加藤のメモ的日記
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昭和天皇が亡くなってから、木下道雄侍従長が戦争直後に綴った『側近日誌』が公開された。そこに外国人カメラマンに追随する同胞の姿が苦々しい思いで描かれている。外人を制御するには彼らと面談、意思相通ずるようにすべきなり。彼らは彼らの風習に従うのみ。これが日本にて無礼とは思わぬなり。教うればすよく判ると思う。ただ邦人班がこれに劣らじと騒ぐは見苦しき限りなり」(昭和21年2が22日付)
とはいえ日本人カメラマンがハードルを越えるのには少なからず勇気がいった。毎日新聞のカメラマン金沢秀則は後日、カメラの専門誌(カメラ毎日昭和39年9月号)で、あるアメリカ人が天皇に近づき「ストップ」と言い、シャッターを押すのを目撃し、「陛下に声を書けるなんてとんでもない奴だ」と睨みつけた時のいたたまれない心情を吐露している。
ところが気がつくと自分の脇にいた自社の若いカメラマンが天皇の半身をクローズアップで写している。「カメラマンの慣例として、陛下の半身を写すことはこれまで禁じられていたので、この時も私には大きなショックだった」と言う。いずれにしろ結果的に露出した昭和天皇の肉声、それが「無技巧の極致」であろうとなかろうと、大いに流行するのである。
こうした無垢な天皇の存在は、アメリカ兵たちにとっても好奇心の対象であり続けた。何しろヒロヒトといえば、ヒトラーと並び称される怖い独裁者のイメージしか連想できなかったのだから。その逆転があまりにも鮮やかだったため、やがて「あ、そう」は独り歩きしはじめる。いまでも欧米人の芝居には「アーソー(Ah Soh!)」とやることで、日本人あるいは東洋人の振る舞いを茶化し、受けを狙う役者がいることは事実である。
……
工藤の解釈では、力道山のほうが役者が一枚上だった。木村は力道山に「言い分を書いてみろ」とせかされ確約書を書く。力道山へも同様の確約書を要求すると「あとで渡す」と返答された。調印式の時間が迫っているので信じた。確約書を手にした力道山は「しめた」と思ったにちがいない。調印式は試合の日程とルールを確認するもので、記者会見を兼ねていた。
帰途、工藤は木村に質問した。大船撮影所でも木村と力道山が別室でしばらく話し合っていたので、進展があったのかどうか確かめるためである。木村は「決裂しました」と答えた。木村はどこかで確約書が生きていると期待していたのだろう。熊本から上京したのは試合の前々日で、ろくにトレーニングもしていない。
前夜も一升酒を飲んでいる。工藤は木村に忠告した。「こうなったら先手でお前が空手で肋骨の2,3本も折ってやればいいじゃないか」と。木村は「分かりました」と頷いた。だが、最後まで事態を見抜いてはいなかった。先手を打ったのは力道山である。八百長のつもりの木村は隙だらけだった。力道山は力まかせに張り手を食らわせたのだ。鋼のように鍛え抜かれた体とはいえ、すでに37才、しかも無防備な状態。ひとたまりもなかった。
力道山は異文化の中で孤立無援の戦いを強いられてきた、木村も、アメリカを転戦する際には油断しないだろう。だが力道山にはアメリカも日本も同じ外国なのだ。だから苦しいトレーニングに絶え、試合中にテレビカメラの位置に気を配る。ところが木村は熊本という故郷から時たま出稼ぎに来るぐらいの発想しかない。拓殖大の柔道人脈も背後に控えている。
僕は木村に会ってみたくなった。幾度も断られ、一年後にようやく取材を許された。「どうしてもというなら、これだけ伝えよう。あれはどちらが勝っても事件になるので、引き分けと話がついていたんだ。私が勝てばリングサイドの奴らに必ず殺された。試合後、熊本の連中がダイナマイトを持ってトラックで駆けつけると電話してきたが、私は制した。股間を蹴るふりは反則したぞという合図。次に空手チョップを受けやすく体を開けた、とたん本気の空手が入ったんですから、たまりませんよ」
騙されたんですね、とたたみかけた。「いやそんなことではない。ああいう卑怯なことをしたので、報復した。彼は命を落とした」どういう意味か。「私が座禅を組んで念をかけた、すぐには死ななかったが、10年後に死んだ」72歳の木村は、力道山の不慮の死を、そう理解していた。
『欲望のメディア』猪瀬直樹
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