++るうの独り言++
目次へ|前へ|次へ
新聞の投書欄を読んでいると 「席を譲らん」から始まって「譲っても座らん」に及ぶ、電車の座席をめぐっての若者と高齢者とのやりとりが実に面白い。
まあ、理想のあり方としては 若者は高齢者を見かけたら席を譲れ 譲られたら高齢者は素直にすわんなさい。 というのではあろうが、それがなかなかどーして! 人間の気持ちって〜いうものはそんな理想通りにはいかんのである。だから面白いのである。
「私、電車で席を譲られちゃったのよぉぉ」と悲観してその日からとたんに外出を嫌うようになった高齢者もいらっしゃる。もう70なんだから譲られていいだろうが、とも思うのだが(^^ゞ それじゃ、ってんで高齢者の姿を見ても席を譲らずにいると今度は「近頃の若者はっ!」といわれたり、電車の中で爺さまに怒鳴られてる若者を見かけたこともある。 吉野弘の詩『夕焼け』はこうした若者のやさしさによる心の痛みをとらえていて見事だ。
私は学生時代、この駆け引きがめんどくさくなり、通学の際は一切すわらないことに決めていた。 で、一般の人々がお互いに気持ちよく席を譲ったり譲られたりするにはどうしたらいいのか、ということを考察してみた。(車内でひまだったのさ〜)
言葉がいけないんじゃないかと思った。<このへんやはり文学部の学生ヾ(・・;) たいてい「どうぞ」といって席を譲る。 どうぞってのは「どうぞおすわりになってください」の略であろう。 これは敬語で飾り立てられていることばなので、そういったものをそぎとってこの言葉のもつ真意を考えてみよう。 「どうぞおすわりになってください」 どうぞをとる。 ↓ 「おすわりになってください」 くださいという丁寧語をとる ↓ 「おすわりになって」 「お〜なる」という尊敬語をとる ↓ 「すわって」=「すわれ」
おおおお。こりゃ、命令文ではないかっ! いろいろな敬語で着飾ってはいるが、要するに「この席にすわれ!」といってるのである。 これでは頑固爺やオバタリアンが気持ちよく席を譲られるはずが無い。 命令するってことは、譲った側が優位にたつ。ひどい言葉でいえば 「いまおまえにこの席を譲ってやるからありがたくすわれ!」ということにもなりかねない。
どちらかが優位になり、どちらかが卑屈な思いをせねばならないという関係は、普通人は好まない。だいたい指定席でもない席に譲った側がそんなに優位にたつことはないのだ。譲られた側が卑屈になることもないはずだ。 命令文であるから、選択肢は「座る」ということ以外にない。だから「どうぞ」といって譲ったとき「結構です!」とはね付けられると譲ったほうがへんーな気分になるのである。元の席にまた座るとお尻がもぞもぞするのである。
よし。この「どうぞ」をやめよう!
で、考えたのが 相手に座るか座らないかの選択権をゆだねるという言い方である。 自分の席をたち、目の前にいる相手に聞く。 「お座りになりますか?」=座るか?
「座るか座らないかはあなたに、お、ま、か、せ♪」という言い方にすると 断られても気にならない。というか、選択してもらうわけだから「断られた」というマイナスの心情が沸かない。譲られたほうも自分の心情を結構素直に述べてくださる。 実例 「いえ。次で降りますから」 「いやー、電車ではできるだけたってることにしてるんだよー」 「いえ結構です、たってるほうが楽なので」 で、そこからどちらかが電車を降りるまで話が弾んじゃったこともある。 もちろんお座りになりたい方は、お礼をいってくださる。
結構気持ちがいいので、学生時代以来私は「どうぞ」とはいわず「お座りになりますか?」で通している。 でもそのうちに「どうぞ」って譲られたら、、、どーしようかな(笑)
んが、この言い方、ちょっと間違えるとけんかになる 「座りたいですか?」 「座りたいにきまってんだろうがっ! まっーったく今の若者はっ!」 とおこられた友人あり。 気をつけましょう〜。わはは。
◆昔の今日の記事
|