浅間日記

2005年07月06日(水) 人間社会か、ヒトの群れか

梅漬けを始めるのが、すっかり遅くなってしまった。
「これがもう本当の最後のだね」と言われながら梅を購入。
土用までにちゃんと梅酢が上がってくるか少し心配しつつ、梅を敷き詰めた常滑焼の容器に塩蓋をし、きっちり封をする。


生きるとか死ぬとかいう極めて個人の内面に属するテーマを追求しているうちに、
いつの間にか集団とは、とか社会とは、という真反対のテーマにたどり着いてしまった。

個と集団に関する対話を、いろいろな人と色々な場面で交わす。
「個人は集団に優先して存在する」という今までの自分の考えが、少し分からなくなってきた。
結局、「私」という存在を個人か集団かで仕分けることなどできない。
個人としてだけ存在したいと思っても、社会の一員として関与することからは逃れられないのだ。良いことをすれば良い社会になってしまうし、逆もまた然りだ。
しいて言えばその間を往復するバランスとタイミングが「私」という存在そのものなのかもしれない。
だからこそ、人は自分のことを真剣に考えて生きなければ、社会の健全性は維持できない。

人の世で生きていくのは、タフさというガソリンと気楽さというエンジンオイルが必要だ。つくづくそう思う。


人間の集団のリーダーというのは、当たり前のことだけれど、弱い者を強くし、強いものを優しくさせ、「人間は絶対にお互いが協力しあわねばならない存在だ」という強い意志の下で、全体が元気になるように計らう、そんな資質をして存在するはずだと、私は思っている。

これから間違いなくやってくる階級社会には、そういうリーダーを必要としない。リーダー不在なのではなく、リーダー不要の時代が来るのだ。

クラスの違う集団が隣の水槽から混入しないよう見張る看守みたいな人、そして「水槽は存在する」と人々にしたり顔で教育する人、そういうことがきっちりできる資質が、これからの社会を維持するのに必要とされるのだ。理念を貫く勇気や個としてのタフさなど、飾り物ほどにも必要とされない。

異なるものと共存せず信頼関係をもたない階級社会という集団は、常に緊張を強いられる。
いつでも何かの対立軸が明確になっていないと、安定しない。

そんなのは既に人間社会ではなくてただのヒトの群れだ。
自分を限りなく「個」としての存在にシフトする引きこもり現象があるのも、一つの社会システムに対する防御と私は考える。
「野垂れ死にしてもいいから社会と関わりたくない」という思いに自分は絶対ならないとは決していえない。


難しくて自分でも本当によくわからない。
深い暗い闇が続いて、子どもなら母親の布団に潜り込んでしがみ付きたいぐらいの心もとなさだ。

でも私は必ず、時間がかかってでも、「その中でどう生きるとよいか」を見つけ出すつもりだ。

2004年07月06日(火) 骨身を削る話


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