加藤のメモ的日記
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2011年04月10日(日) 生と死は同じ世界にある (23)

死後の世界という場合、何が死後に存続するとお考えですか。

「実は私は、死後の世界という表現はあまり正しいものだとは思っていないんです。死後の世界とは時間的、あるいは空間的にこの世とは隔絶した向こう側の世界であることを意味しています。私はどうもそのところが根本的に違っているのではないかと思うのです。この世とあの世とは時間的にも空間的にもわかれているのではなくて、実はつながっているのではないか、いやもっとといえば、同じ世界なのではないか。同じ世界なのに、見え方が違っているのではないかと思うのです。一つのたとえ話をすると、私が子供のころテレビは三チャンネルしかなくて黒白でした。放送時間も朝から夜までで、ニュースなんて15分しかありませんでした。衛星中継なんてありませんでしたから、外国の出来事は黒白のスチール写真で報道されました。ところが今のテレビは41チャンネルもあって、カラーでステレオで、ニュースは24時間流されていて、地球の反対側は衛星中継でリアルタイムで見られます。昔は昔で、世界を見たつもりになっていたけど、実はほとんど何も見ていなかったのだということが今になってわかります。死を境にして起こる変化というものも、そういう世界の見え方の変化ではないかという気がします。我々はこの世における認識が全てだという気がしていますが、そうではない。我々はこの世では、実は何も見ていないに等しい。死によって人間の認識能力はとてつもなく拡大し、これまで見えなかったいろんなものが見えてくる。その時、どういうものがどういう風に見えてくるのか、この世にとどまっている我々にはとても想像がつきません。ただ、臨死体験者の報告で多少はその想像がつくということなんじゃないでしょうか」

でも、臨死体験と死そのものとは違いますね。

「違います。ですから、彼らの報告も、死そのものの向こう側に広がる世界を、ほんの小さな穴を通して見たという程度のことにすぎないと思います。本当の向こう側はやはり自分が死んだときでないとわからないと思います」

じゃあ、死ぬのが楽しみですか。

「ええ、早く死にたいということじゃないんですが、とても素晴らしいことなんだろうと期待しています。私が臨死体験の研究をやって本当に良かったと思うのは、死に対する恐怖から完全に自分が解放されたことです。今の私には、死に対する恐怖はまったくありません。そして死に対する恐怖がなくなったことで、生きることがとても大切に思えてきました。逆説的に聞こえるかもしれませんが、そうなんです。昔、死によって人間の存在が完全に消滅して無になると思っていたころは、だからこの生を大切にとは思わず、生きるなんて大したことじゃないんだと、一種のニヒルな感情を持って人生を眺めていました。それが、死後の生を確信するとともに、逆にこの世がとても大切になり、もっとたくさんのことを学びたい、もっとたくさんの人と知り合い、もっといい人間関係を結びたいと考えるようになったのです。つまり、死後の生の問題から解放されるとともに、もっと生きてる間にやるべきことがあるということに気がついたのです。死んで向こうの世界に行った時に、『お前は生きている間にどういうことをやってきたのか』と問われた時に、『いやあ実は、たいしたことは何もやっていません。人は死んだらどうなるかを考えているうちに一生が終わってしまいました』と、頭をかきながら答えるような羽目にはなりたくないということです」

その確信はいつも全然揺るぎませんか。時にはもしかしたら違うんじゃないかと思うことがありませんか。

「世界が私が考えた通りの構造になっているかどうかという点についての哲学的な確信という点では、時に揺らぐことがあります。しかし、死後の生の存続を確信し、死に対する恐怖がなくなり、死後の問題で心がかき乱されることがなくなったという点がゆらいだことは一度もありません」


 体外離脱とは何か

臨死体験の内容は。体験者の生まれ育った文化によってかなり大きな違いがみられるということを書いた。それは、臨死体験が現実体験ではなく、脳内のイメージ体験にすぎないということを示唆しているように思われるが、前章で紹介したパスリチャさんの見解のように、文化的な違いは体験そのものの核心部分にあるのではなく、体験の周辺部にあるにすぎないと考えれば、現実体験説とも矛盾しなくなる。あるいは、原始的体験事実は普遍的なのだが、それを解釈し、言語表現するときに、体験者の文化のフレームワークの中に入れられてしまうのだと考えてもよい。かくして、文化的影響という側面から見ることも、臨死体験の謎を解く決め手にはならないわけである。

これまで、さまざまな角度から臨死体験を分析してきたが、結局、そもそも臨死体験とは何なのかという根本的な疑問がなかなか解けないのである。根本的には”死後の世界”を現実に体験したのだとする現実体験説と脳内に生まれたイメージにすぎないとする脳内現象説とがあるが、これまで述べてきたことでわかるように、どの角度から見ても、どちらが正しいと一方的にはなかなか決められない。文化的影響の問題にしてもそうだったが、解釈の仕方ひとつでどちらの説も成り立ち得るのである。

だが、もし本当にそうなら、現実体験説が有利という論点が一つあった。それは体外離脱によって、普通では知りえない情報を知ったというケースである。

これまで出てきた例をいくつがあげてみると、ルーカネン・キルデがラップランドで体外離脱して、千キロ離れたヘルシンキの実家で、母親が花模様のドレスを縫っているところを見たり、姉が男友達とデートしているところを見たりしたという例。バーバラ・ハリスがサークルベッドで失禁した時、看護婦がそれを洗いもしないで、ただ乾燥機の中に放り込んだだけで済ませてしまったのを体外離脱中に見たという例。スイスで交通自己にあって体外離脱した人が、事故による渋滞に巻き込まれた車の中に事故の犠牲者のために祈ってくれている女性を発見し、その車を、その時見たナンバーを手掛かりに探し当てたという話。シアトルの病院にかつぎ込まれたマリアというメキシコ人女性が体外離脱して、自分のいる病室とはずっと離れたところにある窓の張り出し部分に古いテニスシューズがあるのを見つけたという話などがある。日本の例では、松本武さんが、体外離脱で祖母の頭を上から見て、隠されていたハゲを見つけたという話。

これらの話がもし本当だとすると、脳内現象説は崩れることになる。脳内現象説は、臨死体験ははじめから終りまで脳内で起きている現象だとする。体外離脱したというのは、体験者の単なる思い込みに過ぎないと考える。自分の肉体を天井あたりから見下ろしたというのも、どこか遠くへ飛んで行って何かを見たり、誰かと会ったりしたというのも、すべて夢と同じイメージ体験にすぎないのである。

しかし、もしそうだとするなら、体外離脱中に外界についての新しい客観的な情報が得られるわけはない。だが、これらの例においては、イメージ説では説明できない客観情報が体外離脱中に得られたということになっている。それが本当なら、何らかの認識主体が、本当に肉体を離れて、その客観情報を持ちかえったのだと考えるほかはない。

レイモンド・ムーディーやキュブラー・ロスなどが、結局、現実体験説を信じるようになったのも、こういう体験との出会いが決め手になったということである。臨死体験の他の要素は、どちらの説でも説明可能である。しかし、ここにあげたような客観情報を持ち帰った体外離脱例だけは、脳内現象説では説明できない。ムーディーやロス以外にも、現実体験説を信ずるという研究者に何人か出会ったが、彼らになぜ脳内現象説を否定するのか、その最終的な根拠は何なのかと問いただしてみると、結局、この問題を持ち出す人がほとんどなのである。そういうわけで、私も基本的には脳内現象説が正しいだろうとは思っているものの、もしかしたら現実体験説が正しいのかもしれないと、そちらの説にも心を閉ざさずにいる。             

よりよく生きることへの意欲

ただ実をいうと、私自身としては、どちらの説が正しくても、たいした問題ではないと思っている。臨死体験の取材に取りかかった初めのころは、私はどちらが正しいのか早く知りたいと真剣に思っていた。それというのも私自身死というものにかなり大きな恐怖心を抱いていたからである。

しかし、体験者の取材をどんどん続け、体験者がほとんど異口同音に、死ぬのが恐ろしくなくなったというのを聞くうちに、いつの間にか私も死ぬのが怖くなくなってしまったのである。これだけ多くの体験者の証言が一致しているのだから、多分、私が死ぬ時も、それとよく似たプロセスをたどるのだろう。だとすると、死にゆくプロセスというのは、これまで考えていたより、はるかに楽な気持ちで通過できるプロセスらしいということがわかってきたからである。

そして、そのプロセスを通過した先がどうなっているか。現実体験説のいうようにその先にすばらしい死後の世界があるというなら、もちろんそれはそれで結構な話である。しかし、脳内現象説のいうように、その先がいっさい無になり、自己が完全に消滅してしまうというのも、それはそれでさっぱりしていいなと思っている。もっと若い時なら、自己の存在消滅という考えをそう簡単には受け入れられなかったかもしれないが、今は、ある程度年をとったせいもあるのか、それほど大きな心理的障害なしに、そういう考えも受け入れられるのである。

いずれにしても受け入れらなければならないものを受け入れまいとしてジタバタするのは、幼児性のあらわれであり、あまり見っともいいことではないから、しないですませたいと思うのである。それに、いずれの説が正しいにしろ、今からどんなに調査研究を重ねても、この問題に関して、絶対に正しいというような答えが出るはずがない。少なくとも私が死ぬ前に答えが出るはずがない。だから、いずれにしても私は決定的な答えを持たないまま、そう遠くない将来に、自分の死と出会わなければならないわけである。

そのとき、いずれにしろ、どちらが正しいのかは身をもって知ることができるわけである。そのことに関して、今からいくら思い悩んだとしても、別の選択ができるわけではない。それなら、どちらが正しいかは、その時のお楽しみにとっておき、それまでは、むしろ、いかにしてよりよく生きるかにエネルギーを使ったほうが利口と思うようになったのである。「死ぬのが恐くなくなった」ということ以外に、もう一つ、臨死体験者たちが異口同音にいうことがある。それは、「臨死体験してから、生きるということをとても大切にするようになった。より良く生きようと思うようになった」ということである。死後の世界の素晴らしさを体験した人は、生きるより死ぬほうがいいと考えるようになるのではないかと思われるかもしれないが、実際は逆なのである。

みんなより良く生きることへの大きな意欲がわいてくるのである。それは、なぜか。体験者にいわせると、「いずれ死ぬ時は死ぬ。生きることは生きている間にしかできない。生きてる間は、生きてる間にしかできないことを、思い切りしておきたい」と考えるようになったからであるという。それはそうだと思う。聖書にも、「死者は死者をして葬らしめよ」とある。生きている間に、死について、いくら思い悩んでもどうにもならないのに、いつまでもあれこれ思い悩み続けるのは愚かなことである。生きてる間は生きることについて思い悩むべきである。               




『臨死体験 下』


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