されていた。自殺を考えたこともある。そんな人が長期拘留され、こんな取り調べを受ければ、精神に変調を来すのは目に見えていたが、特捜は容赦しなかった。
あんな悪いことをしたのだから当然だ、と言われる読者もおありだろう。だが、その後の裁判でわかった事実を検証すると、それは誤解だと言わざるを得ない。確かに江副さんがバラ撒いた未公開株の譲渡益や、政治献金の額は膨大だった。しかし、それらは政治家や官僚の便宜供与に対する賄賂というより、江副さんの「タニマチ」感覚で配られたものだ。贈収賄事件としての立件には無理があった。リクルート事件は、検察とマスコミが作り上げた幻の疑獄事件だったと私は今は思う。
にもかかわらず、江副さんは懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を受けた。最大の理由は、彼が容疑を認める調書に署名したからである。NTT・労働省・文部省の元トップや藤波光世・元官房長官らの有罪判決の根拠になったのも、江副さんの「自白調書」だった。特捜は江副さんの「自白調書」をとるのにさまざまな策を弄した。その一つが「このまま否認を続けると、リクルートNO2の位田社長を逮捕するぞ」という脅しだ。位田社長が逮捕されると、リクルートは資金的に行き詰って倒産する恐れがあった。
もう一つは「贈賄を認めれば早期釈放と、執行猶予判決が得られるような軽い求刑を約束する」という”司法取引”だった。江副さんは悩み苦しんだあげくに「位田逮捕の恐怖」と、早期保釈などの誘惑に抵抗できなくなり、「自白証書」に署名せざるを得なかったという。4年前、この回顧録を初めて読んだとき、私はひどい衝撃を受けた。登場する検事たちを私はよく知っていた。彼らは良識ある人たちだ。中には私生活でお世話になった検事もいる。彼らがこんな取り調べをしていたとは…。
だが、それを知らなかったで済ませることが私にできるのか。当時を私はたぶん他社の誰より特捜に食い込んでいた。夜ごと検事らと暗い路上や電車の中、あるいは小料理屋で密かに接触していた。彼らにしばしば情報を提供し、その見返りに捜査情報をもらう、そんなことを繰り返しながら私は彼らの仲間になった。仲間になれば情報は入る。だが捜査を批判的に見る目も失われていく。仮に当時の私が江副さんに対する不法捜査を知っていても、特捜批判の記事を書けなかったかもしれない。情けなく、恥ずかしいことだが、私は記者としての一線を踏み外していたのである。
「メディアが捜査官で、検事が取調官。そのような構造は司法の効率を上げるという点は良いかもしれない。だが、検察がメディアを頼りに立件しているため、メディアが”第三の権力”となっていることを、私は身ももって実感した」と江副さんは書いている。1989年6月、江副さんは約4カ月ぶりに釈放された。翌日から彼は「拘禁反応鬱状態」で孤独感に苛まれ、NTTの新藤元会長や藤波元官房長官への背信的な調書に署名したことに対する後ろめたさで自己嫌悪に駆られた。
「いっそ死んでしまいたい」と思うようになり、うつろな様子でマンションの部屋をぐるぐる歩き回った。夜中に怯えて目が覚め、寝汗でシーツが濡れることもあった。周囲の人たちは変わり果てた彼の姿を見て悲しんだ。おそらく”拷問”の傷跡は彼の心から生涯消えることはなかっただろう。メディアと検察が一体化して事件を作り上げる病理現象はリクルート事件後も止んでいない。願わくば、これからの記者たちが私と同じ轍を踏まぬよう祈るばかりである。
『週刊現代』3.9
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