加藤のメモ的日記
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2012年05月26日(土) 一人で死んだらダメなのか

どうも、「孤独死」と「孤立死」は、違うもののようですね。最近、親子や姉妹が共倒れで亡くなっていたというニュースが多いのですが、行政など周囲の手が差し伸べられない状態で、二人以上の人が他人に知られず亡くなっていた状態が、孤立死。一人で亡くなっていた場合が孤独死。……といった使いわけのように思われる。言葉はどちらでもいいのですが、誰にも看取られずに死亡している人のことを、ことさら「孤独死」「孤立死」として取り上げる風潮に、私はどうも腑に落ちない感じを受ける者です。

孤独死とか、孤立死はまず、死因ではありません。「窒息死」なら窒息して死んだ人のことを、「ショック死」ならショックを受けて死んだことを意味しますが、「孤独死」は孤独によって死んだわけではない。何らかの病や事故によって死亡した時にたまたま一人でいたという、死亡時の状態を示した言葉です。

単なる状態を示す言葉がとてもショッキングで。それが山口美江さんや山城真吾さんのように芸能人だったりするとニュースにまでなるのは、日本には「死ぬ時は家族に看取られてこそ、まっとうな人間」という感覚があるからでしょう。死ぬ時に誰に看取られるかがその人の人生の総決算だということになっているので、一人で死んだ人は「可哀想」「悲惨」と思われるのです。山口さんの場合も、週刊誌の見出しには「看取ったのは二匹の犬」、山城さんの場合は「老人ホームで死亡」などとあり、つまりは「人には看取られなかった可哀想な人」ということが強調された。

一人で誰にも看取られずに死ぬという状態があまりにも特殊だから、そこには「孤独死」という、まるで孤独が死因であったかのような名称がつくわけで、家族に看取られて死ぬという状態には「看取られ死」などの名称はありません。自分は誰かに看取られて死ぬものだという確信がある人は、孤独死する人に同情し、「孤独死を減らさなければならない」と、深刻な顔をするのです。しかし私は、孤独死する可能性が大いにある者。世間が孤独死に対して「悲惨」「可哀想」と思っている様子に対して、どうもカチンとくるのでした。「ま、私達は心配ないけど、でも可哀想よねぇ一人で死ぬだなんて」という、今の言葉で言うなら、そこには”上から目線”が感じられる。

独りで暮らす人の割合がうんと高くなった今、一人で死ぬ人が増えるのは、当然と言えましょう。家族がいる人であっても、配偶者に先立たれ、子供たちが独立したら孤独死は他人事ではない。だというのに孤独死がこれほど悲惨がられるのは、一つには「人は看取られて死んでナンボ」という意識が強いのと、もう一つは遺体に対する「可哀想」という意識が強いせいでしょう。

孤独死の場合は、ボディすなわち遺体が、長期にわたって発見されないことがあります。生きている時は一人で放っておかれても、遺体になったら、それは一人のままにしてはいけないものとなる。かくして、遺体発見まで時間がかかればかかるほど、孤独死には同情が集まるのです。

しかし一人で暮らす人が減る気配がない今、孤独死に「お可哀想に」というだけでなく、孤独死にもまた尊厳ある死として捉えたいと私は思うのです。だとするなら、誰かが一人で死んだとき、なるべく早くそのことが周囲にわかるシステムが必要なのではないか。芸能人の孤独死は大騒ぎされても、東日本大震災において一人で亡くなった方のことは、ほとんどといっていいほど、表に出ません。マスコミに取り上げられるのは必ず、家族を亡くされた方々であり、その悲しみです。私はその映像を見て涙する一方で、一人で亡くなった方のことを思うのでした。震災によって亡くなった一人暮らしの方はたくさんおられるだろうに、残された者がいない死には、ニュースバリューがないようなのです。

そればかりでばく、震災時に1人で怖い思いをした人もいれば、今も一人で途方に暮れている人も多いことでしょう。しかし、「震災後、絆を深めて生きていく家族」といった物語の影に、一人でいる人々は隠れている。きっとそんな人たちが孤独死をしたときは、「増える震災孤独死」などと、悲惨さを強調して書かれるに違いないのに。

震災報道において、「絆」とか「家族」といった文字が目立つのは、日本中の人がその手の者に飢えているからなのでしょう。そして私たちは、日本中が温かな家族愛に満ち溢れているような気になっている特殊な状態であるからこそ、看取られない死は「孤独死」と呼ばれます。が、これからは看取られない死も特殊ではないものとなり、死の形態でその人の人生が量られないようになっていくのではないでしょうか。



『週刊現代』


加藤  |MAIL