加藤のメモ的日記
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| 2011年12月10日(土) |
天皇の戦争責任 (56) |
アメリカの新聞『ニューヨーク・タイムズ』(1月13日)は、全体として判決を支持しながら、天皇の問題については次のように述べている。「東京裁判の被告席には、欠席者が一人あった。それは天皇である。天皇は裁判にかけられないことになり、法廷の権限外に置かれることになったが、これがよかったかどうかは、未来のみが答えるであろう。この決定により人命が救われ、占領をより容易にし、また日本の民主化が容易になったとすれば、それは賢明な措置だったかもしれない。いずれにしてもこれは未来に待たなければならない」
天皇が裁判にかけられないことによって「人命が救われた」というからには、この記者は、もし、天皇が裁判にかけられたならば、当然、彼は有罪として絞首刑に処せられたに違いない、と考えているのであろう。ただ。裁判にかけることがよかったかどうか、その回答を未来にゆだねているだけである。
その回答を、1948年からみて「未来」にぞくする現代の青年たちのあるものは、あるしかたで提出している。すなわち、ファシズムと戦争が再び世界中に荒れ狂うのを、断固として阻止しようと決意しているドイツ連邦共和国の学生たちは、1971年10月12日、連邦の首都ボンに日本天皇裕仁を迎えて、「裕仁は戦犯である」と叫んだ。この叫びは、『ニューヨーク・タイムズ』の記者の提起した問題との関連でいえば、裕仁は当然裁判にかけられるべきであったという解答とみなすことができる。
彼らの回答は完全に正しい、と私は主張する。日本の近代現代の歴史を研究している私は、これらの学生は、根拠のない侮辱を天皇に与えたのではなく、疑う余地のない真実を述べたものである、というのをはばからない。実際、天皇裕仁は、
第一、現行の「日本国憲法」の施行される以前においては、「大日本帝国憲法」およびその他の法令により、大日本帝国の唯一最高の統治権者として、とりわけ大日本帝国軍隊の唯一最高の絶対的な統帥権者として、
第二、「臣民」たる日本国民の無条件的な忠誠・服従および尊崇を要求する、大日本帝国の道徳的・精神心的な唯一最高の権威として
第三、裕仁自身があらゆる条件・状況を熟慮したうえでの判断により、 1931年9月18日に開始された日本軍の中国東北地方侵略の戦争(いわゆる満州事変)から、1945年9月2日連合国に対する正式降伏文書に調印するまでの、一連の侵略戦争を遂行し、指導した。そのことによって裕仁は、アジアの数千万人を虐殺した。すなわち彼は「戦争犯罪人」であり、「ファシスト」であり、「5000万人のアジア人を」殺した最大最高の元凶である。
天皇裕仁は、陸海空の統帥についても、決してロボットでもなければん傍観的批評家でもなかった。このことは、張鼓峰事件のとき戦火の拡大を裕仁が断固として押さえたことをみてもわかるし、『杉山メモ」』に、裕仁がいかに統帥部を指揮しているかがはっきり出ている。よって、天皇は輔弼機関のいうがままに動くので責任は輔弼機関にあり、天皇にはないという論法に、何の根拠もないことは、まったく明白である。
天皇の戦争責任を問う現代的意味
東条首相はそのひんぴんたる内奏癖によって、天皇の意向をいちいち確かめながら、それを実現するように努力したのであって、天皇をつんぼさじきに置いて、勝手に戦争にふみ切り、天皇にいやいやながら裁可させたのではない。そして東条は、赤松秘書官の手記によれば、天皇親政の問題に関連して、次のように語っている。
「憲法で”天皇は神聖にして侵すべからず”とあるのを介して、学者は、天皇には何の責任もないと論じている。しかし、自分は大東亜戦争開戦前の御決断に至る間の御上の御心持をお察しして、天皇は皇祖皇霊に対し奉り大いなる御責任を痛感せられておる御模様を拝察できた。臣下たる我々は戦争に勝てるかということのみを考えていたのである。それに比べて比較にならぬほどの大きな御責任の下で、御決断になったものである。これは開戦一か月余になって初めて拝承できた私の体験である」
ほかでもない内奏癖の東条首相が、天皇はいかに重大な責任感を持って開戦を「御決断になった」かを述べている。対米戦争の終結が天皇の裁決「御聖断」によるのとまったくまったく同様に、対米英戦争の開始も、天皇の責任を持った「御聖断」によって行なわれた。同様に1931年9月開始の中国東北地方侵略以来の不断に拡大した中国侵略戦争も、天皇の主体的な「御裁可」とその前段の「御内意」により実現されたのであった。1931年から45年に至る日本の侵略戦争に対する天皇裕仁の戦争責任は、もはや一点の疑いをもいれない。それはまったく明白である。
しかし、占領軍の極東国際軍事法廷は、天皇裕仁の責任を少しも問わなかった。それはアメリカ政府の政治的方針によることであったとはいえ、われわれ日本人民がその当時無力であったためでもある。降伏決定はもっぱら日本の支配層の最上部のみによって。人民には極秘のうちに「国体」すなわち天皇制護持のためにのみ行なわれた。人民は降伏決定に何ら積極的な役割を果たすことができなかった。そして降伏後も人民の大多数はなお天皇制護持の呪文に縛りづづけられた。日本人民は天皇の戦争責任を問う大運動を起こすことはできなかった。従って、アメリカ帝国主義は、天皇の責任を追及するのではなく、反対に天皇をアメリカの日本支配の道具に利用する道を選んだ。
こうして、日本人民は、天皇裕仁の侵略戦争責任=犯罪を追及することなく、アメリカ帝国主義の支持する象徴天皇制を受け入れて、現在に至っている。この間に再軍備は進み、1950年以来とくに54年以来、日本軍国主義は復活してきた。復活した軍国主義は、ふたたび天皇の権威を頭にいただこうとしている。1973年5月26日、天皇は増原恵吉防衛防衛長官から、日本の軍事状況の「内奏」を受け、彼を旧軍隊のよい所をうけついで軍備をいっそう発展させるよう、激励した。
裕仁天皇は降伏のさい、明治天皇が三国干渉を受け入れたのと同じ気持ちで、ポツダム宣言を受け入れるといったが、してみると、彼も明治天皇と同じく、他日の復繡を心に誓ったのであろうか。この事件につき、日本共産党も含めてすべての野党は、増原長官が天皇を政治的に利用したということを厳しく責め立てて、増原を辞職させたが、彼らは増原を責めるだけで天皇がすでに日本軍国主義の精神的主柱となり最高の鼓舞者になっていることについて、一言の批判もしなかった。ということは、すでに天皇の権威は国民の批判を遠慮させるところまで復活されているということである。この状況のもとで、1931年〜45年の戦争における天皇裕仁の責任を明白にすることは、単なる過去のせんぎだてではなく、現在の軍国主義再起に反対する戦いの、思想的文化的な戦線でのもっとも重要なことである、といわざるをえない。
『天皇の戦争責任』
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