加藤のメモ的日記
DiaryINDEXpastwill


2012年11月07日(水) モノ作り大阪の土台

5世紀から7世紀にかけて、大阪にコリア世界の古層が堆積された。この古層について、今までは漠然としたことしかわかっていなかったが、最近の歴史学は、新しい視点から、この古層の詳しい組成を調べ始めている。朝鮮半島の南端部には、この時代に「加耶」(かや)という国があった。国といっても、北方に隣接した百済や新羅と違って、まとまった国家の体をなしているのではなく、群小の国家が寄り集まって「加耶連合」のようなものを作って、百済や新羅に対抗していた。今の歴史学は、この加耶の人々のたどった命運に注目するのである。

この加耶は任那(にんな)とも呼ばれて、日本と深い関係を持っていた。もともと朝鮮半島と西日本とは、ひとつながりの共通世界を作っていたが、使われている言語にしても、方言程度の違いしかなかったし、宗教もほぼ共通で、半島と列島にまたがって親戚が広がっており、お互いの間を日常的に小さな船で行き来していた。加耶諸国の北にあった百済が、中国文化からの強い影響を受け、新羅に高句麗の力が及び始めていた時代になっても、加耶は日本との強いつながりを保ち続けていた。

最近の研究は、大阪における在日コリア世界の古層を実際にかたちづくっていたのが、生粋の百済人や新羅人ではなく、じつは加耶諸国から「難民」として渡来した人々であったことを、明らかにしつつある。この加耶は、北からの圧迫を受け続けた。一方では百済や新羅から文化的影響も強く受けて、次第に百済化、新羅化の度合いが強まっていった。加耶諸国では次第に、国家としてのまとまりが失われていった。こういう情勢の中で、加耶の人々の日本への移住が始まったのである。彼らは百済や新羅の高級な文化を身につけていたので、列島に渡ってくると、各地の豪族から喜んで迎えられた。この中でもとりわけ大勢力を形成したのが、「ハタ(秦)」と呼ばれたグループで、その数は数万人の規模だった。

秦氏には、採鉱や治金や養蚕・機織などの等の技術に巧みな、「職人」系の人々が多かった。彼らは列島の広い範囲に散っていった。古代の日本列島の開発においては、この人たちが関わらなかったところの方が、むしろ少なかった。大阪湾に辿り着いた秦のグループの大半は、ここには定住せずそのまま淀川を渡って山城盆地に入り、太秦(うずまさ)や深草に大きな村を作った。

7世紀になって、加耶諸国が半島を統一した新羅に呑み込まれて、姿を消してしまうまで、200年余りもの間に、そこからは実におびただしい人々が、日本に移住してきた。彼らは身に付けた高度文化によって百済系とか新羅系とか呼ばれるようになったが、実際のところは、西日本の「日本人」ともともとはほとんど違いのない、加耶諸国から渡ってきた人々なのであった。

ものづくり大阪の土台

大阪に辿り着いて、上町(うえまち)台地に上陸した渡来の人々は、平野と猪飼野(いかいの)を中心に、自分たちの世界を築いていった。彼らは自分たちのことを「百済人」と称した。滅亡した加耶諸国の名を名乗るよりも、その方が通りがよかったからであろう。それにこの人たちの多くは、百済で発達していたさまざまな技術を身につけていたから、農民であると同時に、「技術者」として重宝がられた。寺社建築の知識を持った高級技術者から、呪術装飾品である「玉」をつくる細工人、たたら製鉄と鉄の道具造りに巧みな工人、音楽家や芸人、それに優れた陶器をつくる陶人に至るまで、「百姓」の名に値する多彩な職人が、こうして大阪に住みつくことになった。

後の聖徳太子の時代になると、四天王寺建設のために、「本物の百済人」である高級宮大工が、正式に招聘されてきた。彼らは四天王寺の周辺に職人街や楽人町をつくって住んだ。工事が終わっても帰国しないで、彼らはそのまま大阪人になった。その子孫たちは、四天王寺に雅楽を奉納する音楽家や舞踏家として、現在にまでその技を伝えている。宮大工の子孫は、ギルド(組)をつくって、日本の建設業の先駆けとなった。千年を越える歴史を持つ「日本最古の会社」である建設組合「金剛組」(こんごうぐみ)こそ、このとき招かれた宮大工の系譜に直結している、大老舗である。

「ものづくり大阪」の基礎が、こうして打ち固められた。ヨーロッパの職人結社フリーメイソンの紋章には、コンパスや定規が描かれているが、大阪に定着した職人たちにも、大工の使う「物差し」と伝説の聖徳太子を、自分たちの結合の象徴とした。そのために各地の太子堂には、物差しを持った少年姿の聖徳太子の像が安置されることになった。奈良で悲劇的な運命を辿った聖徳太子とその一族のことは、むしろこの大阪において、後々までも深く崇敬されて続けたが、その背後には大工の使う物差しが、秘密のシンボルとして、不思議な波動を送り続けていたのである。

7世紀以後、これほど大量の「アラキ(新米)」の人々が、朝鮮半島から渡ってくることは、20世紀の前半に至るまでおこっていない。渡来の波がいったん途絶えた後、千年を越える月日の間には、コリア世界との差別をはかりながら、独自性を求めて形成されていった日本の文化との、ハイブリッド化が進んでいった。DNAも混じり合って、コリア世界産の血は、もともとが混血的な「日本人」の、重要な構成要素の一部となって、深く沈澱していった。しかし、古層コリア世界の存在は、たとえ表面からは見えなくなっていても、大阪におけるモノ作りの技術の中に、消すことのできない痕跡を刻んでいる。



『週刊現代』1.28


加藤  |MAIL