江草 乗の言いたい放題
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2006年04月08日(土) 一澤帆布、お家騒動の結末        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan

 オレは2005年12月19日に「キミは一澤帆布のかばんを知ってるか?」という日記を書いた。それから4ヶ月、ついにこの老舗のカバン屋のお家騒動は一つの決着を見ることになったのである。

 新社長に就任した長男・信太郎氏(60歳)によって追い出される形で同社を後にした三男・信三郎氏(57歳)は、元の職人全員を引き連れて新会社「信三郎帆布」を設立した。新ブランドを販売する店舗は4月6日、一澤帆布の斜め向かいにオープンしたのである。一方、職人が一人もいない状況で会社が休業状態となった信太郎氏は、法的手段を検討するとともに、職人を新たに募集するという。一澤帆布が休業状態となってから長きにわたって復活を待ち望んでいた客たちは「信三郎帆布」に殺到した。整理券は3時間待ちとなり、一澤帆布時代の繁忙期の2倍にあたる約3000人が来店したのである。商品がなくて店が開けられない「一澤帆布」の方は入り口が閉まったままの休業状態だった。この日ついに一澤帆布はその歴史を終え、新たな歴史を信三郎帆布が築いていくことが確認されたのである。

 このお家騒動の原因は、突如出現した「第2の遺言状」である。もともと長男の信太郎氏は京都大学を卒業後東海銀行に勤務していて、経営には関心がなかったはずだった。2001年に二人の父である信夫氏が死去。死後4ヶ月経ってから信太郎氏は自分が全株式を相続する内容の「第2の遺言状」を持ってきて会社の継承を主張したのである。信夫氏は1997年12月12日に「第1の遺言状」を作成しており、そこには実質的経営者の信三郎氏と恵美夫人が株式の大半を相続するとある。2通の遺言状の中身が全く相違するわけで、常識で考えれば後から出てきた方がガセである。ところが裁判官にはバカが多く常識がないので、2004年12月最高裁はその第2の遺言状を「偽物とは言いきれない」と認めたのだった。

 兄弟の叔父に当たり、現役職人の恒三郎氏は第2の遺言状に3つの疑問をぶつける。作成日にはすでに要介護状態だったこと。無造作にも便せんにボールペンで書かれてること。名字が「一澤」ではなく「一沢」になっていたことである。オレが裁判官ならそれを聞いて即座に「ガセ!」と判定するだろう。いったいどんなボンクラ裁判官だったのだろうか。頭の中身が見てみたいものである。

 昨年12月の臨時株主総会で信三郎氏が信太郎氏によって社長職を解任されたことに対して、約70の職人やスタッフ全員が反発して出奔した。信太郎氏はなぜこんなことをしたのだろうか。ゼニが欲しかったのならもっと上手に権利の一部を譲渡するように希望すればよかったのである。全部独り占めしようとするからこんなことになるのだ。つまり、全株式を信三郎氏が相続する代わりに信太郎氏には相続遺留分に相当する現金を相続できるとかの形で決着をつければよかったのである。ちゃんと話し合えばよかったのだ。京都大学を出て銀行に勤めながらその程度の知恵もなかったのか。

 オレとしては別に「一澤帆布」が「信三郎帆布」になっても、同じモノを作ってくれているのならそれでいい。大切なのは老舗のブランドの実質が継承されることであり、その名前などは二次的な問題である。職人を失った「一澤帆布」は再起することはおそらく不可能であろうし、食うに困って店を売り飛ばすならそれを買うのは信三郎氏しかいないだろう。それにしても情けない結末である。なまじ財産があるばかりに兄弟がこうやって骨肉の争いをしないといけないのはなんとも恥ずかしいことだ。オレのような庶民には想像もつかないぜ。オレの財産?そんなもの、死ぬまでに全部使い切ってやるぜ。

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