加藤のメモ的日記
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| 2012年04月05日(木) |
”危険な”哲学(13) |
”神は死んだ”現代哲学の先駆者ニーチェは20世紀の現実を、不気味なほど見事に予測していた。最高に危険な哲学。
ワーグナーが生まれたのはニーチェの父と同じ年である。その他の点でも、ワーグナーはニーチェの父と似ていた。ニーチェは無意識のうちにワーグナーに父親の代理を求めたのかもしれない。ニーチェにすれば、ワーグナーは初めて会った一流芸術家である。そして、理想を同じくする初めての人間だった。また、短い会合のあいだに、ワーグナーがショーペンハウアーを深く敬愛していることを知る。ワーグナーのほうも、俊才ニーチェの言葉に乗せられ愛想をふりまく。ニーチェに自分の優れた点を次々とみせつけた。ニーチェはこの偉大な作曲家に圧倒され、深い影響を受ける。華麗なオペラを生みだす華麗な才能に魅惑されたのである。
ニーチェはキリスト教にも否定的な眼差しを向け、主張する。キリスト教は文明を弱体化させている。キリスト教にディオニソス的要素をつきつけなければならない、と。つまり、ニーチェにいわせれば、人間の衝動は常に二つの面をもつのである。人間の善良な衝動にしたところで、暗黒の側面や退廃的な側面を持つ。「愛と憎しみ、崇拝と軽蔑の双方が存在しなければ、理想と呼ばれるものは生じない。肯定的側面から重要な衝動が生まれる場合もあれば、否定的な側面から重要な衝動が生まれる場合もある」ニーチェはさらに議論をおし進める。
キリスト教は否定的な側面から生まれた。確かに、キリスト教はローマ帝国で力をもった。しかし、それは抑圧者の宗教、奴隷の宗教としてである。キリスト教の生命に対する考えを見ればこのことがよくわかる。消極的な態度に終始している。だから、キリスト教は絶えず、人間の力強い積極的な本能を押し殺そうとした。この抑圧は意識的な場合(柔和や謙虚さも、この種の抑圧なのだ。それは、弱者のあがき、つまりルサンチマンの無意識的な表現なのだ)次に、ニーチェは同情心に牙をむく。キリスト教のうちにも、本当は「強者の倫理」の感情が潜んでいる。人間の感情には、本来「強者の倫理」に近いものがあるのだ。キリスト教はこれをねじ曲げている。このねじ曲げた欲望を満足させ、「本当の気持ち」を押し殺している。ニーチェは叫ぶ。神は死んだ!キリスト教の時代は終わった!
ニーチェの人生は孤独だった。人生の大部分を孤独に過ごしている。安い部屋を借り、安いレストランで食事をすまし、散歩を繰り返す。しかも、その間激しい頭痛の悩まされる。頭痛を治療し、できる限り痛みを和らげようとするのだが、嘔吐に苦しみ一睡もできない夜も、たびたびあった。激しい苦痛に襲われ、週のうち三日から四日も何もできないことすら、珍しいことではない。具合は悪化し、絶えず激しい苦痛にさいなまされるようになる。未公刊のノートの中で、ニーチェは次のように言っている。「キリスト教は終焉を迎えようとしている。キリスト教と結びついて離れない道徳。これが自分の首を絞め、自分たちの紙すら否定せざるをえなくした。キリスト教徒は『誠実さ』を高く掲げ広めてきたが、その『誠実さ』のために、自分への嫌悪感を呼び起こしてしまったのだ。世界と歴史に関するキリスト教的解釈への嫌悪感を……。『神は真理だ』という信仰は『すべて偽り』だという熱狂的な信念へと変わってしまった。
ニーチェはついに、臨床病理学的な意味で精神に異常をきたすようになる。そして二度と回復することはなかった。今日の医学水準でも、救い得ないほどひどい状態であったと思われる。狂気に陥った理由としては、過労、孤独、苦痛があげられよう。しかし、根本的な原因は梅毒である。ニーチェの梅毒は第三期に達していた。ここまで症状が進行すると、精神に異常をきたすようになる。病院にしばらく滞在していたが、やがて退院して母親のもとに送られる。母親が彼の面倒をみることになったからだ。ニーチェに、かっての毒気はみられない。一日のほとんどの時間を一種の恍惚状態で過ごす。このため、植物人間のような状態になってしまう。意識がややはっきりしている時には、過去の思い出がぼんやりと顔をのぞかせたようである。何らかの拍子に本を手に取ると、「僕も、本を書かなかったかなあ」とつぶやいたという。ニーチェの面倒を見ていた母親は、1897年に帰らぬ人となる。母の後を継いだのは、妹エリザベート・フェルスター・ニーチェ。彼女が、ニーチェの看護をする最後の人間となる。
キリスト教は一見したところでは、まったく違うことを説いているようにみえる。謙虚さ、隣人愛、兄弟愛、憐れみ……。キリストの掲げる理想は「権力への意思」に真っ向から対立するようにみえる。けれども、実際は、これらの理想は「権力への意思」を少しばかりねじ曲げたものにすぎない。キリスト教はローマ時代の奴隷の宗教に他ならず、奴隷根性から解き放たれることはなかった。キリスト教にみられるのは、直接的な「権力への意思」、つまり権力者の「権力の意思」ではない。奴隷の「権力への意思」だ。しかし、「権力への意思」があることには、変わりがない。
「権力への意思」。この鋭く危険な概念に対する最後のコメントしては、やはりニーチェ自身の言葉を引用するしかない。「権力へのこの渇望は時の移り変わりに応じて、その姿を変えてきた。だが、源は何もかわっていない。今でも、熱く燃える火山のようなものだ……。かって『神のために』したことを、いま人間たちは『お金のために』している。……いまの時代にあっては、お金こそが最高の権力感を与えてくれるのだ」
ニーチェの超人の典型を見てみよう。「ツァラトゥストラ」である。「ツァラトゥストラ」とはどのような男か?途方もない熱意と真剣さにみち溢れていると同時に、退屈であきあきするような男だ。その行動には、精神異常者の危険な兆候すら現れている。もちろん「ツァラトゥストラ」は一つの寓話である。しかし、一体何の寓話だろうか。それなら、キリストに関する寓話と比べることにしよう。
「キリストが山上で垂訓でで説いた寓話は、一見したところでは、とても単純である。幼稚にすらみえる。けれとも、よく考えてみると、単純でも幼稚でもない。深いものがある。「ツァラトゥストラ」の寓話のほうも、単純で幼稚である。よく考えてみても、そうである。だが、そこに込められたメッセージは深い。「キリスト教的価値観を捨てろ!」というのだ。神は死んだ、しかし、神のいない世界では、一人ひとりの人間が自分の行動に対して、絶対的な責任を負わなければならない。際限のない自由の享受するためには、自分自身で自分の価値をつくりだしていかなければならない。神の意に沿った行動もない、罪も報いもないのだ。
『90分でわかるニーチェ』
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