「硝子の月」
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2005年04月12日(火) <揺らぎ> 黒乃一三

「グレン…か。良き名だ」
 王の顔に柔和な笑みが浮かぶ。
 静かで、暖かい声だった。歳経た巨木のように泰然としながら、どこか人懐こいような。
「我が国の古き言葉で、”紅く美しき花”―――それが咲く様子から転じて、”猛き炎”を現す言葉だ。
 名に負いしとおり、胸の内にそれをくすぶらせている、か。うむ」
 細めた目の奥に、強い光が見えた。老いた肉体の中にあって、けして朽ちぬ二つの珠玉がグレンを見据えている。
「なあ。…何のことを言ってるんだ?」
 グレンは小声でカサネに尋ねた。
「つまり、お前はあの方に気に入られたということだ。良かったな」
 いつもどおりのカサネの声は、しかしどこか嬉しそうだった。


2005年04月11日(月) <揺らぎ> 朔也、瀬生曲

 彼女の肩から飛び立った漆黒のルリハヤブサが上空で円を描く。
「そちらにおいでか」
 人混みを外れ、カサネはその下の粗末な建物の中に青年を引っ張り込む。
 普段でも騒々しいであろう酒場は、祭の熱気もあっていつも以上に賑やかだ。
「おい、お前の主って…」
「王だ」
「『王』?」
 こんな酒場には似つかわしくない言葉だ。何の王だというのだろう。
「小国とは言え、一国一城の主にあらせられる」
 そう言うカサネの声はどこまでが本当なのかよくわからない。第一、本当にどこかの国王だというのなら、城で行われている式典に参加しなくていいのだろうか。
 カサネが店員に二言三言探し人の特徴を告げると二階に通される。一階同様の賑わいをみせるフロアを横切って、通りを見下ろせる窓際の席に進む。
 青紫の瞳の老人がこちらをみてにやりと笑った。

「ようこそ。カサネの客人とはお主のことか」
「はい。グレン・ダナスと」
 老いて痩せた身体に似合わぬ威厳の声に、まだ年若く凛とした声が返った。グレンは奇妙な顔で隣を見下ろす。
 老王の問いに答えたのは当の本人ではなく。
「……なんでお前が答えるんだ」
「ことの報告は我の仕事なのだよ」
 彼女の王の前に跪き、カサネはひそやかに笑った。

 耳慣れない言葉に、グレンは戸惑う。文脈からして一人称だということはわかったのだが。
「今の……」
「ああ」
 彼女自身もすぐそれに気付いたらしい。
「私は本来、自分のことは『我』と呼ぶのだ。ただ奇異な目で見られるからな、他国で活動する時には『私』を使っている」
 国が違っていても、大元の言語は同じである。各国の言葉の差は方言と言っていい程度のものでしかない。しかし彼女が今使った一人称はそれとも違って聞こえた。その時のグレンにはわからなかったが、彼女が使ったのは彼女の国の、それも今ではほとんど使われることのない古い響きの言葉だった。
「少々、気が緩んだ」
 柔らかな笑顔だった。それがこの老王の前だからなのかと思うと、何となく面白くない。


紗月 護 |MAILHomePage

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