江草 乗の言いたい放題
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2013年08月26日(月) 夏休みの宿題私論        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan

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 宿題があってもなくても、勉強する生徒はするししない生徒はしない。これは常に真理である。小学生中学生の頃、オレは宿題をろくにやらないふまじめな生徒だったが、授業で習うようなことは授業中に100%理解していたし、その日の宿題も授業の合間に片付けてしまうことが多かった。家に帰ってまで勉強したくなかったのである。もちろん定期試験の前はそれなりに勉強したが、オレがまともに「家庭学習」なんてものにいそしむのは高校受験の時になってからのことである。家族旅行していて宿題を全然やれないままに始業式を迎えたことも何度かあった。そんなとき、オレはどうしていたのだろうか。もっとも宿題をきちっと提出できない生徒はオレだけではなかったし、そもそも宿題をやらない生徒が試験の時はクラスで1番の点数だったりするので小学校や中学校の教師も困っただろうと思うのである。

 だからオレは宿題なんて無意味だと思うのである。それは教師にとって「休み中の生徒をほったらかしにしたわけではない」という単なるアリバイ作りのようなものではないのか。そして生徒も形だけは整えて宿題を提出する。「全く勉強をやらなかったわけではない」というアリバイのためだけに。ここに両者の共犯関係が成立する。その共犯関係を円滑に維持するためのツールにすぎないというのが今の宿題の存在意義なのである。

 たとえば日本中の多くの教師が普通に出している作業的な宿題にいったいどんな意味があるのだろうか。プリントに英単語を10回ずつ出してマスを埋めよとか、漢字を10回ずつ書いてとかいうたぐいの宿題である。そうした宿題を完成させる作業というのはある意味苦行であり、ただの手の運動である。それは宿題と言うよりは苦役だ。頭を使って問題を解くということではなくて、ひたすらコピペを繰り返すだけの行為である。

 数学の宿題でさえも、解答冊子が付属していて「自分で答え合わせしなさい」という美名のもと、生徒は最初からその解答部分を丸写しして提出する。本当は全然自分で考えてなどいないのに、受け取る側はそれを問題にはしない。もちろん全然頭に入ってないから試験をすれば理解度は一目瞭然である。

 もちろん中には心ある教師がいて「こんな答えを丸写ししただけのじゃダメだ!」と叱る。そこで生徒は困ってしまうのである。「今まではそれで何も言われなかったのになぜ?」「ちゃんと形は整ってるのになぜ受け取ってくれない?」せっかく完成させた宿題という名の単純労働作品を突き返され生徒は困ってしまうのだ。これまで自分が小中学校で続けてきた教師と生徒の共犯関係を否定され、「ちゃんと自分で考えて問題を解く」というはるかに高度な行為を提示されてとまどうのである。そんなこと一度もしたことない! と

 オレは京都の文化博物館で開催されていた「2013年NHK大河ドラマ 特別展 八重の桜」を見た。そこで感動したのは展示されていた多くの手紙のその文字の美しさであった。一つ一つの手紙そのものが芸術作品である。美しく文字を書くという行為がちゃんとした人たちにとって習得すべき技能だったのだ。新島襄から八重へ宛てた手紙、松平容保が生涯肌身離さず持ち続けた孝明天皇のご宸翰、心を込めて書くということはどれほど崇高な行為なのだろうか。その「書く」という行為を単なる「勉強をしていないわけではない」というアリバイ作りに行為におとしめてしまうような宿題の存在は害悪でしかないとオレは思うのだ。新島八重の文字は毛筆で書かれた書だけではなく英文でさえも美しいのである。

 アリバイ作りのために提出されるプリントのマス目を埋めてている、雑に書かれた英単語や漢字の羅列は、こうした「心を込めた書」の対極の存在である。そしてその「心のこもってない作業」を提出させることで何が失われてしまうのか。それは「よりよく学ぼう」とする意志なのだ。学習の本質を見誤らせるこの行為によって、生徒たちは学習の意味を見失い、勉強というのは労役みたいなものだと錯覚していくのである。

 学びというのは本来娯楽なのである。知識を得ることは快楽なのだ。数学で難しい問題を解けたときの快感、難しい英文を読み通して意味が理解できた時に得られる達成感、それらを通じて我々は学ぶことの本質に近づくのである。しかし、学びの本質を伝えることのできる教師が今の教育現場にいったいどれだけいるのだろうか。

 ドラマ「八重の桜」の中で、聖書を学ぶ八重は多くの疑問を抱く。なぜ右の頬を打たれれば左の頬も差し出さないといけないのか。なぜ敵を憎んではならないのか。会津の価値観から見ればそれはただの弱虫か臆病者である。会津戦争で父や弟、多くの友人を殺された八重にすれば、長州や薩摩の人間は仇敵である。八重の兄である山本覚馬は、八重にキリスト教を学ばせることでその恩讐を超えさせたかったのかも知れない。抱いた疑問は必死で考えることでしか解決できない。誰かが答えを提示してくれるのを待っていてはダメである。答えには自ら努力して到達するしかないのだ。

 オレは宿題が嫌いだ。長い休暇があって、そこで何を勉強するかは生徒が自分で決めることだと思うのである。生徒が自分で見つけるべき目標をあれこれ押しつけたくないのである。しかしオレは教師として宿題を出さないわけにはいかないのである。全く宿題を出さないと「生徒を放置してる」という批判を浴びてしまうのだ。そこで悩んでしまうのである。どうすればその宿題が自主的な生徒の学びにもつながる宿題であるのか。そんな不可能な理想を思い描いてしまうのだ。

 オレは願う。どうか日本中の教師がオレと同じような疑問を感じてもらいたいのである。今自分が教師として出しているその宿題が、生徒の学びにとって本質的にどのように関わることのできるものであるか、それをこそ意識して欲しいのだ。そして決して生徒の学ぶ活力を失わせるような「コピペ」を宿題になどしないでくれと思うのである。何かを書かせるならば、それは心を込めて一文字一文字を書かせるような、そんな課題であって欲しい。そのように願うのである。


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