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May日記 |
| 2002年11月16日(土) |
| 「異文化としての子ども」本田和子著/ちくま学芸文庫に関する覚え書き。 感想というほどのことでもないので。 最初のうち、なんだか肩肘ばった文章で読みつづけるのを躊躇われたこの本ですが、後半筆者はいきいきとその闊達な本性をあらわします。 こどもを、べたべた・ばらばら・わくわく・ひめやかな・もじゃもじゃ・ひらひらろいった形容詞で形付け、従来の大人の雛型(しつけられ、秩序に組み込まれるもの)といった見方からは一線を画している。 上梓されたのは20年前。文庫化されてからでも既に10年を経て、子供が異文化の体現者、もしくはそのものであるといった論調も珍しいものではなくなっているが、この著者が求めるものはあくまでも実在の子供のありようではなく、子供のイメージ(絵本や物語に出てくるこどもの寓意性ともいうべきか)である。 『夭折の系譜』では「神は与えたまい、奪いたまう」西洋の子供たちと「7歳までは神のうち」の日本の子供たちとの対比が面白い。 『「ひらひら」の系譜』『「少女」の誕生』に至っては著者自身が少女に立ち戻りその根源を探っていく。そこで引き合いに出されるのは鏡花であったり、たけくらべの美登利であったり吉屋信子の花物語であったりするが、その時代の少女が求めた少女性は今でも十分に通用するものである。 彼女達を熱狂させたそれらのエキゾシチズム、実用性のない美辞麗句のつらなり、どこかで聞いたような”ゆかしい”それでいて(もしくはそれゆえに)とらえどころないあやしげな言い回しなどは、現代でいえばそれこそ舞台をやおいにそのまま置き換えられるものばかりである。また女の匂いを芬芬と撒き散す与謝野晶子との断絶など興味深い示唆もあった。 だが悲しいかな。 著者の言う通り、著者はもう子供でも少女でもなく一個の大人である。 子供であるときも少女であるときも、それは早過ぎ去り、一瞬に永遠を生きることもその意味や意義を語ることも、かつてはそうであったというほかはない。読者もまた然りである。 いま、その「こども」を生き体現しているこどもたちは何も語りはしない。一瞬と永遠、昼と夜、生と死を自由に行き来するこどもたちにその必要などこれっぽっちもないのだ。 そう思うとき、私は深い悲しみと、かつては子供であった誇りと、そして語る言葉を得た悦びを感じずには居られない。 著者は(おそらく)50歳の頃にこの本を書いた。 自分の中の子供を見失わないそのしなやかさと、それを見据える透徹した視線とに敬服する思いである。 |
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