加藤のメモ的日記
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2012年04月01日(日) 神風特別攻撃隊(12)

結果からみるならば、少なくともわが海軍は、最初から捨て身的な覚悟であった。戦後、無謀な戦争を開始したとして、幾多の批難が主として当時の指導者に向けられた。しかしわれわれ一意真剣に戦ったものは、指導者といえどもわれらと等しく、誠意を持って祖国に幸いあれと最善と信ずるところ遂行したものと同情し、こうなったのもまた歴史の必然であろうと受け取っている。すでに歴史の必然と見てとった以上、将来かかる戦争の再び起こらないことを心から欲するものは、すべからく他人のことを善意を持ってみることから始めなければならない。私はこのことこそ、今度の戦争の厳しさが教えている大事なことの一つではないかと思っている。

同じようなことは特別攻撃隊のことについてもいえる。戦争において、いわゆる捨て身の戦法は決死体当たり攻撃の例は、古今東西にわたって枚挙にいとまがない程である。その動機や当事者の心境にはもちろん相違はあろうが、不惜身命、勇断決行した点では、国境を超えておのずから相通じるものがあるように思われる。とくにわが国にあっては、この「捨身」が昔から強調されていたから、その戦例の多いことは他に類を見ないほどである。

しかるに神風特別攻撃隊が、文字通り特別に云々されるのは、どういうわけであろうか?それは次のような特殊性を挙げることができよう。それは必然の体当たり攻撃を組織的、計画的、集団的に続行した、ということである。事実この点に関しては、確かに史上類例がなかったといえよう。そして、これは主として、必死の場を与え(命じ)た者の側に問題があるとされ、戦後多くの批判もこれに対して加えられている。当然のことである。しかしながら、この作戦にその生命をささげていった青年たちが、なにか妄信的であり、狂信的でさえあったというような一部の批難は、十分に事の真相を究めたうえでの発言とは思われない。

今まで見てきた通り、彼らは特別に狂信的な訓練を受けてきたのではなかった。開戦以来、青年士官の奮戦はめざましく、その大部は相次いで戦死し、特攻作戦機において、海軍兵学校出身の青年飛行士官で生き残っていた者は、真に指をもって数えうるほどであった。したがって特攻隊員は、その数において、一般の学校から祖国の危急に際して戦前に立ったものが、過半数を占めるに至った。彼らは教養もあり、十分な知性も理性もあった。特別攻撃隊に指定された夜静かにピアノを弾いていた久納中尉のように、また自分の生命が惜しかったためではなく、自分の技量の未熟を考えて三日三晩にわたって志願を躊躇した植村少尉のように、あえて未曾有の非常手段によって、危機に瀕した祖国を救おうとしたのであった。

緊迫した戦場にあって、攻撃の第一線に立つという一種の圧迫のようなものはあったかもしれないが、彼らは決して強制されたのではなかったのである。沖縄の戦いで高等工業出身の一中尉は、その人材を惜しんだ上官から特攻志願を再考するように言われたにもかかわらず、その志願の意志をついにひるがえさなかった。

彼ら特攻隊員の多くは、もの静かな若者であった。数日中に死と直面することを運命づけられた時においても、その冷静さを決して失わなかった。彼らの残していった遺書のなんと冷静なことか。沖縄戦で桜花隊として出撃していった土肥中尉は、その出撃の最後の瞬間まで、宿舎の整備に心を砕いていた。その淡々たる心境は、古来その名をうたわれている碩学、高僧のそれと比べて、いささかも劣るものではないといってよいだろう。


8月16日未明

8月15日の晩は、大西中将は若手部員を次官宿舎に招いて、話が深更にまで及んだ。大西中将が宿舎で自決したのは、その翌16日の夜明けであった。すぐ副官がかけつけると、まだ意識があった。日本刀で腹一文字にかき切っていたが、とどめがうまくいかなかったらしい。中将は「治るようには、してくれるな」と言っただけであったという。そしてその晩の午後6時に絶命したのである。かくて特別攻撃隊の父、大西滝次郎中将は戦争の終結した日の夜、みずからの刃に伏した。かれの指揮下で特攻隊となって祖国のために散華した多くの部下将兵の英霊と、その遺族に謝するために……。



『神風特別攻撃隊の記録』


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