加藤のメモ的日記
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2011年11月06日(日) 胸を張って死のう

どんなに金持ちでも、どんなに健康でも「死」から逃れることはできない。そして死んでしまったらどうなるのか誰にもわからない。だから、多くの人が「死への恐怖」を抱く。しかし、絶対に避けられないことであれば、前向きに、いっそ楽しむような気持で待ったほうがいい。簡単ではないが、心の持ち方次第では、死をポジティブに受け入れることは十分可能だ。

例えば医師として多くのガン患者などの治療にあたってきた帯津氏(帯津病院名誉院法・75歳)は言う。死ぬことに対し、未知なるものに出会う楽しみのようなものを持っています。死んでどうなるかは考えてわかるものではありませんが、私は死後の世界はあると思う。そこへいくと、先に逝った両親や友人と再会できる世界…。そう考えると、死については始めてスペースシャトルで宇宙へとび出す時のような、少しの不安と大きな期待を感じますね」

また帯津氏は「いつも『今日こそが人生最後の日だ』と考えていると、生きることにも死ぬことにも一種のときめきを感じるものです。私は毎日、晩酌をするんですが、その際も『これが最後の酒だ』『これが最後の湯豆腐だ』と思いながら飲んでいる。すると、『長く生きたんだからもう死を受け入れてもいい。この世でやり残したことはむこうでやろう』という気持ちになってきます」

衆議院議員の鳩山邦夫氏(63歳)は、外での会合でも自宅でも、毎晩日本酒で3〜4合。焼酎だと2合ぐらいを飲む。毎朝1時間ほど散歩をしたり、食事で油ものを減らしたりした他は、さほど生活習慣に神経質になってはいないという。身体機能が衰える60歳前後から死への恐怖もどんどん薄らいできた。今は健康ではありますが、『この年まぢ着てきたので、病気になっても仕方ないか』『人間も一つの生物なのだから、いつ死んでもおかしくない』と達観できるようになりました」

手術は受けないという早坂氏よりさらに”過激”なのが、、生物学者で早大国際教養学部教授の池田氏(64歳)だ。何しろ池田氏は、ここ7〜8年ほど、水虫の治療以外は一切、医師の診察も検診も受けていない。血圧もコレステロール値も計っていないため、自分の数値が高いか低いかもわからないという。「がん検診も受けたこともないよ。受けても受けなくても、死亡率にはほとんど変わらないというでしょう。早めにがんだとわかっても、仕方がないんだよ。そうとう具合が悪くなって、身体が二進も三進も行かなくなり、やむを得ず病院に行ったら『手遅れです。余命3ヶ月ですね』と言われる…。そううやって死ぬのが、僕には一番いいね」

検診を受けてがんが早期発見されると、手術や抗がん剤治療を受けるのが一般的だ。しかし、そのストレスや辛さに耐えて3年や5年を生きるのは大変なこと。であれば、自分の病気のことなど何も知らずに暮らしてから死ぬほうがいい、というのが池田氏の意見だ。

「死が怖いから、人間は『魂は不滅』などと言って宗教を考えたんだろうね。僕は死んだら何もなくなると思っているし、そうなるのが怖いとも思わない。死んで魂が不滅でも、別にいいことはないよ。そんなことはどうでもいいと思って、健康診断も受けずに毎日酒を飲んでいます。だいたい60歳を過ぎて、それ以上長生きしても仕方がないと思う。

父親の死を看取ったことも大きかった。島田氏の父親は、眠ったままだんだん息が弱くなり、やがて止まって、亡くなったという。そのせいで、島田氏の中に「死は眠りの先にあるもの」という印象が強く残り、それも恐怖を感じない一因になっているそうだ。

「定年後にやることがなくなると、死や死後のことについてあれこれ考えてしまい、かえって苦しい思いをするケースが目立ちます。一方で『あれもしたい』『これもしたい』と一種の煩悩に駆り立てられて活動を続けている人や、やり残したことがある人のほうが、最期を楽に迎えられるようです。死の怖さを考える暇などありませんから。また、漠然と『長生きしたい』と思っているくらいだと、死ぬことへの不安が募る。具体的に『80歳まで生きたい』『100歳まで生きよう』などと考える人のほうが、人生を充実させから落ち着いて死を迎えることができます」

一つの出来事がきっかけで死生観がガラリと変わる人もいる。作家で精神科医の加賀乙彦氏(82歳)にとって、転機は58歳の時だった。カトリックの洗礼を受けたところ、死が怖くなくなったという。人間の体のシステムから、地球所の生態系、そして宇宙の成り立ちまで、人智でいくら考えてもわからないことは多い。それをを創り上げた大きな存在に対して加賀氏は祈り、心の平安を得ている。自分については『いつ死んでも構いません』と祈っています。

浄土真宗本願寺派の僧侶で宗教学者の釈氏は「日本文化の一番の古層には、、人は死ぬと『大きな命』に帰っていき、時々またこちらの世界にやってくる、という意識があると思います。神道が成立したり、仏教が伝来する前から存在するものですね。そこおかげで『先に逝った人とまた会える世界があるだから、死を怖がらなくてもよい』という死生観が発達したのかもしれません」

僕自身は僧侶として『お浄土に帰る』というストーリーの中で暮らしていますし、お浄土に帰れるような生き方をしたいと願っています。ただ、死のことはいくら考えても解決しませんから、最終的には『仏様にお任せしよう』と。突き詰めると、死に関する私の姿勢は『お任せ』の三文字になるわけです。だから自分なりに死と向き合える。誰の前にも必ず立ちはだかる、死という関門。あなたは胸を張ってそこを通ることができるだろうか。



『週刊現代』


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