「いけないんだー」を連呼するAは、実にもっとも小学生である。 規則違反を見つけ出しては、相手を追い詰めるネタとする。 閉塞感の表れ以外の何者でもないが、それに気付かぬ教師に、駄目だなと思う。
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「いけないんだー」は、今の世の中の風潮でもある。 コンプライアンスとか、それらしい名前を与えられている。
もちろん、罪は罪として罰せられなければならない。 けれども法律というのは、人がこしらえるものだ。神の与えたもう試練ではない。
つまり、間違った法律がつくられる可能性だって、十分あるのだ。 間違っていなかったとしても、真に本質から罪かどうかなんて、本当は誰にもわからない。 百年後には妥当性を欠く可能性を含みながら、人は人を今の世のならいとして、暫定的に罰するのである。
そのことの重さを、「いけないんだー」を連呼する大人の、ほとんど皆が分かっていない。そう思う。
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人はそれを罪にすることができる。 人はそれを国民の義務にすることができる。
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法律は−知らない強みで乱暴に言えば−、国家と国民の契約だ。
だから選挙では、自分に得をもたらしてくれる政党はどっちか、 などという甘っちょろい認識で臨んでいては駄目なのだ。
立法府を任せるに値する政党を慎重に選ばなければ、我々はまた新たな義務を負わされ、望まない法律で生活や人生をしばられてしまうのだ。
違反しようものなら、「いけないんだー」の槍玉にあげられ、裁判にかけられ、社会のどこにも居場所がなくなってしまう。
だから、候補者一人ひとりが国民とどんな契約を結ぼうとしているのか、法律をどのように駆使するつもりなのか、まずは疑ってかからなければいけない。
選挙は、国民が立法府の権限に対して真にネゴシエーションできる、 唯一無二のチャンスなのだ。
2008年07月25日(金) オンブラ・マイ・フ 2006年07月25日(火) 減る国創造 その2 2005年07月25日(月) 2004年07月25日(日) 想像力の欠如
療養中のHと二人で、日食観察。 おお欠けてる!と感慨を共にする。
普通の大人は仕事をしている平日の昼間に、 いい大人が二人空を見上げている間抜けさと罪悪感。
しかも家の中では、甲子園の予選がラジオから騒がしく流れている。
そういうわけで、ともすれば一生に一度の現象をHと二人で見ている割には、 星空にハレー彗星を見るようなロマンティックさには、いささか欠ける。
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曇り空とは明らかに違う、薄暗さが漂いはじめる。 神秘的というよりも、古人が抱くような怖い気持ちが先立って、 ああ早く元に戻ってほしいと、最後は祈るばかりであった。
2006年07月22日(土) 2004年07月22日(木) 王様の耳はロバの耳
深夜に目を覚ましたYを再び寝かしつけながら、何か変だと思っていたあの事について、間違っていると具体的に確信した。
前の日記に登場する「車輪の両軸」は、「車軸の両輪」の間違いである。
自分で書いておきながら言うのも変な話だが、車輪の両軸とは一体何か。 テキトウにも程がある。
無学浅才ぶりをほぼ48時間ぐらい放置したが、もういいや、と 修正せずこのままにすることにした。
日記のジャンルに「添削用」というのがあればそっちに変更したい。
2006年07月21日(金) 濁流 2004年07月21日(水)
朝の食事時のこと。 夏休みに入るとスズキメソードの人達が学校にやってきて、自分の教室を使うのだ、と薮から棒にAが言う。 スズキメソードって何だいとHがいぶかしげに聞く。この人は明らかに宗教関係と勘違いしている。
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毎年夏になると、小さなバイオリンを持った子どもとその親が全国からやってきて、この街にあふれる。 街一番のホテルは貸切られ、一番でないホテルも貸切られ、 ホールは予約済みとなり、宿と練習場を往復する大型バスが市内を駆け巡る。
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教室に置いてある自分の粘土作品にいたずらしないかなと、心配そうにAが言う。 良家の坊ちゃま嬢ちゃま達はそんなことしないよと私が何気に言う。 そこでようやく心当たりのあったHが、あの半ズボンの子ども達か!と宇宙人のことでも言うように言う。
才能教育研究会って言うんだよと説明すると、うへえと、興味のシャッターを下ろし始める。我家には一生縁がないな!などと言っている。
そんなことないでしょう、とパンにバターを塗りながら反論する。 あの子達が一生懸命練習して一流になってくれれば、 我々はこの先も、悠々と素晴らしい音楽が聴けるじゃないの、と。
演奏家と聴衆は、車輪の両軸である。 どちらも共に成長してこそ、芸術文化が花開くというものだ。
それもそうだなと一同の同意を得たところで、皆川さんのラジオが始まった。
2007年07月19日(木) さよなら先生 2006年07月19日(水) あばれ天竜、檻を壊す 2005年07月19日(火) ドキュメンタリーの光と影
今月初め、長年不調を患っていた足を手術したHは、 あと一ヶ月は、クライミング禁止なのである。
暇をもてあましているのか知らぬが、縄文土器の研究に余念がない。 本日も、縄文のビーナス、なる土偶を見にでかけた。
かくして、岡本太郎がのり移ったのではないかというような興奮状態で帰宅。 あれは確かに爆発だよ!と力説する。 帰りに寄った図書館で入手した資料を嬉しそうに読みふけっている。
このまま足が治らなかったとして、好きなように放置したら、 一体どこまで探究心がいってしまうのか、恐ろしい。 ほどほどに目処が立っている登山の方が、まだましな気がする。
たぶんこの人は、異常なまでのジャンキー体質なのである。 何かに夢中になっていないと、死んでしまうのだろう。
2006年07月18日(火) 自立的防災のすすめ 2005年07月18日(月)
2009年07月06日(月) |
未来の大人への説明責任 |
茶畑の続く丘陵地にて仕事。
駅前の、安普請だが地元の結婚式ぐらいは対応できる小さなホテルに投宿。
新幹線が、右から左へと一直線に通過する。 反対側の東名自動車道では、トラックが忙しそうに連なっている。
東海道新幹線は、新幹線の中でも別格だ。 東北や長野にはない、戦後の日本人の魂-汗と涙のようなもの-が溶け込んでいる。 東名自動車道も然り、である。
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太平洋ベルト地域、という言葉を思い出した。 京浜・中京・阪神・北九州の四大工業地帯などというものも教わった。
今やすっかり古びてしまったそんなキーワードを太平洋ベルト地域の端っこでめぐらせながら、自分は莫迦だったなと思う。
多分私は、四大工業地帯は揺るぎないものだと思っていたのである。 産業とは何かも知らずに。
その当時輝きを放っていたものは、今、古びたホテルの窓から古びた姿を見せている。 大人だった人たちは定年退職し、東海道を徒歩でどこまで行けるかなどに興じている。
人のつくりだしたものは、はかない。 輝きを保ち続けるのは難しいし、成熟に値するものは稀である。
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重化学工業が国の基幹産業であった時代が去ったように、トピックスの中味は時代と共に変わるのである。 そんな大人の時代の祭りに子どもが付き合うのは、新幹線の食堂車ぐらいで十分だ。
子どもが社会科として知らなければいけないのは、社会を形成するために必要なエッセンスとバランス、ものごとを決めていくための枠組みである。
せっせと丸暗記した自分の愚かさを誰かのせいにするとすれば、 高度経済成長にうかれた大人達は、未来の大人に対する説明責任を果たしてこなかった。 そういうことだと思う。
2005年07月06日(水) 人間社会か、ヒトの群れか 2004年07月06日(火) 骨身を削る話
2009年07月05日(日) |
何に作用するか分からない、苦くて気味の悪い薬 |
村上春樹の新しい小説。
彼の小説を読むことは、ひどく消耗することである。良くも悪くも。 そして今回のはとりわけ疲れた。そんな気がする。
村上春樹の小説を読むことは、村上春樹に支配されることである。ほとんど完全に。
あなたの気持ちはよくわかります、それはこういうことでしょうと、 心地よい理解と許容を与えられたと思った時にはもう遅い。
ハルキ風の文体が始終思考につきまとい、無意識に健康的なライフスタイルを志向し、 彼が世界の終わりと言えば、そうなのかなと思うし、 世界が始まると言えば、そうだと思う。
読者は作者に完全に従属し、主である作者が言わんとするところの解釈に始終する。聖書みたいに。
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自分の人生の積み重ねにプライドをもっていたいのならば、 小説をそんな風に読んではいけないのだ。 私は村上春樹さんじゃない。村上春樹さんは私じゃない。
けれども抵抗むなしく彼の世界へ引き込まれ、ノイズをシャットアウトされ、 「1Q84」という苦い気味の悪い薬をのまされた。 何に作用するのかはそのうちわかるよ、という具合で。
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「今書いている小説のテーマは恐怖だ」と、確かカフカ賞の頃に彼は言っていた。 その通り、話は深い孤独と恐怖をもたらすものだった。 けれどもそれ以上に、物語の恐ろしさを私は受け止めた。
そんなに嫌なら読まなければよいのだが、そうはいかない。 物語の登場人物がたどる運命のように、私はそれを読んでしまう。
力をもった物語というのは恐ろしい。 そして彼はその力を確信的に使っている。
2006年07月05日(水) 重機 2005年07月05日(火) 結実間近
紫陽花が、そこここで花を咲かせている。 庭先にしつらえている家がこんなに多かったのか、と花が咲いて気付く。
我が家の庭の一枝を切って、花瓶に生ける。 薄桃色と水色のペアーが、仲良く寄り添う。
「あじさいの歌」というのがあったなあと、ふと思い出す。
だんだん好きになって、だんだん恋になる。
確かそんな歌詞だった。原由子がうたっていた。
恋愛の進行にワクワクする、そんな可愛いおとめ心からは大分遠ざかっているけれど、 まあ、梅雨のひとときに雨音を聞きながらあじさいを生ける時ぐらいは、 そんな歌が−そんな気分が−あったことを思い出してもいいんじゃないかと思う。
2006年07月04日(火)
隣の家の梅が、今年も大きな実をつけ、最高の熟し具合となっている。 それを今年もまた、じっと指をくわえて見ている。
手を伸ばせば届きそうである。 傘の柄など使えばさらに、枝をこちらに寄せることができる。 その誘惑を、常識という危うい蓋で押さえつけている。
張り出した枝から我家の方に落ちてきた実は、これはもう縁ということにして頂戴する。 三時間おきぐらいに見に行っては、そこに黄色に熟した梅の実を発見すると小躍りする。
けれどもやはり、そのような待ちの姿勢でいるのは胸が掻き毟られるような気持ちである。 隣家の庭には、桃と見紛うような立派なのが、ぼとぼとと落ちている。
今年こそはお隣の戸を叩いて、お宅の梅が素晴らしいのでいくらかで分けて下さいと、申し入れようと思っているのだが、今年もまた躊躇している。 失礼になりはしまいか、不審に思われはしないかと。
私のそんな様子を見かねたAから、今すぐ行こう、今、と背中を押される。 でもなあと躊躇していると、お母さんはもう絶対に行かないね、 近くても遠くても関係ないねと見切られる。
決断力のない親の姿をさらしながらなおも、 あともう少し落ちてきてくれないかなあと、またのぞきに行く。
2007年07月03日(火) 平和と危険と 2006年07月03日(月) 2004年07月03日(土) 主権が彼岸からやってくる
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