浅間日記

2004年07月31日(土) バイオマス花咲じじい

鈍った身体に鞭打って、諸々の農作業。

雑草を抜いて集めたら、山のようになった。
これは確かにバイオマス(生物現存量)だ、としみじみ思う。
火をつけて野焼きする。乾燥していないのでなかなか燃えない。



木材としての経済的価値を失って以来、
長らく放置されてきた日本の森林であるが、

最近、二酸化炭素吸収源として切り札になることや、
木質系バイオマスとして新たな利用価値が見られるや、
再び森林は「財」として注目を浴びている。

未だ少し早いのでは、とやや気がかりに思う。
せっかく森林生態学や森林社会学が成熟し、
森林を土壌、草本、樹木、土壌微生物、昆虫、動物などの
生態系の総体として大切にしようという認識に立ったところなのに。

石油資源のように、森林資源を単一目的の資源として見てはいけない。
森林から多様な価値を見出せるかどうかは、
人間の関わり方次第なのであるが、
森と関わる日常生活など、ヘンリー・D・ソローではあるまいし、
都市生活者には気が遠くなるほど縁のないものだ。



長い時間かけて燃やした畑の雑草は、良質の灰になった。
そのまま肥料として畑に戻す。
少しとっておいて、諸々のアク抜き用にする。

細かな灰を手ですくいながら、
「花咲じじい」は、実は、
役に立たないから捨てる爺と、捨てられたものを役立てる爺の話であって、
落し所は「リサイクル(厳密にいうとリプロデュースだ)上手は得をする」、
という話だったのだなあ、と勝手に妙に納得した。



2004年07月30日(金)

仕掛かりの仕事が山積みなので、
どうも気乗りがしないまま、
未練たらしくカバンに書類など詰め込んで、山へ。

別世界のように涼しいこの家であるが、今年は虻が多い。
雨が少ない年は、たいていそうなる。




2004年07月29日(木)

視界の片隅がやけに明るいと思ったら、
窓から月が、ぽっかり出ていた。
煌々と輝くというのはこういうことだ、と言わんばかりに。

アンデルセンの「絵のない絵本」は、
確か、月が語り手だったな、と思い出す。
一連の物語の中の、道化師が最愛の人と死別する話は、
切ないながらも甘美な余韻があって、
その昔、妙に内向的にしみじみと味わったものである。

ああいう直球勝負の自分はもういないけれど、
花火みたいにわずかな時間でも、
そういう時期が人生の中にあってよかったと思う。

そういえば当時、
ドビュッシーの「月の光」もすごく好きだった。



2004年07月28日(水) 福祉パニック

日本看護協会なる団体主催の、日本看護学会を、
一般参加者としてのぞきにいく。
あたり一面、全国から集まった看護関係と思われる女性だらけである。

資料によると、
この日本看護協会というのは、戦後まもなく設立された
保健師・助産師・看護師・准看護師の有資格者による職能団体で、
この業界ではかなりのオーソリティなのである。

その中で、多胎児の母親グループの代表による、
周囲の無理解を問題とした発表。

ああ、またか、と思ってしまう。
ここわずか数日の間に、
障害者、高齢者、不妊の女性、そして多胎児の母親から、
差別や無理解、ケアの不足についてのコメントを得た。

差別や無理解があるのではない。
想像力と共感がないのである。

自分と異なるものへの想像力と共感がなければ、
差別や無理解など至る所で発生するにきまっている。
今の世の中、むしろそういうものがない場面のほうが珍しいぐらいだ。

その結果、「自分をわかって欲しい」と思う人ばかり氾濫して、
今の社会は、実は、ちょっとしたパニック状態なのではないかと
思ってしまう。



私の勉強不足なのかもしれないけれど、
福祉という言葉に、行政側の都合で
「高齢者」とか「障害者」とかいう冠をつけることは
その冠から外れる人達の関心をそらせ、
また当事者の方々を社会から遠ざけてしまうような、
むしろ弊害なのではないかとさえ、思っている。

色々な属性や生き方の人が助け合って共存してこそ、
楽しく豊かな社会なのである。
だから、何も特別なことではなく一緒にやっていって、
困った時には知恵を絞ればよい。
そういう、ちょっとのんびりした
ノーマリゼーションの全体感を創ることこそ、
福祉の役割としてほしいものだ。



2004年07月27日(火) オセロ

時事社会から遥か彼方にいて、数日過ごす。

10代の子どもとその親に対する、
心と身体のケアに関する講演を主催。

聴講者は、もともとこんな機会がなくとも、
既に認識と理解がある人が主のようであった。

講演会とかシンポジウムというしつらえは、
同種を呼び集めることはできても、
異種を集めることは難しいことを実感。

賛同や期待どおりの反応は、
それはそれで主催者としては喜ばしいけれど、
しかしこういうことは、それでは意味がないのだ。

オセロの駒が黒から白になるように、
昨日までの認識を変え、新しい考えや生き方を導き出せる、
「改変率」とでも言うべきものが、
効果として欲しかったのだ。

一人でも二人でもいい。
少しずつでも、確実に黒が白になれば、
ある時点でダイナミックな反転を見せる。
そういうことを期待している。

次に何かするときは、
どうやって、どこに駒を置くかに、知恵を絞らねばならない。



千葉県で「障害者差別禁止条例」なるものが検討されている。
堂本知事の福祉に対する基本的な考えや政策上の決意は
知っているし理解もできるのだけれど、
この条例はどうも違和感を感じずにいられない。

差別や偏見や無茶な振る舞いというのは、
個人の意識が変わらなければどうにもならない。
法律や制度で、しばりをかけて良くなるものではないのだ。

「障害のある人もない人も、一緒に助け合って暮らすことは
とても豊かで楽しいことですよ」と、
どうして働きかけないのだろうか。
そう思える人が一人でも二人でも増える努力を、しているのだろうか。

当の障害者やその家族の方々は、
「私は条例で規制されているので差別はしません」、
と言われて喜ぶのだろうか。

オセロの駒は、強制的に全て白にした時点で、
白が白であることの意味を失うのである。



2004年07月26日(月)

ここ数日色々なやることがあって、
Aをいささかほったらかし気味にし、
寂しさから我侭を言うのを「色々言って困らせる」
という風に思っていた。

そうしたら今日、
Aがちょっと高い所から落ちて、頭を打った。
周りの大人も子どもも一瞬静まり返るほどの、明らかに事故だった。
Aはイタイイタイと言って、沢山泣いた。

その場ではAを安心させるため、大丈夫?痛かったね、
などとぶっていたのだけれど、
夜半に布団に入ってから、
あの時の光景がフラッシュバックして眠れなくなった。

何者かから、「大切に育てないのならもらっていくぞ」、と
言われているようで、大いに反省した。

元気に生きていてくれるだけでいい、と、
生まれた時にはとても強くそう思ったのに、
親というのは段々贅沢になる。
自分に便利になってほしいと、思ってしまう。

隣で眠っているAの息遣いを確認する。
元気に生きていてくれるだけでいい、と思った。



2004年07月25日(日) 想像力の欠如

今日も、時事社会と無縁の一日。
久々にマイミッドワイフに邂逅し、ほっとする。

一方で、そのぐらい想像すればわかるでしょうが、と
口に出したくなるような出来事が数回。

たとえ皮肉屋な私だとて、身近な人のことを
「頭が悪いなあもう」などと思いたくなどはない。

これはきっと相性の問題なのだ、相性の。
むこうだってきっと「気が利かないなあもう」と思っているはずだ。
いや、いっそ思っていてほしい。そうでなければフェアでない。



2004年07月24日(土) メモリがいっぱいです

忙しさは、加速度を増す。

確かに本日は、
朝刊で彼是思い、WEBニュースで考えを巡らせ、
人とのやりとりの中で、様々な気づきがあったはずだ。

であるのに、この夜半にそれらを総括しようとしても、
自分の記憶から一つとしてすくい上げることができない。

どうも今日は
覚えておかなければならない事務事項が沢山ありすぎて、
自分の記憶領域を使い果たしてしまったようだ。

外付け可能な脳みその、
性能のいいのが一つあったら便利なのだが。



2004年07月23日(金) 災害軍師

水害の復旧に追われている福井県が、
復旧に協力するボランティアを募っているようだ。
まだまだ人が足りないらしい。

福井県、そしてボランティアといえば、
三国町で起きた、ロシア船ナホトカ号の重油流出事故を思い出す。

件の災害では、ボランティアグループが
災害復旧に随分貢献していたことを、
インターネットを活用した運営体制と併せて
記憶している。



災害時や緊急時には、現地でのリアルタイムの情報発信や、
利害関係者や協力者の調整など、
平常時とは異なる管理能力が問われる。
リーダーには、おそらく軍師のようなセンスと行動力が求められるのだろう。

現地には駆けつけられないけれど、
協力したい思いの、実現方法はないかなと思う。



2004年07月22日(木) 王様の耳はロバの耳

自民党が参院選の結果を反省した総括文書。
党総務局が作成し、近々正式文書になるそうだ。

これによると、参院選における自民党不振の原因は、

1.争点にされた年金問題の説明不足
2.候補者の日常活動の不足と高齢化
3.昨年統一地方選と衆院選が終わり、選挙運動が低迷した
4.比例選と選挙区選の運動の連携不足

だそうである。この他にも、公明党との安易な連携など、
不振の原因は挙げられているそうであるが、それにしても、
本当にこれが「問題点と課題」だと考えているのだろうか。

政党内の自己反省なのだから、−私は党員ではないし−
口をはさむことではないのだけれど、
「自民党候補者に投票しなかったのは、選挙運動が充分でなかったからだ」
などと思っている国民がいるのだろうか。

マスコミで色々取り上げられている敗因との明らかな乖離をものともせず、
瑣末なことを敗因にして総括せざるを得なかったこの党の内情は、
一体どうなっているんだろうと心配してしまう。

それとも、私が知らないだけで、政党というのは皆そんなものなのだろうか。



2004年07月21日(水)

多忙。
1日の自分の稼動時間というのはこんなにも少ないのか、
と、やや欲求不満になる。

忙しければ朝まで徹夜すればいいや、などと呑気に働いていた頃に、
こういう時は少しだけ戻りたくなる。少しだけ。

性格上、1日の中で断続的に仕事をするのが不得意であり、
途中で食事の用意やら風呂やら子どもの相手などしていると、
ああ今日はもういいや、というふうになってしまう。
きっと、フリーランスには不向きなのだ。

働くこと以外何もしなくていいのは、それが好きな仕事であれば、
結構贅沢なことだと思う。
ただ、収入とか家計を、やや度外視している段階で、
それを仕事と呼んでいいかどうか分からないけれど。

どうも金勘定が下手で困る。



2004年07月20日(火) 現代人にウサギと亀はつくれるか その2

暑い。信州だって、別に爽やかなだけではないのである。

直木賞受賞作家の、熊谷達也さんのコメント。
「周りを見回してみると、今の時代、まともに自然や動物の姿を、
あるいは自然の中での人間の姿を描こうとする書き手が、
極端に少なくなっているような気がしてなりません」

今風の表現でいうと、激しく同意、である。

加えて氏は、その一方でアウトドアブームやペットブームがあることに触れ、
人々は自然に触れたいという欲求を強くもっていると思われるけれど、
自然に対して求めるのは癒しであり、畏れをもって厳しく向き合い、
そのうえで自然物の一部として受け入れてもらうというあり方が
忘れ去られ、必要とされなくなっているのではないか、とのコメント。

受賞作品は読んでいないが、このコメントだけで受賞に値すると思う。



自然とのかかわり以前に、人間と人間のかかわりさえも、
必要とされなくなっている、と付け加えたくなる。
癒してくれる関係が優先し、厳しく向き合う関係は敬遠される。
消費社会の論理だ。

氏のコメントは、つまり、
現代都市社会が抱える実体験の貧困さを表しているのだ。

大きな地震や水害などの天変地異でもなければ、
人や自然と、真剣に向き合う機会がない。
みな日々の、会社で仕事をしたり、学校に行ったり、
子どもを育てたりという通常業務で精一杯なのだ。
そしてそれは悪いことではないと思う。
私は別に先鋭的なナチュラリストではない。

要は、失ったものは失ったと認識し、
何年もかけて築き上げてきた都市の利便性とどうバランスをとりながら、
人間の内なる自然性を回復していけばよいのか、
知恵を絞る時がきたということだ。

そして、自然科学の専門家は、そういう「人間へのケア」という作業に、
責任と自覚をもつべきだ、というのが私の考えである。



蛇足であるが、世界的なクライマーである山野井泰史の
「垂直の記憶」は、その対極にある氏の自伝だ。
これはこれで、あまりに彼岸にありすぎて、壮絶であること以外、
理解できないのである。
Hは同業者だし、性格上、絶対に、涙を流しながら読んでいるはずで、
その読後感が本当は知りたいのだけれど、今のところコメントがない。



2004年07月17日(土) 限りなく黒に近い白

日本歯科医師連盟からの献金を私的流用していた吉田前衆議院議員を逮捕。
こういう犯罪は、選挙前にお縄にしてほしいのである。
事件の中身よりも、そちらの方が気になって仕方がない。

しかし、官僚への接待を議員に代行させるという周到な手腕をみるところ、
歯科医師というものが白であると自慢できるのは、治療後の歯ぐらいか。



入浴剤を入れなくなった透明な白骨温泉の様子が、地元の新聞に出ていた。

この大事件は、日本人から、
「温泉で疲れを癒す」というドリームを奪った、重要犯罪である。
温泉を愛する一人として、まったく許しがたいと憤慨している。
よくよく事情聴取をしなければならない。

金目だったのか。

それとも、来訪者の期待に応えたかったのか。



観光地において、
来訪者というのは時に、横暴で勝手なリクエストをするのである。
旅行代理店というのが、これまたそれを助長する。

これに加えて、
安曇村のような地の果ての山村では、人が喜んで来てくれ、
全国クラスで知られることは、精神的にも経済的にも、
命綱であり、これが失われることは恐怖なのである。

こういう背景が、誇るべき天然の娯楽資源をあるがままとせず、
悪魔の白い粉を投入させてしまったのではないだろうか、
と私は思っている。



2004年07月16日(金) ハイエンドライフの彼方

日帰り上京。

日銀短観が景況感はやや上向きと告げるも、メディアでは
景気の上昇気流にのれるのは全ての国民ではないだろう、という見方。
貧富の差が広がる社会のスタートだ。

書店を見れば、金儲けの本や人生の成功の本ばかりが
平積みになっている。
その一方で、裕福層を狙った女性誌では、
「贅沢」という言葉が台所の醤油のように多用され、
信じられないような金額の商品が並ぶ。

バブル経済とその崩壊を経て、
日本人は、豊かさというものを、少しは
金銭と引き離して考えるようになったかと思っていたが、
こういうものは相対的なもののようで、
景気の良し悪しにはあまり関係ないようである。

いつでも、どんな状況でも、
となりの花咲爺さんのポチが欲しいんである。


今日で退職。
給与所得者でなくなった自分は、もしかすると
Aに満足な教育を与えてやれないかもしれない。
自分がそう育ててもらったように、量と質において
恵まれた衣食住を、安定的に保障できないかもしれない。

新しい仕事の目処がつくまで、
これはこれで、結構な恐怖心を伴うのである。

でもしかし、だからといって、
「金持ちになる本」「儲かる本」を
手に取る気には全然なれない。
こういうときこそ、
普通に暮らせばよいのだ、普通に粛々と。



2004年07月14日(水) 見た目から入る話

局地的集中豪雨にみまわれた中越地方は、
明日からまた雨になるらしい。
ヘリコプターに吊り下げられて避難したという幼稚園児は、
さぞや恐ろしかったことだろう。
学校から出られなくなった子ども達も、怖かったことだろう。
早期復旧を願うばかりである。



景観法について。

今回制定された景観法を読み解いていて、
中学校時代の校則を、ついつい思い出してしまう。

スカートの丈は何センチまで、靴下の色は白、
カバンはどう、髪型はどう、という、
微に入り細に入り定められたアレだ。

景観法で指定された区域では、この校則とおなじように、
建物の色、形態、意匠などについて細かく規制がかかり、
建築にあたっては、スカートの長さを物差しで計るがごとく、
役所のチェックが入る。違反者には罰則のおまけつきだ。

景観のコントロールは、今まで法整備がなかったために、
色々物議をかもしてきたことは確かである。
マンションの建設に関する訴訟、
商店街などに乱立する看板やサイン、
農地に山積みになった廃車。

こういうものに業を煮やした挙句の法制度なのだとは思う。

が、しかし、条文を読んでいるうちに、やはり変だなあと思うのである。

景観工学の専門家が尽くしてきた長年の研究成果や議論は、
このような強化された規制をゴールとしてきたわけではないと思う。

樋口忠彦氏の「景観の構造」や、
オギュスタン・ベルクの「日本の風景・西洋の景観」、
和辻哲郎の「風土」などの著書を読む限り、
日本の景観の取り扱いについては、もう少し深く、丁寧であったのだ。

景観とは、人々の生活実態や歴史や自然などの息遣いが
視覚的に反映されている、最も総合的な社会現象の一つなのである。

それが乱れているのならば、まず実態を現実として受け止め、
背後の社会経済的状況を見直すことが、本当の景観コントロールである。



規制された景観のなかで人々が生活するということは、
大げさな話ではなく、民主主義に反することなのである。

蛇足としてさらに穿った見方をすれば、
この法律の応用次第では、
土地利用や土地の管理を含めて色々な国家統制が可能になるとも言えるので、
ここでつい語気を強めてしまうのである。



2004年07月13日(火)

ねむの木が、風に揺れている。
沢山の薄ピンクの花を咲かせている。

いつ頃からそうだったかは忘れたが、
何度も同じ場所が夢に出てくる。

昨晩は、
「ああここは尾瀬のことだったんだ」と、
夢の中で納得している自分がいた。
「しかし随分とデフォルメされているのは、やはり夢だからか」
とまで思っていた。




2004年07月12日(月) 肌寒い空気

多忙。

本人確認が甘い投票所の様子が気になってしかたなかったが、
やはりこういう出来事があるらしい。
発覚は氷山の一角か、それともあってはならない稀な出来事か。

なにしろ、選挙制度というものについて、
このところずっと、いかがわしさが拭えないのである。
まあ、どこかの国のように、集めた票がちゃんと計算できない、
ということはなさそうだけれど。

天気が不安定で、もう一雨ありそうだ。
ひんやりした空気が、山から下りてくる。



2004年07月11日(日)

地元のささやかな催しものに参画。
沢山の人と話をし、仕事をし、飲み食いをする。

日中の熱気が残る夕方、投票所にむかう。

用事をすべて終え、家に帰る途中、
道端のポストへ、すっかりほったらかしておいた退職届を投函する。



2004年07月10日(土) 嫌な死に方

クラッチ系統に欠陥がある三菱大型車の「使用停止」を、国土交通省が指示。

登録されている7万4千台のうち、点検を受けたのは、
7月6日の時点で9000台のみとのこと。
つまり、残りの6万5千台の三菱大型トラックは、
殺人マシーンとしての可能性を秘めて、路上を走っている。

彼の車を見たら、一目散に逃げなければならないのだ。
宅急便を出す時や引越しの際は、
三菱トラックで輸送されないか、確認しなければならない。冗談ではなく。

さらに、気をつけなければいけないのは、車だけではない。
検査履歴を改ざんしているJR西日本だって、
うかつに利用してはいけない。



何しろ人は、それぞれ1回しか死ぬことができないのだ。
「もうこの世は嫌だから死んでしまいたい」と思い
日々悲観にくれている人だってきっと、
いいかげんな会社の、いいかげんな経営者や社員による
馬鹿みたいなミスのために、
車に引かれたり列車のトンネル事故で死にたいとは思わないだろう。



この出来事をみていると、
高度経済成長期を境に、いけいけドンドンで
つくっては売り、売ってはつくりしてきた工業製品やインフラ全体が、
日本全体でほころびをみせているような気がしてならない。

こういうほころびは、
技術的な問題も当然あるだろうし、
人の能力や教育の問題も大いに関係すると思う。

いずれにしろ、こういう、ものつくりのプライドという面で、
日本はこれまでの貯金をすっかり使い果たしてしまったようだ。

乗れない車、通れない橋やトンネル。
老朽化するコンクリート建造物。

当然ながら、つくった分だけ壊れるのである。
そして、同じ時期につくられたものは同じ時期に壊れるのである。



2004年07月09日(金) 落胆

3年間あたため、半年間心血を注いできたお楽しみが、
ちょっとした行き違いで、頓挫してしまった。

関係各者へのお詫びと、再調整の段取り。
対外的なフォローを一通り終えたあとで、
地の底から出るような深いため息とともに、落胆する。

何かをやっていれば
何もかも上手くいくことばかりではないし、
トライの分だけエラーもある。
やり直しだってきく。
今回だって、お楽しみがたった10ヶ月延びただけだ。

そう言い聞かせても、ぜんぜんそう思えない。
自分の段取りの悪さに嫌気がさす。

深海の、地底の、深い深いところに引きこもってしまいたい。
いや既にその状態なのである。
自信過剰な性格の、B面が発現するとこうなる。

情けないが、時事社会どころではないのだ。



2004年07月07日(水) カッターナイフ前夜

事務所にて色々な片付け。
私は、あと数日で、給与所得者ではなくなるのだ。



昨日のAは不機嫌で、「ダメ、馬鹿!」を連発しHをむっとさせていた。
親に向かって馬鹿などとは、
口にした時点で張り手が飛ぶ厳しい躾の元で育ったHにとって、
こういうことは黙認できない事態なのである。

それを承知で、私は「馬鹿ですいませんねえ」と受け流す。
罵詈雑言を封印しても、他の何かで噴出するだけだ。
例えば、カッターナイフとか。

A本人が、本当の意味ですっきりと救われる為には、
怒りをコントロールしたり、問題を解決する手法を
学んでいくことしかないのである。

そしてこれは、とても孤独で厳しい訓練だけど、
子どもというのは、感動的にやり遂げる力を持っているのだ。



ぬかに釘の反応で、攻撃をやり過ごしたあと、
何が不満だったのか、どうしたかったのか、
膝の上にのせて、Aにヒアリング調査する。

こうだったの?と聞くと、黙ったままうつむいて小さくうなづく。

新潟県の小学校六年生の男の子も、
今ごろこうしたやり取りをしているのだろうか。



2004年07月06日(火) 骨身を削る話

あちこち奔走。

鰹節削り器と枯れ節を入手し、味噌汁をこしらえる。
強烈な西日が射し、蜩が鳴き始める夕方に、着手する。

綺麗な花削りにするためには、節を柾目にして、
体重をかけて削らなければならない。なかなか難しい。

沸騰直前の湯に入れると、ふわっと上品な出汁の香りが漂った。



白洲正子著「白洲次郎」を読む。
吉田茂内閣で、GHQと日本政府間の調整役として抜擢され、
敗戦国でありながら占領軍と対等に渡り合ったことは有名だ。

この人、というかこの夫婦のことは、
ちょっとミーハー的といっていいほど、憧れている。
桁違いの贅沢、桁違いの生きかた、桁違いの品格。

単に金持ちであればよいというものではないんである。
単にちょっといかした男であればよいというものではないんである。

自分の中の小さな正義を、プリンシパル(原則)として重んじ、
相手がどんな権力であっても貫き通すその姿勢が、スキなんである。

だから、GHQにも平気で立てつくこの伊達男が、
大変な苦労をおくびにも出さずに、徹夜に徹夜を重ねて
その草案の翻訳をやった、というエピソードだけでも、
日本国憲法の安易な改正には反対なんである。

国家の根幹に関わるものに対して、
「関わった人の人柄がいい」などということを理由に判断を下すことは、
ミーハー極まりなく恥ずかしいので、
あまり声を大きくしては言えないのであるが。

ただ、憲法改正を「平和のための必須条件」とばかりにデマゴーグし、
ブッシュ大統領に尻尾を振るばかりの、今の日本の情けない姿と、
今なお平和は遠く、大人も子供たちも苦しめられているイラクの情勢を
彼がもしみたら、一体なんと思うだろう、と思うのである。



2004年07月03日(土) 主権が彼岸からやってくる

来週はもう選挙なのである。

「主権」というものは、お盆の時の先祖の魂のように
この選挙期間中だけ国民のもとに戻ってくる。
そして、そのことに、国民が気づかないうちに、
政界という彼岸へ「主権」が還っていくように、
スムーズに取り計らうのが、選挙活動なのである。

国民主権の国なのに、国民の望まない戦争に向かって
政策がはしったりするのは、
国家のシステム不良なのである。
「選挙」という行為と「主権」という実態の在りかが、
整合していないのだ。

システム工学の専門家がちょっと考えれば、
選挙でしか主権者の意向が反映されない状態や、
受注者である政治家と、発注者である国民の関係が
きちんとそうであるように維持されないことは、
おかしいし、改善の方法だってみつかるはずだと思うのだけれど。

マニフェストなんかいいから、国会を通した全ての法律について、
一体、主権者である国民の何%の民意を反映しているのか、
詳細なログをみせてほしい。

そもそも私たちは
「あなたたちは国の主権者となるように、自律した人間になりなさい」
というふうに、教育を受けていないのだ。

投票率が下がるのも、当たり前なのである。



2004年07月02日(金) 青空球児は何処へいった

暑い暑い。

プロ野球の球団を買収を申し出た若きIT事業家が、
巨人軍渡辺オーナーに、一蹴されたとの記事。

「一蹴された」「子供扱い」と書かざるを得ないマスコミの軋轢。
すべてのことは、しかけた彼にとっては、
そうなることが折込済みの軽いジャブだったのではないかとも思う。

まあ今回のことは、双方の備えている性質とその違いが、
みごとに明らかになった出来事だと思う。

そしてどちらにも共通しているのは、ご自身達は
そんなに「野球というスポーツが好き」というわけではなさそうだ、
という点である。

金にモノを言わせるのならば、出来合いモノを買収なんかしないで
自分でプロ野球リーグをつくるぐらいのことを、
やらかしてくれないかなあ。

こういう梅雨の合間の晴れた日に、もしそういうニュースを聞いたなら、
私はきっとすごく嬉しい気持ちになるのだけれど。



2004年07月01日(木)

ネット環境をいじくったら、接続できるPCが
Hのしょぼいマシンだけになってしまった。

不便極まりないだけでなく、水も食料も持たずに
無人島に来てしまったような心細さだ。
東京でネットから断絶するのと訳が違って、ここは
バーチャルの世界から抜けると、情報量がゼロに等しくなる。

早期復旧が必要だが、気ばかり焦って上手く行かない。


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