加藤のメモ的日記
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| 2010年09月16日(木) |
死の瞬間から幽体離脱へ |
死を迎えるとき、人はそれぞれ千差万別の態度をとる。「死にたくない」と言い続ける者、「いろいろありがとう」と周囲に語りかける者、意識のないまま眠るように死んでいく者……とさまざまだ。だが、これは客観的に見た死の瞬間でしかない。
では、主観的にみた場合、すなわち、私たち自身が死を迎えたとき、どのような経験をするのだろうか。もちろん、ここで紹介する死後のスケジュールは、私自身の体験に基づくものではない。その根本にあるのが「霊界からのお告げ」であり、それを裏付けるのが、数多くの霊能者たちによる証言、近似死体験者のレポートなのであることを、ここでもう一度お断りしておく。
さて死の瞬間、どのようなことが起こるのだろうか。ご存じのように「死」は肉体が滅びるだけの現象である。魂(幽体)にとっては、単なるプロセスの一環に過ぎない。これは、子供が思春期を迎え、大人の体に移行するのと同じことだ。幼児の身体が成人の身体に移行する。いつの間にか大人の身体になっているが、幼児のそれとはまるで違う、といったようなものなのだ。
すなわち、生から死への決定的瞬間は感知できないのである。夏の午後、風通しのいい座敷でうつらうつらうたた寝をしているうち、本当に眠ってしまい、夢の世界(霊界)に入ってしまうのによく似ている。眠りに入る決定的瞬間は、普通だれにも知覚されない。いつ夢の世界に入ったのか、その戸口さえ意識にないのだ。気がついた時には、すでに夢の中に身をゆだねているのだ。
だが死の瞬間には、頭部と腹部で肉体と幽体をしっかり結び付けている糸、名づけて「霊糸」が切れてしまう。そのため、その後しばらく、すなわち転生するまで霊界(夢の世界)で暮らすことになるのだ。霊糸が切れる時、ものすごく耳障りな音がして、まず目を覚まされたような具合でハッとする。そして気がついてみると、自分は客観的に自分の死体を上方から見下ろしているのである。
不思議なことに。肉体的苦痛は何もなく、身ががあまりにも軽やかなのに驚かされる、次に驚くのは、自分の死体を取り巻いて泣いている人、首を垂れている人などあらゆる人の心に思っていることが、話し言葉のように聞こえてくことだ。それが悲しみの問いかけであったり、恨みであったりさまざまだ。
そこでその人たちに答えてあげようと自由自在の幽体となった自分が、そばへ寄って語りかけるのだが、誰ひとりそれに気づかず、話を聞いてもくれに。その中で自分の存在に気がついてくれる人がいたとしたら、その人は間違いなく霊媒体質なのである。
と、突然、真っ暗なトンネルのようなところへ引き入れられ、有無を言わさずどこへともなく連れ去られてしまう。不安で恐ろしい体験だ。医師が「ご臨終です」といい、幽糸が切れてから自分の死体を上方から見下ろしている自分に気づくまで、現世時間で約2時間である。これを幽体離脱という。
……人間は肉体ではなく、その中に宿れる霊そのものであることを。生命は決して滅びることはなく、永遠に生き続けることを。そして最も大切なことは、人にとっても世にとっても「愛」であることを。私は前述しました通り、何の宗教にも属しておりません。そういうと人は、「じゃ、あなたは無神論者ね」とすぐ言いますが、私はそうは思いません。
宗教を持っていることと、神を信じ、霊界を信じることとは別なのです。私が見た光も、決して私に対し「我はΟΟの神ぞ」とか、「我はΟΟ宗教の使いであるぞ」とも言いませんでした。それでいながら、偉大な愛の情念がひしひしと心の奥まで沁み入り、ただただ感謝と無常の悦びの念を抑えることができませんでした。
霊界とは、宗教を超越した世界なのだということが、明確に分かったのです。私はこれからもどんな宗教にも入る気はありません。しかし、私は自分で見たものを信じます。そして、生きている限り、この世において私が使命を持っているならば、それを精一杯やりぬくことだけです。やがて、あの光のもとへ帰って行く日まで……。
『死よ、こんにちは』 丹波哲郎
本名 丹波正三郎 2006 9/24 84才没
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