衛澤のどーでもよさげ。
2009年09月27日(日) アイスべき。

全然違うと判っていてもミサトさんゆかり先生が脳内で被ってしまう衛澤です。今日の枕はかなりヲだね!

■自宅近隣のスーパーマーケットで、米国製のアイスクリームを見つけた。売価一〇〇円と、ひどいめに遭うにも手頃な価格なので買ってみた。
これが、米国製アイスの容貌。私たちが日頃見掛けるカップアイスよりも背が高く、何より商品イメージの写真が一切ない。このカップには何が入っているのかという情報が、この商品の何処にもないのだ。



米国製アイスはほかにも三種類ほどあったが、みなこのように背が少し高いカップの姿だった。しかし、カップの何処かに何味か書いてあるか、中身のイメージ画が入っている。何味かどんな中身なのか判らなかったのはこれだけだ。だからこそこれを択んで買ってきた訳だが!(力説)

さて、蓋を開けてみた。カップは紙製なのに蓋はプラスチック製。ハーゲンダッツと同じだ。だがダッツに漂うのは高級感、この米国製アイスにはジャンク感が色濃く漂っている。
プラスチック製の蓋を開けるとその下には紙製の蓋があって、蓋と蓋との間に昔懐かしい木製の匙が入っている。なるほど、こうしておけば消費者が「うわー、レジでスプーン貰うの忘れたー!」とか嘆かずに済む訳ですな。用意周到と言いますか、カップラーメンにもフォークが入っている国だからな。



紙の中蓋を取ると下の写真のように中身が姿を現す。一見して……えーと、バニラかな?と思う白褐色。ここぞというところで最も大切な写真のピンが取れていない罠。



スーパーで四種あった米国製アイスのうち、どれを買おうかと物色しているときに妙な感覚があった。輸入商品なのでカップの外側に日本語の原材料表示がシールで貼り付けられているのだが、「プレッツェル」とか「マシュマロ」とか「全粒粉クラッカー」とか、当然のように書いてあるのだ。「チョコチップクッキー」なんてのは国内製品にも見るが、その場合は「チョコチップクッキー風味」なのであって、アイスの中に入っているのは「チョコチップ」で「クッキー」までは入っていないのが通常、と言える。
しかし、米国製アイスには「全粒粉クラッカー」と書いてあったら「全粒粉クラッカー」が入っているのだ。「チョコチップクッキー」と書かれたものにはきっと「チョコチップ」だけでなく「チョコチップクッキー」が入っているのだろう。

で、この何味か判らない米国製アイスだが、白褐色はバニラの色かと思っていたが、もしかしたらクラッカーの色なのかもしれない。アイスの中にふやけたクラッカーが混じっている。食うと、多分アイスも甘いのだろうが、クラッカーのしょっぱさの方が強くて奇妙だった。これはもしかしていま流行の塩スイーツの部類なのだろうか。「カリカリ」とか「サクサク」はしない。クラッカーはすっかりふやけてアイスと一体化している。マックフルーリーみたいなものかなんて思っていたら大変なめを見る。
食べ進むと大きなチョコレートの粒が出てきた。チョコチップと言うには少し大きい感じの粒だ。噛み砕くとラム酒風の香り。ウイスキーボンボンみたいなものか。

カップの背が高い分、内容量も多い。添付の匙は寸が短いので終盤になると手を汚してしまう。べたべた。そして最後までしょっぱい。
普通に国産アイスを食べたときと比較して、満腹感が大きい。そして甘いわしょっぱいわで喉が渇く。今日は日頃より沢山水を飲んだ。

■巨大SNS「mixi」で最近「mixiアプリ」なるサービスがはじまった。アプリの種類は沢山あるのだが、その中でも人気があるのが「サンシャイン牧場」というゲーム。
プレイヤは牧場主となって土を耕したり種をまいたり水をまいたりしながら牧場の規模を広げていくのだが、そのアクションを起こすとき、画面上には「手」が現れる。おそらくプレイヤの手を表してるのだろう。

その手は指先から手首までしか表示されない。手首には袖口らしきものが付いているのだが……VOCALOIDファンには手首以上のものが見えたりしている。



このように。
元画にある縞々の袖口が、兄さんの公式服の袖口にそっくりなもので、多くの人は「これは兄さんの手」と思っているらしい。ということが複数のSNSを徘徊することで判った。私だけではなかったのである。

■Twitterのタイムライン(呟きの一覧)に現れたマジック。
Twitterではそれぞれが勝手なことを呟いていて、タイムラインをリロードを繰り返しながら眺めていると、沢山の呟きが見られる。誰かの呟きを自分のタイムラインで見られるようにすることを「フォローする」と言うのだが、二者が互いをフォローし合っていないとTwitter上での会話はできない。

できないのだが……。



たまにこのようなタイムラインのマジックが起きる。流石鳥坂センパイ、「衆院選立候補者の演説会に出席し、演説」したという何者かを一喝。

このように、午前中に鮮やかなスマッシュを見せたかと思うと、つい先程にもこのようなマジックが。


オシムもと監督は鳥坂センパイも認めるところの御仁であるようだ。
ところでオシムさんの御名前は「イビチャ」さんだと思っていたのだが「オビツァ」さんと発音する方が正しいのですか。

■今日見つけた名言。
昨日を変えることなど誰にも出来はしないけれど、明日を夢見ることは誰にだって出来るから、今日より素晴らしい明日を。
(藤井フミヤ/日本/アーティスト)

2009年09月25日(金) おもったー。

路線バスに乗っていてふとバックミラーを見ると随分不機嫌そうなおっさんが映っていました。人相もよろしくないし、怖そうなおっさんじゃのう、などと思っていたら、そのおっさんは私でしたという昔の四コマ漫画みたいな経験をつい先日にした衛澤です。

■口髭を生やしはじめて半年ほどになります。いまだに整え方が判らなかったりで巧く手入れできないのですが、鼻の下(口の上)に毛があることには慣れました。
そこで新たに気付いたこともありまして、私はもともとシュークリームを食べるのがあまり上手ではなかったのですが、これからは更に気を付けて、安易に人前でシュークリームだのエクレアだのを食うのはやめようと思っています。
或る髭ダンディが「納豆が食えなくなる」と仰っていたのは髭装備前に聞いていたのですが、シュークリームは盲点でした。いや気付くべきだった。髭装備前からシュークリームを食べるたびに顔を汚していたのだから。ショートケーキにかぶりつくのも(人前では)やめよう。洋菓子は甘く危険。

■精神科に入院することについて、「鉄格子があって」、「拘束具があって」、「閉鎖された病棟の中で奇声を発して暴れる患者がいる」ので怖いだなんて、さてもさても前時代的なことをいまだに信じている人が、精神科に通う患者にさえいるのだということを目の辺りにして、吃驚したのしないのって。当事者ですらほんとうのことを知らないんだ。

旧い旧い病院なら鉄格子が残っているかもしれないけれど、昭和中期以降に建った病院なら既にそんなものはない。更に、鉄格子そのものについての誤解をしている人も沢山あって、気がふれた患者が脱走しないように窓に鉄格子が付いているのだと思っている人がやっぱりいまだにいる。
精神病棟の窓に鉄格子が付いていたのは、自殺衝動に駆られた患者が窓から身投げしないように安全を図るためだ。患者自身を守るためであって、病院職員や周辺住民のためではない。

拘束具は入院病棟に確かにあるけれど、それを使わなければならないほどの症状を見せる人は滅多にない。私はつごう一年ほど入院していたことがあって、ときどき自分を抑えられなくて乱暴してしまう人が私と同じ入院病棟にいたが、他者に危害を加えることはなかったし拘束具は私が入院している間には出てこなかった。
幾ら精神を病んでいても、社会性がない訳ではないのだから、無闇に何もしていない人に危害を加えるようなことはしない。むしろ、精神科の病院の外にこそそういう危険な人はいる。
また、拘束具は「他者に危害を加える危険」を予防するよりも、鉄格子と同じく抑鬱症状が強い患者の「自分を傷つける危険」の予防に専ら使われる。

閉鎖病棟は確かにある。しかし、これも旧い旧い御話の中の精神病棟のように、半地下で薄ら暗くて大きな鍵が付いた重い扉で閉ざされた閉鎖病棟なんて、ない。閉鎖病棟には完全閉鎖病棟と半閉鎖病棟があるが、完全閉鎖病棟でもそこまで閉鎖的ではない。
閉鎖病棟というのはほかの病棟との間に看護師が管理する扉があるだけだ。詰所の看護師に申し出れば、入院患者は外出止めの診断を受けていない限り出入りできる。但し門限があって、その時間を過ぎると出入りはできなくなる。それだけだ。ほかは一般病棟と何ら変わらない。

精神科の病院というのは、患者を病気の大きな原因の一ツであるストレスから解放してやらなければならないのだから、のびのびできる空間でなくてはならない。そして、まともな病院ならそのようにつくられている。私が入院したつごう一年間は、とてもゆったりと居心地のいいものだった。入院してよかったと思っている。
それから、精神科は怖いところではない。むしろ外科や産婦人科の方が怖いと言える。精神科の医師はやわらかな話術を心得ている人が多いが、外科の医師には碌に患者の話を聞かずに自分ばかり喋る人が多いし、産婦人科の医師には患者を怒る人が多い(勿論、何れもすべてがそうという訳ではない。例から外れる人も幾らもある)。

■アマチュアミュージシャンのみなさんは、自作曲のmp3ファイルをWeb上で配布したりします。これは、素人作家が自分が書いたものをWeb上で公開したり冊子にまとめて配布したりするのと同じことなのだろうと思う。
一方で、アマチュアミュージシャンのうち、歌詞が付いた曲、つまりヴォーカルが入った曲をつくる人の中には、曲の完成版(伴奏と歌唱が合わせられたもの)のほかにオフヴォーカル(伴奏のみ)のmp3ファイルを配布する人も多い。
さて、我々もの書きにとっての「オフヴォーカルファイル」というのは、いったい何に当たるだろう?

■今日見つけた名言。
・楽しい! は 便利でしょ? を凌駕します。
・おっさんは楽しいオヤジギャグを言える本物のおっさんを目指そう!
(ヒマナイヌのカワイ/日本/ライフロガー/http://twitter.com/himanainu_kawai)

2009年09月20日(日) 問答無用。

「土屋アンナ」という名を見掛ける度に「これは違う人」と判っていながら川村カオリさんを思い浮かべてしまう衛澤です。

■さて本日、買いものに出掛けまして、斯様なものを発見し、要不要を思案する暇もなく買い物カゴに入れ、購入して参りました。



でかすぎです。ものには限度というものがありましょうよヤマザキさん。

写真に写っているのは比較用の煙草の空箱です。当たり前のサイズの煙草です。
大きさの比較のために使用するのは煙草の箱でなくてはならぬと考える私は非喫煙者であります。友人に愛煙家がいるので「比較写真を撮るため」だけに空箱を譲って貰うのです。

さてさて、商品名通りとても大きなおやつパンですが、一個食べれば一食に充分に足る食べ応えであります。食が細い人だと一度には一個を食べてしまえないかもしれません。このでかさで「おやつ」を謳うと言うことは、おそらく複数人数で分け分けしながら食べるものと想定されているようです。
一人で一個を一気食いしても構いませんがね。カロリーがすごいと思いますよ。グレーズがかかっているし。

あんまり大きいから、美味か不味かも食べるのか食べないのかも考えずに思わず買ってきてしまいました、という御話でした。

■今日見つけた名言。
人の言葉は善意にとれ。その方が五倍も賢い。(W.シェイクスピア/英国/劇作家)

2009年09月18日(金) 雑に。

五〇〇グラム入りの大きなヨーグルトに砂糖の小袋が添付されなくなったのはいつからなのかちょっとだけ気になっている衛澤です。
特定の銘柄だけかと思ったら一斉になくなっているみたいですね。

■六月末に公開がはじまってからずっと観に行きたい、観に行かなければと思いながらずっと行けずにいた「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」、やっと観てきました三日前に。
隣県まで出て行かなければ観られなかった作品ですが、大手劇場での公開が終わった頃に地元のシネマコンプレックスでの上映がはじまったので、こちらも終わってしまわないうちにと路線バスを乗り継いで行ってきたのです。

バスの乗り継ぎ場所は鉄道駅前のターミナルで、沢山のバスが来たり行ったり停まっていたりしていました。そこで目的地へと走るバスを待つ間に、或るバスの最後尾にこういう広告を掲示されていました。



「8930」で「ヤクザゼロ」と読ませるのは判る。しかし「422」で「ダブルパンチ」は、どう考えても解せぬ。一五年くらい前に深夜に放送されていた関西ローカル番組「テレビのツボ」放送枠で流れていた美容院だか専門学校だかのCMで使われていた「○○-453-9111」を「ようこそクイーン」と読ませていたのよりも強引であると言えましょう。

それはさておきまして。

観て直ぐに簡単な感想を書いておこうと、そういう気持ちだけはあったのですが、身体(主に脳髄)が文章を書く態勢に切り替わらないという動作不良が近頃頻繁に起こっておりまして、書けずにおりました。
直ぐに書いておかなければ、「感想」だとか「ひらめき」だとかいうものは時間とともに揮発してしまうものです。それを知っているが故に、劇場に赴いたその日のうちに思ったことどもを簡単にメモ書きにしておきました。
そしたら。
書けないなあ書けないなあと日を過ごすうちに、ほんとうにきれいさっぱり思っていたことどもが脳髄の中から蒸発しきってしまいまして、メモ書きを転記することしかできなくなりました。自分が思ったこと、考えたことすら、最初からなかったことのように忘れてしまうなんて。これは加齢のせい? いわゆる経年劣化? 自分がつらいです。

で、やっと感想。ほんとうに簡単に。

キイワードは「ぽかぽか」。
非常に衒学的で難解だったテレビシリーズ及び旧劇場版と比較して、新劇場版は平易な言葉に換言されている部分が多い(衒学的で難解な部分がなくなった訳ではない)。
劇中で綾波レイが口にしたこの擬態語は、旧劇場版までは作中に垣間見ることもなかった、今作の特徴でもある「拓けた未来への予感」を喚起するものである。
しかし、物語の随所に丁寧に織り込まれる「予感」というものは、往々にして作者によって挫かれるためにそこに配置されるものでもある。

台詞が具体的、と言うか、説明的になった。
これにより「判りやすくなった」と思う向きもあるかと思うが、そういう人たちは、私に言わせれば「物語を読み解く能力に欠ける」のだ。状況や心情を人物の言葉即ち台詞によって(描写によらず!)受け手に知らせるのは、わざわざ重ね言葉(「馬から落ちて落馬した」や「遺産を残す」など同じ意味の言葉を重ねて使用すること)を択んで文章を書くようなものだ。そのような文章は、くどくて読みづらい。
物語においてもそう。説明的台詞が多発する物語は、物語のかたちを失いがちである。受け手に判ってほしい事柄は「説明する」のではなく「描写し」なければならない。
これくらいのことは、庵野監督をはじめ制作側はよく判っているはずだ。おそらく敢えてこのようにつくっているのだろうが、それは作品として意図する何かがあるからだろうか、それとも現代の若年層が物語に不慣れなためにその層が判りよいようにしているのだろうか。
後者だとしたら、私としては非常につらい。

過去作の要素:新要素=3:7くらいか?
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」は「新世紀エヴァンゲリオン」をREBUILD(再構築)したものである。REMAKE(つくり直し)ではない。それ故に旧作と同じに見えて決して同じではない。新劇場版の前作"序"では過去作の要素と新要素がそれぞれ5:5くらいで、人によっては鑑賞後に「何処が(旧作と)違うのか判らん」と洩らすこともあった。
しかし今作"破"は、明らかに旧作とは異なった方向を目指していることが判る。陰鬱ですべてにおいて受動的厭世的、絶望が随所に織り込まれ狂気が直ぐ傍にあった旧作と大きく異なるのは、何より主人公碇シンジが能動的で意志が強く朗らかでさえあることだ。それは前述した「拓けた未来への予感」を強くする。
そして「イレギュラー」とも言える新キャラクタの登場。旧作には存在し得なかった位置づけ、性格づけの少女の登場により物語は大きくうねり、これまで辿ったことのない方向へ進もうとしている。エンドロールを観た後に「早く次作を」と思うのは無理からぬことではなかろうか。
ただ、碇シンジが能動的に行動するようになったのと同時に、彼に降りかかる事件は旧作よりも一層彼自身にとってつらいものが連ねられている。シンジの意志は今後貫かれるのか挫かれるのか、待て次巻。

謎は謎のまま。判らないことだらけだが、それは一時棚上げしておいて「動」の部分を愉しむがよかろう。
旧作はすさまじいまでの情報量の割りに解かれぬままの謎だらけのまま終局を迎えた。その謎が今作で詳らかにされると期待している人もあるようだが、現段階ではその様子はない。むしろ旧作より謎の要素が増えている。
しかし、「謎解き」に捕らわれていてはこの作品の真価を見逃してしまう。「謎」は物語の一部である。物語を読み解くことも大事だが、この作品が「アニメーション」であることも忘れぬようにしたい。作画の確かさ、動画やCGのダイナミックさ、描写の妙、音響の迫力を自身の持てる感覚すべてを動員して体感すべきである。
私が最も感心したのは、シンジと父ゲンドウの墓参の場面だ。二軸の回転翼機が飛来する。ホバリングでゲンドウを迎え、そのまま上昇して飛び去る。ローターの騒がしさ、ホバリング中の回転翼機の細かな揺動、上昇し、機首を返して飛び去るときの機体の不安定さ、近づいて空気を砕くブレード、やがて旋回して遠ざかるローターの音。劇場で観てよかったと思う。
"破"公開前に"序"が地上波放送されたが、それを観たときも「劇場で観ておいてよかった」と思ったものだ。映画は、劇場で観るようにつくられている。

―――と、メモ書きはこれだけ。観賞中はもっと沢山のことを考えていた記憶はあるのだが、考えていた内容は憶えていないんだな_ノ乙(、ン、)_

■二〇代半ばくらいまでは、書きたいことが身体の内から溢れて溢れてプロットを書きとめた分厚いリングファイルが二冊あった。しかし、書きたいことは沢山あったが、それ等を書き表すための能力が足りなかった。巧く書けなかった。最後まで書き上げる能力も拙かった。
それから一〇年以上経ち、或る程度のものは書けるようになった。技倆や経験や能力が増してきた御陰で、思いついたものは大抵文章にすることができる。しかし、十数年前まで溢れていたものが身体の内から出てこなくなり、「何か」が天から降ってくるのを待つしかなくなってしまっている。
どちらが、と考えるのは不毛なこととは判っているつもりではあります。

■はんにゃらようじょ!

ずんだらもちいそぎんちゃくべんぜんべんぜん。
「ずんだらもち」の語感が気持ちよくて好きだ。さあ発音してみよう!
続編「ニトロベンゼン」も味わい深い。

■今日見つけた名言。
寝床につくときに、翌朝起きることを楽しみにしている人は幸福である。
(カール・ヒルティ/スイス/哲学者)

2009年09月11日(金) ぼかぼか毎日。

何だかゆるめのレトルトカレーに粉寒天を混ぜて「んーん、いいとろみ」とか言いつつ食べてみた衛澤です。味は変わらないヨ!(腹持ちはよくなる)

■「クリプトン社初の男声VOCALOID2登場。
初音ミク」など女声ばかりがリリースされてきたVOCALOID2シリーズだが、満を持して男声バージョンが登場。VOCALOID1・2シリーズを通しての最高傑作とク社も自信満々。これによりユーザのVOCALOID1→VOCALOID2の移行を促進、VOCALOIDにも完全な世代交代の時期到来か。
(中略)
ク社によるとVOCALOID1シリーズは今期をもって生産を終了、今後はVOCALOID2シリーズの普及に全力を注ぐとの意向。」
というニュース記事を読む。
いつか訪れると思っていた時が、とうとう来たのだ。予め判っていたことであっても、それでも寂しいなあ。これから兄さんやめーちゃんは少しずつ忘れ去られていき、VOCALOID1なんてものがあったことすら知らない若者がやがて現れるんだ……。

という夢を見ました。
とっても寂しい気持ちで半泣き気味に目覚めました。段落冒頭の鉤括弧内の文章は、勿論架空の内容です。私が勝手に見てしまった、貘が食べ損ねちゃったんだろう厭な夢です。
すんごく寂しい気持ちのまま身支度をして、寂しい気持ちのまま出掛けました。

■隔週金曜日は持病のための定期通院日です。本日もその日に当たっていましたので朝から出掛けます。診療開始時間に間に合うように出掛け、診察券を提出し、その場で待ち人数を聞きます。朝一番に受付して貰っても、大抵十数人待ちになります。今日は一二人待ちでした。時間にすると一時間〜一時間半くらいの目算です。
そして、月二回の定期通院日のうち一方の日は調髪の日に当てています。かかりつけ病院から近い場所にある理髪店に、病院の待ち時間の間に行きます。
その道中に、JRの駅があります。

JRの駅に並ぶ数本のプラットホームのうち、一番外側の一本はJRではなく、地元のローカル線が利用しています。終点の駅にネコの「たま駅長」がいることでちょっと有名になった鉄道です。
このローカル線には普通の車両も走っていますが、かわいい意匠の車両を沢山走らせています。ワインレッドの車体におもちゃを沢山積んでいる「おもちゃ電車」、たま駅長のイラストでラッピングされた「たま電車」、そして白地に赤いいちご模様がかわいい「いちご電車」です。
線路脇から見るいちご電車

普通の車両よりラッピング車両が走っている率の方が高くて地元民にはあまりめずらしくなかったりもしますが、路傍から偶然見掛けるいちご電車にはやっぱり目を引かれます。
この写真は遠くてあんまりいちごっぽく見えませんね。残念。

■運動不足のせいか持病のせいか内科的異常のためかいまひとつ原因がはっきりしないのですが、ここ暫く起き抜けからずっと身体に怠さがあって、ときに怠さのあまりにメンタリティがぐっと下がってしまうことがあります。
それに重ねて前々段でお話ししましたように夢見がよろしくありませんで、ぐったりへこんでおりました。しかし、病院に出掛けるときには必ず携行する「病院の待ち時間を持て余さず過ごせる道具一式」を詰めた肩掛け鞄からiPodを取り出しまして、好みの音楽でも聴きましょうとスイッチON。
流れてきたのは、「wanderer」。
郷愁を誘う旋律。やさしく、かつ凛とした歌声。聴くうちに何だか胸一杯になりつつも気持ちが高まってきます。音楽をともに歩きながら見上げる秋の空は高く、秋晴れの陽光よりも輝いて見えます。すごい。すごいなあ。有難う。
―――あなたの音楽は、今日も世界の何処かで見知らぬ誰かを元気にしています。どうかこのことを矜ってください。そして、ほんとうに有難う。

■「コンドル」を聴いていてときどき―――意識がメインヴォーカルよりもコーラスに向かうとき、低い確率ではありますが、旧い旧いクリネックスティシューのCMを思い出すことがあります。オフヴォーカルを聴くと特に。
「似ている」とかではなく、ただ何となく意識の外から思い出されるのです。
私がこのCMをよく見たのは小学生の頃、毎日曜日の午後一〇時台の番組を見ている最中だったと記憶しています。まだテレビが「一家に一台」だった時代です。いまでは「怖いCM」として一部で有名なCMですが、当時の私どもには「怖い」という意識などはまるでなく。
いわゆる「茶の間」で親や姉たちと一緒にテレビを見ているときにこのCMが流れまして、私の家族もやはりこのCMを「奇妙な」ものとして捉えていたようで、しかし誰一人怖がってはいなかったのです。
CMがはじまるや、私の家族たちはそれぞれに「いぇ〜いぇ〜いぇ〜」とCMに負けじと高音で歌いはじめました。私にとっては「怖いCM」ではなく「(見ている人が)歌うCM」だったのです。
合唱ではなく、てんで勝手に歌うのです。傍目に見たらCMよりこの家族の方が怖いんじゃないかといまになって思います。ラストの「ぴゃっ!」まできちんと……というか「ぴゃっ!」こそが気合いの入れどころで、如何にキレよく高音を跳ねて切り上げるかに家族のそれぞれが挑戦していたように思います。そして「ぴゃっ!」とは発音していませんでした。文字にできないような発音で、聞こえた通りに。
非常に残念なことではありますが、当時の私は何故か常識人ぶっていて歌ってはいませんでした。いまの私は一人で仕事中に突然ホーミーの練習をはじめたりするような人なんですが。

■いよいよTwitterがおもしろいです。何かの役に立つとか、情報が豊かだとか、そういうことは(私は)あまり感じないのですが、愉しいです。言うなれば、バンドの広いラジオをオートチューニングで聴いているような。
Tweenというツールを使えば自動的に新しい呟きを受信してくれて、いろんな人のいろんな呟きを逐次聞くことができます。とても仲のいい仲間同士でTwitterを介して会話するというチャットのような使い方もできるようですが、私は見えざる第三者として他人さまの声を聞くのが愉しいです。ラジオと言うよりアマチュア無線のワッチに近いのかもしれません。
おもしろいユーザもいます。recipetterさん(bot)宛てに食材名を呟くと(たとえば「@recipetter もやし」とか)、その食材をつかった料理をクックパッドで調べてレシピを返信してくれます。
スポーツマンで冒険家のガチャピンさんもTwitterを利用していて、ブログの更新情報を教えてくれます。今日なんてガチャピンさんとムックさんの入浴シーンなんて御宝画像が拝めたりして、むっはむはーであります。

2009年09月08日(火) しごと。

「堺雅人」という名を聞いて思い浮かぶのは何故かどうしても佐々木蔵之介さんの姿でどうしようもない衛澤です。

■先日までIllustratorで作成していた原稿が、昨日早くも製品となって印刷所から帰ってきました。ちょっといい紙(コート紙)に印刷されると自分で刷ったゲラより二割増しくらいに見えますね。
印刷所に渡すデータの形式とか必要なデータ一式とか、よく判らないままにCDでデータ受け渡しをしたのですが、過不足はなかったようで印刷所に叱られることもなく、無事に納品されました。
A4判三ツ折りリーフレットなのですが、二〇〇部という少部数なので「折りなし」で納品して貰いました。その方が幾らか料金が安くなるので。という訳で、これから二〇〇枚を三ツ折りしなくてはなりません。

■リーフレットを納稿したかと思えば、今度は一枚もののカラー原稿という案件が舞い込んできて、今朝までそれに掛かっていました。原形は白黒で作成済みだったので、それに色を乗せていくかたちで進めていきます。カラーコーディネイターの資格を取っておいてよかったと思いました。
資格を持っていると言っても既に配色されたものを見て「これは○○の効果を意図した配色」とか「補色を彩度違いで並べて目立たせている」とか、その程度のことが判るだけで、手本も見本もなしに白地図にぱぱぱと配色できるほどの技倆があるかと言えば、私の場合はそうではないのです。

そんな訳で、配色見本の教科書を参考にしながら配色。暖色・寒色・中間色をそれぞれ明度を変えて配置することで活動的なイメージをつくり出すという配色見本を参考にしていたのですが、私は暖色をつかうのが苦手なのだということがよく判りました。最近になって赤い服など着るようになりましたが、原色やそれに近い赤色をデザインにつかうのは、まだ度胸が要ります。
同様に、黄色も思い切りが必要な色です。明度が低めだったり赤みがかっていたりするなら何とかなりますが、原色の黄色やカナリーイエローだとかを身に着ける度胸はまだありません。今回の原稿では差し色に使ってみました。青色と組み合わせるなんて自分にしては大胆なことをしたと思います。配色としてはちっともめずらしくはないんですが。

こんな人なので、気が付けば寒色〜中間色の配色ばかりしてしまっています。青色と緑色ばっかり。ひどいときは青色の濃淡だけで何とかしようとしています。
こんなのでも経験を積めば一端の配色屋になれるんでしょうか。

■前段でお話ししました一枚もののカラー原稿は印刷所には出さず、近所の施設で貸し出してくれるプリンタをお借りして刷ることになっているのですが、それには先ず原稿を刷り出しておかなければなりません。データから直接印刷物をつくれる仕組みは、まだこの施設にはないのです。
ところが、作成した原稿は仕上がりサイズがA3判、私が使用しているプリンタの印刷可能最大サイズはA4判、ということで、原稿データをA3判OKプリンタ所有の知人に渡して原稿を刷り出してもらうことになりました。

今日の昼前にその知人から「データを受け取りに行きます」という連絡が入りまして、原稿データは昨夜のうちにできていたのでそれを直ぐにブランクCDに入れました。原稿データは二〇メガバイトちょっと。CD一枚には七〇〇メガバイト収めることができます。
空白が、勿体ないよね。
そう思った私は原稿とは毛頭関係のない音楽動画データを五〇〇メガバイト近く、原稿データと一緒にCDに放り込みました。知人はデザイン業にも関わっている人だから、♪わからない、わからない、お前じゃないし♪なんて歌詞の曲には共感してくれると思うんだ。はたらくおとなだから♪一生懸命働いて、家に帰って、ただ寝るだけ 一生懸命働けば、僕も何かの役に立つかも♪とか、判ってくれるんじゃないかな。愉しんでくれるといいな。

■そんなこんなで本業以外が立て込んでいたのですが手が空きましたので、ずっと書きたい書きたいと思っていた新作執筆に取り掛かりました。
もとい、取り掛かろうとしました。
あの、何故なんでしょうね。本業に取り掛かろうとすると途端に頭の中に靄がかかったように自分が考えていることが自分に対して不明瞭になるというのは。
当たり前ならどんどん物語の場面が脳内で再生されて、それを表現し得るフレーズが溢れるように指先、筆先から出て行くのですが、不調時は幾ら捻り出そうとしてもカスも出ません。こういうときは決まって背中と腰の境いめ(判るかなあ?)が凝っているように怠くなって、小一時間ごとに横にならざるを得なくなります。で、横になったらそのまま眠っちゃったり。
怒濤の勢いで何十枚もの原稿を一度に書き上げるのも自分だし、集中しているつもりでぼんやりしていて一日中机に向かっていても一ト文字も書けないのも自分。同じ自分のはずだけど、それぞれは互いを他人のように感じているんだよねー。

2009年09月06日(日) 今日だ。

ボーマス
今日だね。
ボーマス9。
行きたいなあ。
でも、おじさんは今日も仕事だ。日曜日だけど仕事をするのさ。

誰かおじさんの代わりに行ってくれまいか。エア参加も寂々としてわろし。

2009年09月04日(金) 秋口。

Twitter(ツィター)と聞けばオーストリア方面の楽器を先ず想起してしまう衛澤です。日本語風の発音に直すとよく似ていますが、楽器の方はZitherと書くのですね。チターと発音したり表記したりもします。アントン・カラス。第三の男。

■さて、そのTwitterで日ごとに呟きを落としてはいますが、まだよく判っていません。判ってはいないのですが、何となく愉しいような気がしています。言いっ放しにできるのがいい。
もう少ししたら愉しさが明らかになってくるかも。

■先日来取り掛かっていましたIllustratorによる印刷原稿は、一昨日に納稿致しました。おめでとう私。
原稿は印刷所の営業さんが引き取りに来てくださいました。一応屋内に招いてお茶など出してゆっくりと話せる状態をつくったつもりでした。そこで営業さんから原稿の取り扱いや印刷の仕上がり時期、料金の支払い等に関する御話を伺えるものと思っておりましたらそういう話は一切ありませんで、一番時間を割いて話されたのは「筋力トレーニングの仕方について」でした。

私の部屋にはダンベルとベンチが無造作に置いてあるので、営業さんがそれに目を留めなすったのです。どうやら営業さんも筋トレに興味をお持ちのようで、トレーニングの頻度や回復に必要な時間、適切な重量の設定等の質問を次々になさるので私がそれに回答しました。
そしてその合間に原稿の内容(セクシャルマイノリティの存在の可視化云々)について簡単な質問がありましたが、私がFTMであることにはあまり興味がおありでなかったようです。でも繰り出したいつものネタがちゃんとウケたのでそれはまあいいです。
品物は週明けには仕上がるそうです。

■過日の血液検査でいろんなものが基準値以上になっていたのでいろんなものを控えなくてはいけません。先ず手はじめに脂肪を食事から削減するべく、牛乳を低脂肪乳に変えてみました。
が、低脂肪乳は……低脂肪乳を飲んでも牛乳を飲んだ気分にはなりません。低脂肪乳は牛乳ではないので、当たり前と言えば当たり前なのですが(牛乳は「牛乳」ですが低脂肪乳は「乳飲料」です)。
コップ等に注ぐときに注ぎ口から流れ出るそれを見ていますと、低脂肪乳には牛乳にあるまじき透明感が見て取れるのです。カル○スウォー○ーかと思うほどの。
低脂肪乳ではなく豆乳に変えようかとも思いますが、この二者の購入価格は倍から違うのですよ。豆乳を飲むなら無調整豆乳を飲みたいし。いや、そんな贅沢はこの際言いっこなしで調整豆乳……じゃあもう間を取って牛乳でいいじゃないか! ……という堂々巡り。明日はどっちだ。

■そろそろ日没後は涼しくなって参りましたので、夕食は鍋ものに切り替えていこうかと考えています。さて、血液中のいろんなものが異常値を示しているので肉を控えて魚を択ぶようにとの指針を頂いておりますが、魚ってびみょーに高額でない? 同じ価格でも一パックの内容量は肉より魚の方がずっと少ないような気がする。そうでもない?
魚と野菜でおいしく腹一杯のメニューを大募集です。勿論、安価で手間なしという条件付きで。

2009年09月01日(火) ながつききたる。

一日中生眠くてなかなか妄想という名の仕事ができていない衛澤です。
たったいまもかなり眠いのでまともな文章は書けそうにありません。取り敢えず近況報告だけ。

■Illustratorを使って印刷原稿をつくるの巻が完結致しました。印刷所へのデータ入稿がはじめてなので何かと勝手が判らなかったりもしましたが、何とかデータも仕上がりまして、明日には印刷所の営業さんがデータを引き取りに来てくださいます。
簡単な体裁のものならつくれるようになったし、この後何件かIllustratorの仕事が舞い込んでこないかなあ、と大変虫のよろしいことを考えています。せっかく憶えたことはできれば忘れたくないし。

Twitterはじめました。特に何がしたいという訳ではないのですが、何となくアカウントを拵えて、アイコン用の絵なんか描いたりしました。
このアイコンが付いている「gocho_e」というのが私です。見掛けたら……うーん、まだTwitterというものでいったい何ができるのかさえ判っていませんもので、えーと、取り敢えず微笑んでください。
フォローして貰っても多分たいしたことは呟きません。デムパはときどき出すかもしれませんが。

■何らかの理由で中途で筆を止めなければならなかった原稿は、無事執筆を再開しても以前と同じように書けるかと言えば、まったくそうではありませんね。あんなに書きたくて書きたくて書きはじめた御話が、頓挫しております。
三〇代後半に入って、妄想力ががくんと落ちたような気がしています。数年前までは四〇〇字詰原稿用紙五〇〇枚分くらいの内容を数十日かけて妄想していたものですが、この頃はどうも意識を一点に集中させることが難しいようです。
物語作家に必要なのは、想像力を凌駕しかつ大いなる意志によって変容した「妄想力」。これが尽きたら新しい物語を紡ぎ出すことは至難であります。


エンピツユニオン


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