加藤のメモ的日記
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イスラムにはシーア派とスンニ派という二つの教派がある。エジプトやサウジアラビアなどはスンニ派が多数を占める国で、イランはシーア派が多数を占める。イラクは北部ではスンニ派が、南部ではシーア派が多数を占めているが、政治・社会の実権はスンニ派が握っている。シーア派の国・イランと、スンニ派が実権を握る国・イラクの間で、1980年から1988年まで、8年にも及ぶ戦争が勃発した。一見この戦争は、スンニ派とシーア派の宗教戦争のように見えるが、本質はまったく別のところにあった。
1925年に成立したイランのパフラヴィ王朝は、英米の協力の下、イランの近代的な大国化を目指して、イスラム文化の排除、軍備の増強、経済開発、婦人に参政権を与えるなどの白色革命を推し進める。
そんな国王の政策を「イスラムの敵」として糾弾したのが聖都コムのマドラサ(イスラムの高等教育機関)で教えを説く宗教指導者、ホメイニだった。ホメイニは度重なる国王批判のため国外追放となるが、イラク南部のシーア派の拠点ナジャフに居を移して、国外から国王批判を続けた。
イラン国内でも、1975年以降学生デモが激化する。1978年のデモでは学生70人が死亡して、戒厳令布告の事態になった。ホメイニはイラクから「王政打破」の命令を出し、ついに国王は国外に脱出して、革命が成立した。帰国したホメイニは「イスラム法学者による支配」を目指して「イラン共和国」を結成し、世俗民族主義グループとの権力闘争の末、1981年には、イラン共和党が単独政権を獲得した。
この動きに脅威を感じたのが周辺の世俗国家だった。特に自国にシーア派を抱えるイラクは、イスラム革命が自国に浸透することを恐れ、他の中東諸国の後押しも受けて、イラン攻撃に踏み切った。
イラクの指導者、サダム・フセインが率いるバアス党は、民族主義と社会主義を合体させたような世俗政党で、その政治姿勢は反イスラム的だった。イスラム革命の波及を恐れる米英は、フセインのイラクに武器を援助するなどして肩入れし、イランを押さえ込もうとする。しかし、この援助が独裁者・フセインを太らせ、怪物として育ててしまったことが、後の湾岸戦争を引き起こす遠因となってしまった。
アフガニスタンでも、英米は当時のソ連と対抗するために、アフガンゲリラを援助したが、その中にはエジプトから義勇兵として参加していた「ジハード軍」「イスラム集団」の過激派やオサマ・ビン・ラディンも含まれていた。
イスラム問題を複雑にしている背景には、宗教的態度や思想に関係なく、その時の都合に合わせて諸勢力を利用してきた英米こうしたご都合主義が影を落としている。
『世界の宗教の謎』
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