加藤のメモ的日記
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2011年03月01日(火) 救済の理念としての輪廻(15)

初めて三島由紀夫という筆名を名乗って学習院外の雑誌に発表した「花ざかりの森」は、繊細だが不安定な感受性の持ち主である語り手の「わたし」が、憧憬と追憶というロマンチックな心をの動きによって不如意な現実を乗り越え、それとともに作者の三島もまた自己回生を図ろうとした物語で、その後の三島文学の基軸をつくった作品である。それは確かにその通りなのだが、今三島が「夜告げ鳥」によって「花ざかりの森」の世界を乗り越えようとしていることも間違いないのである。

救済の理念としての輪廻
 
いったいなぜ、三島はこのようなことを企てたのか。この問いに答えるためには、作家三島の精神の軌跡に、改めて目を向けなければならない。三島に批判的なものはしばしば、三島文学は風変わりなレトリックやテーマで人目を引くだけの浅薄なものにすぎない、というようなことを言う。しかし、そうした見方こそ浅薄であって、『裸体と衣装』で自ら言うように、三島にとって文学は生きるよすが(拠り所)なのだった。だが、そのよすがであるということの意味が「花ざかりの森」の場合と「2605年における持論」や「夜告げ鳥」の場合とでは、異なっている。

「花ざかりの森」では、語り手の「わたし」の直面する不如意な現実とは、「わたし」を心理的、性的な意味で不安定たらしめる環境、ないしそのような不安定さそのものであったと言うことができよう。そして、その不安定さは、三島を育てた祖母と生母との軋轢や、幼時から病的といってよい程までに繊細な自分自身の感受性に振り回されてきた作者三島のものでもあった。

ところが昭和19年、三島が学習院高等科を卒業し、東京帝国大学に入学する頃になると、それまで単なる心理的、性的な不安定さと見えていたものが、それだけではすまないことが明らかになってくる。

一つには、後に小説『仮面の告白』で描かれることになるサドマゾスティックな同性愛衝動が、激しく内面に渦巻いて溢れ出るほどに高まり、そのために三島にとって生の現実というものが、危険極まりない相貌を帯びて浮かび上がってきたということが指摘されなければならない。第二に、三島を取り巻く時代状況も厳しさを増していた。昭和18年末には、すでに学徒出陣が始まっており、三島もいつ戦争に駆り出されるか、予断を許さない状況だったのである。

もっとも、昭和19年5月の徴兵検査で第2乙種合格となったが、翌年2月の入隊検査で肺浸潤(軽度の肺結核)と診断され即日帰郷を命じられた三島からは、戦死の危険は当面遠のいていた。昭和20年の時点で、三島が出征せず勤労動員に赴いていたのはこのためだが、実を言うと肺浸潤と診断されたのは、風邪をひいていた三島が嘘をついて肺結核に罹患しているかのように振舞ったので、これを軍医が誤診したのだった。

このことの罪悪感は三島の心の奥底で、決して抜けることのない棘となって疼き続ける。出征は免れたが、癒しがたい傷を心に負ったのだ。そしてそれは、暴力的な同性愛衝動と重なり合って、自分は生きるに値しない人間ではないかという思いを三島に深く植え付けることになるのである。



『三島由紀夫 幻の遺作を読む』


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