加藤のメモ的日記
DiaryINDEX|past|will
| 2009年05月25日(月) |
ニーチェ ・神は死んだ |
キリスト教批判については、西洋の思想史をさかのぼれば、無神論の思想家を見つけ出すことができますが、最も明確に筋道立てて隅々まで否定したのはニーチェだけでした。特に日本人にとっては、キリスト教は世界宗教の一つに過ぎませんが、ヨーロッパ文明にとってキリスト教は、文明のバックボーンであり、キリスト教を否定することは凄まじいものがありました。
例えば、マタイ福音書に「貧しい人は幸いである。天国は彼らのためにある」という有名な言葉があります。この言葉は貧しい者や無力な者、弱い者こそ神に祝福されるという意味ですが、ニーチェはそこに無力な者が有力な者にもつルサンチマン(怨念、ねたみ)が隠れていると指摘したのです。実際キリスト教は最初、ローマ帝国の奴隷の間に広まったものですし、キリスト教はさかのぼればユダヤ教を母体として発展したので、そのユダヤ教自体、他民族によって亡ぼされたユダヤ人の間に広まったものですので、そうしたことからも、弱者の強者に対するルサンチマンが含まれているとしたのです。
ですから、キリスト教の根底には弱者(能力のない者・病人・苦悩する者)が強者(能力のある者・健康な者)を妬み、怨む気持ちが隠されているとニーチェは主張します。ですからこうしたことからニーチェはキリスト教を「奴隷道徳」と批判し、そうした弱者に代表される没落し衰退し滅んでいくべき存在に同情や哀れみを持つ者は、人間の心の弱さから生じたものであり、自分自身を弱者の地位にまで引き下げるとしたのです。
言い換えれば弱者への同情や憐れみは人間が本来持っている「生」へのたくましい欲求(支配欲・権力欲・性欲・我欲など)を押さえつけ、人間を平均化し、無力化してしまうとしたのです。そこで、ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、キリスト教的価値観を否定したのです。また、彼が否定したのはキリスト教の神だけではありません。自己よりも崇高なものを認める価値観すべてを否定していったのです。
ですから例えば、イデア世界に永遠なる真・善・美を認めるプラトン哲学も、キリスト教の奴隷道徳の系譜に属していますし、その他、自己より崇高な価値観である「真理」「理想」「理念」もすべて否定していったのです。
つまりそれらは弱い人間が自己から逃避した結果であり、自己の生を意味づけるために捏造したものであり、虚構であると暴露したのでした。そして真の価値基準は「神」や「天国」「真理」ではなく、自分が生きている現実の「大地」に置くべきとしたのです。またニーチェは、キリスト教は「畜群本能」にとらわれた道徳であるとしています。畜郡本能とは自分を越えた特別な能力を持った者を危険視し、群れから排除しようとする「弱者」たちの本能であり、それは主体性を否定し、平均化し没個性的に生きることで安心しあう心理によって支えられているとしたのです。
そのためニーチェは民主主義や平等主義をキリスト教の俗化したものとして嫌悪したのでした。ニーチェのこの言葉を重要視して有名な言葉として広めた人は特にいません。「ツアラトゥストラ」も当初、40部を自費出版しただけで、晩年は彼を敬愛する妹に見守られながら、次第に高まる名声を知ることなく静かに息を引き取っていきました。
|