加藤のメモ的日記
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大阪最大のディープ地帯である西成・釜ヶ崎(行政的な言い方をすれば「あいりん地区」)の形成の歴史をたどり直してみると、それがいかに深く、鳶田(飛田)墓地の存在と結ばれているかが見えてくる。釜ヶ崎は、鳶田墓地の拡張として形成されたと言っても過言でないのである。釜ヶ崎は鳶田と今宮村の間にある。今宮村は、古くから海民の住んだ由緒ある漁村で(天皇に魚貝を献上する、供御人に選ばれていたこともある)、海の富の神様であるエビス神を祀った神社で、よく知られている。
これにたいして、荒陵(あらはか)の鳶田には、四天王寺の墓地が広がっていた。この墓地には、千日前墓地わきの処刑場も付属していて、千日前墓地わきの処刑場が比較的軽い犯罪者用であったのに対して、社会的重罪を犯した人たちが、ものものしい雰囲気の中で刑を受ける場所だった。
千日前墓地がそうだったように、鳶田墓地の周辺にもたくさんの非人が住んでいた。非人と呼ばれた人たちは、もともと古代の墓守の系譜に属する、由緒正しい人々である。彼らは古代には、死の儀式の専門家として、墓づくりや葬送儀礼を担い、さまざまな特権を持つ聖なる人々であった。
ところが古代社会が解体してくると、これらの人々の運命は激変していった。死の領域の仕事をつかさどる聖なる人々という価値づけから一転して、死の穢れに触れることを職業とする賎しい人々と見なされるようになった。中世になると、墓守たちの一部は、今の警察にあたる検非違使(けびいし)の配下に組織されて、犯罪捜査や罪人の処刑にかかわるようになった。
古代の墓守の末裔たちはまた、葬送儀礼ののプロとしてたくみに詩を詠んだり、舞を舞ったり、歌を歌う芸能者でもあった。墓場とは、古い生命が朽ちて、その屍体から新しい生命が生まれ出てくる、偉大な転換の場所でもある。そのために、死者を送る芸能とともに、豊かな富や生命が無から生まれてくるさまを描く、いろいろな祝歌やおめでたい舞なども、得意のレパートリーだった。
こうして、古代において死の儀礼の専門家であったこの人々は、近世には警察機構の末端に組織されて、犯罪捜査を行なったり、罪人の処刑を担当させられたりするグループと、おめでたい季節がやってくると華やかな衣装や楽器を身につけて、全国各地に散っていく芸能者のグループとに変貌していった。古代にさまざまな特権を持っていたこの聖なる人たちは、近世には常民から蔑まれる存在に変わってしまった。
鳶田から釜ヶ崎へ
鳶田は古代以来、連綿と続く歴史を持つ大墓地らしく、明治維新まで周辺にたくさんの非人を住まわせていた。彼らの仕事は、警察関係と芸能関係とに二分される。警察関係の仕事としては、犯罪者の捜査と追跡、捕縛した犯罪者の護送、夜警、罪人の預かりと牢屋の警護、刑場での実務一切を担当した。浮浪者や乞食の取り締まりも、この人たちの仕事であった。
社会が成り立っていくために必要な、警察機構の最下部を担っていたとも言えるし、社会とアウトローとの間をつなぐ、媒介者の働きをしていたともいえる。この制度は、明治維新でいったん解体させられるが、そうはいっても伝統の力は根強く、ついこの間まで、大阪府警の深層部にはアウトローとの媒介機能というものが、いきいきと保たれていた印象がある。
『週刊現代』
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