Hを置いて、子ども達3人を連れて、山の家へ。
山上の楽園は、涼しいことこの上なし。 気になっていた馬鈴薯を無事収穫し、その出来栄えに親子喜びの声をあげ、 残りわずかなブルーベリーとすぐりの実の甘さを味わう。
姉と兄があれやこれや遊んでいる様を、小さい弟がキャッキャ言いながら目で追っている。
薪風呂を焚いて汗を流し、簡単なカードゲームに興じた後、 厠へいくついでに煌々と光る月をおがんで、就寝。
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寝静まった布団を抜け出して、広い板の間でビールを飲む。 今日一日が平和で有意義に終わったことを感謝しつつ、明日の予定を考える。
明日はここを綺麗にふきあげよう。布団も日にあてよう。 お盆休みには両親が来訪だ。
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末の子を連れて状況。
食い扶持に使っている資格の維持のため、 どうしても出張仕事を入れなければならない。
まあ、父と母に末の子を会わせる貴重な機会ということにしよう。
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という訳で、小さい赤ん坊をあずけ、都内某所にてKさんと打ち合わせ。
70才近いKさんには常々、明るい性格という一言では片付けられないチャーミングな何かを感じていたが、 今日、「僕の両親はまだ健在なんですよ」という彼の話で合点がいった。
Kさんは齢70近くにして、未だ息子として存在している。 叱られたり、たしなめられたり、誉めてもらう用意がある。
もちろん、100歳を過ぎたというお父上と100歳近いご母堂がそんなことをするはずはない。 それに、現実的には、今やKさんの方がご両親よりも保護者の立場であるはずだ。
けれども、親というものは、ただそこに生きて存在しているだけで、 初老の男性をも、無防備で甘えた息子にしてしまい、 そんな気配を、私のような中年女に気づかれてしまうのだ。
親というものはありがたいものですね、とKさんに言っていいものかどうか迷ったが、 やはりそれはやめておいた。
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どの面下げて、という趣で、久しぶりにWEB上で日常を晒す。
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何人かの知人から、フェイスブックに「招待」されている。 けれども、どうも参加する気が起きずに、ほったらかしている。 わたしゃそんな気味の悪いものはやらないよ、と、 我儘な年寄りのようにかたくなに拒んでいる。
絆というのは心地よい響きであるが、人と人との関わりはそんな単純なものではない。
縁結びの神様や出会いを尊ぶ一方で、私達は 「縁切り寺」という場所も作り出してきている。
そうだから私は、そのフェイスブックには縁切り機能というのがついているのかどうか、大変に気になるのである。
「遠くにありて思うもの」と、記憶の引き出しに綺麗にたたんでしまってある人間関係を、なにも引っ張り出してくる必要はない。
もうその服は私には不似合いなのだ。
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