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2005年10月22日(土)
弥生の土器で製塩を体験する


岡山県古代吉備文化財センター主催「考古学入門講座」に参加。火をおこして、土器製塩の実習を行うというので、理論面は別として、貴重な体験ができるのではないかと思い、家族連ればりかの中、中年男一人のみで乗り込んだ。

思ったより知らないことが多く、勉強になった。

塩つくりは西日本では弥生時代中期、突然讃岐地方より始まる。その後、弥生時代後半から古墳時代にかけて、西日本全体に広がるという。一番古い遺跡は児島菰池遺跡。なぜここから始まったのか、謎である。
私の問題意識は、「弥生時代晩期においてなぜ吉備王国は倭国で一番隆盛を誇ったのか」というものだから、この塩が当時の製鉄と同じような力を発揮したのではないか、という風に当然思ったのであるが、どうも無理があるらしい。弥生時代中期の遺跡はその形態から言って輸出するほどの量は生産できていなかったらしい。新見のほうまで塩が運ばれたのが確認できているのは古墳時代である。奈良時代の木簡からは児島郡賀茂郷から調塩三斗献上した記録が残っている。しかし、と後になって考える。塩そのものは輸出できなかったかもしれないが、「人」は輸出できる。吉備は武器は持たなかったが、そうやって人材の「生産」は成功していたのかもしれない。それが、吉備隆盛の秘密なのかもしれない。などと次々と妄想……

もうひとつ、知ったこと。製塩遺跡は赤く焼けた土が残るので分かるのだが、なぜか丸く囲んで土を回りに盛るのではなく、必ず四角に囲んで土をまわりに持っているらしい。なぜ四角なのか。住居はこの当時全部丸い。だから丸い発想をしてもよかったはずだ。そういえば5世紀の製鉄遺跡も四角くて同じくらいの一m四方だった。もしかしたら、製鉄追跡を真似たか。しかし弥生時代製鉄遺跡はまだ発見されていない。

体験は見るとやるとではだいぶ違う。写真のように木を回転させて摩擦で小さい火種に移して大きい火を作るのであるが、たいていは筋の下に火種を置いてそこに火のついた炭を落として火を作るのが一般的だったらしい。枝や木の材質は問わないらしい。われわれは少し工夫された回す道具を使ったが、弥生人はもしかしたら自分の手のひらだけでまわして火をおこしたかもしれない。

それからあらかじめ素焼きで作ってもらった製塩土器に海水を水を足しながら煮詰めていく。一リットルからだいたい30gの塩が出来たらしい。海水を足したり、あらかじめ濃い海水を天日で作ったり工夫したとしても、このものすごい手のかかる製塩で出来る塩の量は一家族の10日分くらいしかないのではないか。ほとんど数日仕事である。ひとつの火の周りに9つの小さい製塩土器を置いて三つが途中で割れた。しかも成功した土器も到底次も使えるような状態ではない。完全使い捨てなのである。昔の人はもっと上手に土器を作り、もっと効率よく塩を作っていたのだろうか。

出来た塩は塩辛くない。旨みがあった。「うーむ、鮎があったらいい焼き魚が出来るのに。」と男の参加者は口々に言った。
Last updated 2005.09.18 09:08:18