浅間日記

2004年05月31日(月) 自給自足

在京。
霞ヶ関界隈へ一月ぶりに足を運んだら、
警備員がずいぶん増えていた。
さぞや業界は特需であろう。うらやましい限りだ。

何か心を和ませるニュースはないものかと
メディアをあたったけれど、皆無である。
情けなくなるものや気味の悪いものばかりでうんざりだ。

そういう心温まる出来事は、
自分の生き様で充足しなければならないようだ。
やれやれ。自給自足である。



2004年05月30日(日) 言葉のない世界

世田谷パブリックシアター上々颱風ライブ。
毎度ながら、聴きにくる人は老若男女多様である。

ともすると子ども向けのような、コミックバンドのような
印象を与えがちであるが、
アジアンテイストのきいた、クオリティの高い音楽を維持し、
「思いは全て音楽で表現しよう」、という熱意が伝わる、
よいバンドだと思う。

ボサノバの神様とよばれるジョアンジルベルトを筆頭に、
アーティストのこういう真摯な姿勢が、私は好きだ。
ひとつの表現方法で自分は全てだという潔さ。

饒舌な世の中で、言葉を介さず何かを伝え、
また言葉を介さずそれを受け止める行為は、
とても贅沢で知的な楽しみである。



2004年05月29日(土) 内心の自由

Aを連れて上京。
ここのところの東京長野間の往復頻度たるや、
某知事に勝るとも劣らずというところだ。

最近Aはすっかり想像の世界に生きていて、
人形をみつけては何かに見立て、
物語をつくりはじめる。
いきなりその世界に入ってしまうので少々戸惑う。

そっと様子を覗くと、
見てはダメ、好きにさせてくれという態度。
まあ気持ちはわかる。
こういうのも、「内心の自由」というのだろうか。
都立高校界隈では、大変な禁句になっているようだが。



都立高校のカラーは、自分も出身者であるのでよくわかる。
そういう強制を嫌がる教師が多いのもイメージできる。
石原知事はよくもまあ、内心の自由の牙城のようなところを
狙い撃ちしたものだと、感心したものだ。

一連の出来事は何か変だ、絶対変だ、とは思うが、
抗議をしている「教師の集まり」というものに
いささか抵抗があり、無関心を装っている。

恥ずかしながら、高校時代は学校や教師というものに
ほとんど近づかなかった輩なので、
都立高校について語るなぞ分不相応もはなはだしい、
ということもある。



2004年05月28日(金) 子殺しという生態

バグダッドで発見された手製爆弾にサリンが含まれていた、とのニュースについては、最早
「大量破壊兵器が見つかって米国よ嬉しかろう」
と言っている場合でなくなった。

そういう証拠があってもなくても関係なく
事を押し通すのが米国だ、というのはよくわかったし、
何よりも発見されたそれは、
「イラク戦争を正当化するための証拠」、ではなく、
「近い将来アルカイダによって米国で使用される恐れのあることの証拠」
に見えるからだ。



大阪府豊中市で起きた、女児虐待死の事件。
遺体から発見された、4ヶ所もの骨折の形跡。
痛ましい事件から目をそらさずに、仔細を知りたいと思う。
何故、父親は病院へ連れて行かれなかったか。
虐待で逮捕されるということの前に、何か救済のイメージはなかったのか。
どういう生活水準やライフスタイルで暮らしていたのか。



本来、同種を殺めるというのは簡単にできる事ではない。
まして自分の遺伝子を継承する実子を殺す「子殺し」という行為は、
人間という生物の生態に異変が起きていると認識するのが妥当だと思う。

虐待対策として、児童相談所や警察や教育者やカウンセラーが
目下大変な努力を図っていると思うが、
子殺しの理解と根本解決には自然科学の目も必要だ。



2004年05月27日(木) 適正表示

正直な告白をすると、
時事社会というジャンルで日記を書くことに
時々すごくプレッシャーを感じている。

世の中で最も、深刻に、危機感を感じていることを、
鋭く、ジャーナリスティックに書かなければいけないのではないか。
瑣末な時事ネタなどは、書いてはいけないのではないか。

のんきに虫やら山やら子どものことやらを書いていて、時々
「こっちは時事社会のつもりでアクセスするのだから、
他の事を書くのなら他のジャンルへ行ってくれ」
と怒られないか不安になる。

時事社会素人、時事社会セミプロ、時事社会プロ
というランク分けや、
時事社会30%、時事社会50%、時事社会100%
といった配合比率が表示できれば嘘がなく、
こちらも気が楽なのであるけれど。

なんだか食品の成分表示みたいである。



2004年05月26日(水) 学校の話

NHKクローズアップ現代で、登校拒否児に対する
岐阜県可児市の取り組み。
現在、登校拒否と呼ばれる子どもは13万人だそうである。
学校へ行かないこと以上に、引きこもり現象へ移行しがちである、
ということが問題になっているそうだ。

13万人もいるのだから、もう「登校拒否児」などと
個人を指し示す言葉でなく、「登校拒否現象」と
言ったらどうかと思うけれど、
学校教育そのものを否定するような言い回しは
回避されるのかもしれない。

学校に子どもが行かないのは、行かない子どもに問題があり、
交通事故は、どんなに都市計画や道路行政がヘボイ街においても、
運転者にのみ罪がある。



木材生産などの利用を目的にして、
人工的に仕立てられた森林というのは、
まあ大半が、同じ時に同じ苗木を同じ場所に植えるため、
当然ながら、みな同じ年の樹木で構成されている。
同じぐらいの高さ、同じぐらいの太さ。同じぐらいの年齢。
これを単層林という。

そして当然ながら、人工林に対して天然林というのは
年齢構成が多様であり、
100年生きた木と5年足らずの稚樹が共存していたりする。

こういう森林で生存する生物の多様性は、
人工的に仕立てられた森林よりも遥かに優れている。
そして、そういう森林づくりが、今重視されているのである。

何をくどくど言おうとしているかというと、
学校というところは、単層林なのである。
それどころか、経済活動以外の部分で、今の社会は
まったくの単層林社会なのである。
年齢別に施設があり、
平日の日中は完全にその中に閉じ込めてしまう。

登校拒否という現象は、
こういう単層社会で日常を過ごすことの
息苦しさや生きにくさに対する
ストレートな反応なのだと思う。

それに気付いてしまった登校拒否の子どもは、
言葉巧みに誘われて学校に戻るよりも、
保育園や宅老所へボランティアに行ったり、
丸の内のオフィスで働いたほうがいい、と私は思う。
そうして、人生を救われてほしいと思う。

放送室でランチキ騒ぎを起こした中学生も、
ある意味単層林社会の産物なのだろう。
ただし、あまり同情の余地はないが。



2004年05月25日(火) 謝意

単身上京。
日帰りの予定だったのだが仕事が終わらず滞在。
急な予定変更を告げられたHから、激しい抗議。
ごもっとも、と平身低頭。
電話口で可能な限りの誠意と謝意をつくす。

そして、それはそれ、と、仕事終了後に羽を伸ばす。
ちょっと身体が疲れて変調を来たしてもいたので、
Aの添い寝から解放された一人寝は、調度よい休養である。
ぐっすり眠った夜。



2004年05月24日(月) 絶滅の前に起きること

事務所にて仕事。

Aが年齢不相応にも読みたいといって、
図書館で借りた学研の動物大図鑑。
しかもどういうわけか、タイトルは世界絶滅危機動物、である。

絶滅のおそれのある野生動植物の主の保存に関する法律や、同種の条約で
いわゆるレッドリストとして指定され、
絶滅のおそれがあるとされている動物達が、ここに掲載されている。

絶滅危惧種だけで辞典ができる時代。
私が子供の頃、この手の動物の扱いはまだいわゆる「コラム」の類であり、
今はもういません、とか、絶滅しそうです、というくだりが、
何とも物悲しい響きをもっていたものだ。

その分、図鑑で登場する動物というのは、
どこか遠いサバンナや、ジャングル、あるいは日本の山中に生息していることを前提として、ただ呑気に思いを馳せられるものだった。

件の図鑑をみると、サルだけとっても色々な表現型があることが分かる。
孫悟空の発想の元となったとされるチベットコバナテングザル、
アフリカの仮面を彷彿とさせるザンジバルアカコロブス、
哲学者の面持ちのアカアシドゥクモンキー。
みな生命の神秘が作り出した、素晴らしい造形美を備えている。

ほとんどの掲載種は、その絶滅の運命を余技なくされているのらしい。
もちろん、森林伐採など人為による影響のためだ。

お仕着せの道徳心とか、教科書通りの環境保全思想ではなく、
こうした生物多様性が、動物達の造形美が失われることが、
自分にとってとてもつまらなく、また寂しく思う。

このままいくと人間もいつかこのリストに加わるかもしれない。
しかしその前に、人類は種としての死ぬほどの孤独感を味わわなければならないのではないかと、私は思う。

象やライオンもサルも、子供の物語りや歌の世界から消えるだろう。
人間が想像し創造するものは、人間社会以外からサジェスチョンを与えられることはなくなり、そうして生み出されるものにはやがて限界が訪れることだろう。
人間以外の生物から、生きる上で重要な示唆を与えられるような接触は枯渇し、ただ生物として生きることが、人間にとってとても困難なことになっていくだろう。

何だかノストラダムスの大予言のようになってしまったが、
とにかく、そういう苦しみと閉塞感の生き地獄にさらされることこそが、
絶滅そのものよりも私は恐ろしいなと思ったのである。



2004年05月23日(日)

早朝出かけたHは、天気がよくないとのことで
山行、というか岩行をあきらめ家に戻っていた。
冴えないHを他所に、何とも喜ばしいこと!と喜ぶ私とA。

米飴を手に入れたので、小豆を煮て饅頭をつくる。
生地で包む作業が若干難しい。薄く薄くするのが難度Aだ。
蒸かすと、それなりに見栄えのするものができた。
てっぺんに焼印でも入れたいぐらいだ。

市販のものは甘すぎて辟易だが、
ほとんど小豆の甘さだけで作ったこれは、
手前味噌ながらいくつでも食べられそうだ。

甘いのが饅頭なのでそれが悪いか、と言われるとどうしようもないが。



2004年05月22日(土) 個人主義

家の掃除と寝具の洗濯。
シーツやタオルケットを抱えて、
大型乾燥機のあるランドリーへ。
機会に洗濯物を放り込み、コインを数枚入れた後、
近くにある椅子に腰かけ本を読む。

傍らで、テレビが首相の訪朝のニュース。
家族を迎えるかもしれない拉致被害者の方々や
タラップに立つ小泉首相。コメンテーターの解説。
家族構成を説明したパネル。

家ではテレビをみない、というかテレビがないので、
たまに外で映像を目にすると、
ずっと覆ったままだった目隠しが突然外されたような、
不思議な気分になる。
世の中はこういうふうに騒がれていたのか。

帰宅。
ラジオで、曽我ひとみさんのコメント。
「私達は4人で一つの単位です。」

家族は、自分にとって国家より何より優先すべき、
譲りがたいものだ、という揺るぎない意志を、
日本政府や北朝鮮、そして世界中に存在する
国家という単位に向かって訴える気迫。

こういう言葉は、映像や解説が伴わなくてもきちんと伝わる。

続いて、
米陸軍の軍曹が兵役拒否のニュース。
良心的兵役拒否、というのだそうだ。
そういえば村上春樹の海辺のカフカにも、
ロシア人脱走兵がでてきたことを思い出した。

なし崩しに自衛隊がイラクへ行き、やれ戦闘地域だの何だの
瑣末な詭弁ばかり聞く中で、
こういう、不合理な戦争に対する明快な反作用が
ちゃんと存在していてよかった。
彼の兵役拒否者曰く、「イラクでの経験を背負って今後の人生を生きるよりも、
刑務所に入った方がマシだ」
エンピツ日記の投票ボタンがそこにあったなら、何票入るか見ものである。

個人として、腹をくくって不用な殺戮を回避した人には、
全世界からネット上で支持される時代だ。

個人や家族は、国家より尊く、優先されるべき単位であり、
そういう視点で平和や戦争への判断力を備えていたいものだ。



2004年05月21日(金) 抽選12万名様に裁判体験 その2

裁判員法成立。
裁判員の参加する刑事裁判に関する法律案、という法案名で、
今国会に提出されていた。

以前の日記で書いた不満と不安が全く解消されない。
人を裁きたくない人に裁判員を強制するのはどうか、とか
信条の理由で辞退できるようにするべきだという
議員の見解もみられたので、その辺は改善されるかと思ったが、
やはり強制参加やむなしになってしまった。

こうなったらもう、裁判員の職務につけないとされている
弁護士の資格でもなければ、人を裁くことを回避できそうにない。



秘密漏洩罪になるので、裁判員は職務上知りえたことを
一切公表できないらしい。罰則は懲役半年又は50万円の罰金だ。

個人情報を漏らさないというのはもっともだし、
むしろ人の一生を左右するかもしれない情報の扱いに、
半年とか50万円などというチープなお値段をつけないでほしいと思う。

それとは別のところの疑問として、
裁判員となった人の直接体験が広く国民にシェアされなくては
この制度運用の評価または改善は誰が判断するのだろう。
そういうことは考えなくていいから、というつもりなのか。

国民参加という言葉の下に、「させてやる」「いいからするのだ」
という不遜な態度が見える。

誰かが椅子から降りなければ空きはないのに、
そこにでんと居座ったまま手招きをする、
それが行政のいう、国民参加だ。



条文を読めばよむほど、
「抽選12万名様に裁判体験あります」の誘いは、
「ロシアンルーレット告知」にみえてくるのだった。



2004年05月20日(木) 油断スイッチで幕があがるとき

350ml程度のビールはあっという間に空になって、
物足りない気分のあてつけに、
行儀悪く缶をペコペコいわせながら、深夜考え続ける。

契約社会の現代では、甲と乙の関係はいつも明瞭だ。
しかし運用面ではたいてい曖昧にされるから、
明確にされた関係、それも優劣のはっきりしている立場に
おかれることは、実は結構少ないのだと思う。
自分が圧倒的優位に立てる場面は、さらに稀だ。

国民は、そういう麻薬的な状況設定に対する耐性がない。
そして何かを企む者は、そこを利用する。

治安維持という興行と舞台を用意し、
国民という役者に兵士と捕虜、という
明確な配役を保証し、
さらに圧倒的優位、というスポットをあて、
台詞や所作まで指導すれば、
惨劇はたやすく幕をあげるのだろう。

イラク人捕虜の虐待については、意図するかしないかは別に
そういうシステムが働いたのではないか、と想像する。

圧倒的優位という段差を、100段目から99段目の
プチ権力としてしつらえられて、
それで喜んだり道を外すような人間になりたくない。

そして、内なる暴力性を増殖させるような、
日々の鬱憤をつくりたくない、と心から思う。



非人道的なふるまいをしてしまう
油断スイッチというものがあるとすれば、
日本人はオフからオンに入るのが早い国民性かもしれない。
平常時には完全オフでロックまでかけてあるけれど、
何かの拍子にあっという間にオンになってしまう怖さは、
ほんの一世代か二世代前の大戦で明らかだ。

そしてアメリカという国は、このスイッチが常にニュートラルに入っていて、
必要があればいつでもオンにする準備ができている国と感じる。
そうやって建国から何百年も生きてきた国なのだろう。



2004年05月19日(水) 国語の時間に教わったことの話

日帰り上京。

国語学者の金田一春彦さん死去のニュース。
随分前になるけれど、
若者の乱れた日本語、という風潮に対して
言葉というのは生き物であり変化するもの、
というコメント、またこれに添えて、江戸時代に
今で言う「乱れた」結果生じた言葉(失念!)が、
現代では一般的に使われています、という説得力ある事例解説。

当時、こういう見解は生半可な国語学者ではできないと
感心したものだ。
日本語の生態を理解し、心から日本語を愛していたのだと思う。

新明解国語辞典という、
全く愛すべき国語辞典を編纂された方でもある。

ご冥福を祈りたい。



昨日の虐待に関する事項を、車中で再考す。

明らかな力関係、しかもそれが
当分引っ繰り返らないという確信や、公然と認められる場合に
人や組織は何かの間違いをおかすのではないか、という仮定。

公的に君臨を保証されたと思っている、看守や教師や役人。

圧倒的な経済カードを手にしたと過信した、
バブル時代の不動産業界や建設業界にしても
どうも同じようにみえる。

また、当分死ぬことも体力の衰えもないと思っている若者や、
経験値で子どもより先行できていると思っている大人についても、
同じ過ちのカテゴリに入れたくなる。

程度や現象の差はあれ、たいがいどこかで、
後でひどく後悔するような無茶をしている。

おごれる者も久しからず、という名文が
700年近く前につくられているが、忠告としては
あまり機能しないようだ。
行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、というように、
こういう教訓はフローでありストックにはならないのかもしれない。



2004年05月18日(火) 資質かシステムか

イラク人捕虜の虐待事件について。

自分にとって人ではない、と思った瞬間に、
人間というのは残虐性を発揮するものだ、とH。

名古屋刑務所で、受刑者を「皮手錠」なる用具で
締め上げ、死に至らしめた事件を思いだす。
ネットでちょっと検索しただけで、彼の事件の
詳細な残虐性がうかがい知れる。

同じ日本人同士であっても、これだけのことを
やってしまうのだ。
それどころか、いじめや虐待という文字が
日本の新聞を飾らない日が一月でもあったかというと
決してそんなことはない。

しかし、米兵から日本国市民に至るまでの
そうした事件について、その原因を
人間の内なる残虐性に全てを帰結させるのは
ちょっと早計ではないかと思うのが私の考え。

個人に内包された資質をそのまま具象化するには、
刑務所や軍隊や学校というものは、
あまりにも管理された組織だからだ。



2004年05月17日(月) サマワに降る雨

連日続く雨。
雨が降るたびに、Hと背後の山の様子を心配する。

数年前の火災で丸裸になった山の、土中に残る根の土壌緊縛力は
ぼちぼち期限切れになるはずだ。
治山工事や植林が急ピッチで入っているようだが、
失った森林の機能は、一朝一夕には回復しない。

土砂崩壊というのは、要因がある。そして予兆もある。履歴もある。
要因と予兆と履歴を観察すれば、多くの場合、回避することができる。

過去の災害履歴や地形地質の特徴などから、慣習的に利用を回避してきたような
斜面地や崖地の周辺へも土地利用が広がったこの時分では、
時々崖の上なんかに
「あんなところによく家や道路をつくるなあ」という様子が見かけられる。

人々は、まあ死ぬことはないだろうと思いながら暮らすのだろう。
土壌が侵食され、斜面に亀裂がはしり、小規模な崩落が起きても、
一旦決めた生活をできるだけ維持したいので、
そうした異変をにわかに認めるわけにはいかないのだ。

サマワにいる自衛隊はまるでそんな感じだね、と、
激しい雨音をBGMにコーヒーを飲みながら、Hと話した。



2004年05月14日(金) 三倍速の一日

やっと週末。

仕事に忙殺。時間がないと一日中言っていた。
落ち着いて考えがまとめられない日。

「日記なんか書いている場合ではない」と書かれた
日記がWEB上に結構多いのは、笑えることだ。



2004年05月13日(木) 資質と備えの話

発達障害支援法案(仮称)が議員立法で今国会に提出される見通し。

毎日新聞をみると、この法律の概要や、
発達障害と定義される、自閉症やアスペルガー症候群という症状をもった
子どもの親子関係の難しさについて、丁寧にとりあげている。

法目的の一つに、「警察や司法関係者の理解の促進」とある。
別にそんなのいいよ、と思う。
それよりも警察や司法関係者の、法律で決めてもらえないと
そういうアクションが起こせない組織のシステムこそ、
改善を法律で約束してもらいたい。

こういう法目的があること自体、すでに
「私達は職業柄、人間や物事に対する想像力と思いやりが欠如しがちです」、あるいは
「想像力と思いやりが欠如しているという、その資質によって今の職務についています」
と明言しているようなものだ。

私は文句言いで皮肉屋であるその資質によって、この日記を書いている。



親というものは子どもに対して、
医師や科学者としての目を備えておくことが大切だなと思う。
愛情をもって客観的に観察する作業は、そう外注できないし、
子どもから客観的事実をつかむには、医師や科学者になりきると便利だ。

また親子の関係について「こういう状態だからこうしています」と、
自分の言葉をもっておくといい。
少親化社会では、こういうプロテクターも時に必要だ。
それに、言葉をもつことは自信がもてるし、客観的にもなれる。

こういったマネージメント的な作業は、
子どもに対して自分を冷静にさせる、極めて知的な仕事だ。

子どもは親である自分の特性に起因せず、
運命的に身体的精神的特性をもつ場合があり、
それは説明がつき、解決の方法がある。

そして自分はその全てを受け容れることができる。



2004年05月11日(火) もう春ではない日

ウグイスは朝のステージから退場したようだ。
いつの間にか春ゼミが鳴いている。

日差しが射すような質量をもつようになり、
冬の間あれほど恨めしかった日陰が、
徐々に安らぎの場所になってきた。

そういう変化は、
回り舞台がぐるっと変わるように、ある日突然訪れる。



2004年05月10日(月) 命の著作権

ファイル交換ソフト「Winny」の開発をした
東京大学助手が逮捕。著作権法違反ほう助容疑だそうである。

今日はこのあたりをちょっと、本家には遠く及ばないけれど、
お気に入りに入れているJIRO氏風にアレンジしてみよう。

★記事1:
パソコンのファイル交換ソフト「Winny(ウィニー)」を開発し著作権の
ある映画やゲームソフトなどの違法コピーを手助けしたとして、京都府警ハイ
テク犯罪対策室と五条署は10日、著作権法違反ほう助容疑で東京都文京区根
津、東京大助手、金子勇容疑者(33)を逮捕した。金子容疑者の自宅など数
カ所の捜索にも着手した。東京大大学院情報理工学系研究科も近く、捜索す
る。ファイル交換ソフトの開発者が逮捕されるのは国内初で、世界的にも異例
という。

「ウィニー」を巡っては、今年3月、「ウィニー」を仲介し感染するコンピュ
ーターウイルスで、府警下鴨署巡査の私物パソコンから捜査書類が流出したこ
とも発覚。北海道警の捜査関係書類や陸上自衛隊の訓練計画などの流出も明る
みに出ている。

★コメント:ネズミ捕りを継続してやるための、それなりの覚悟はあるのかな

全世界的に進化するネットワークとかシステムというものと、旧態依然とした親方日の丸の世界はあまりにも遠すぎる。
それだから警察は、今回認識の甘い判断をし、状況も分が悪すぎる。

インターネットという人外魔境で秩序と権威を保ちたいのならば、100万人といわれるWinnyユーザーを国内外問わず一斉検挙するぐらいのことを覚悟しなければだめだ。それも次から次へと現れるこうしたソフトに対して、技術的に追随し、継続的に24時間絶え間なく取り締まっていかなければならない。

ネットの世界は絶えず変動し、スパイラルアップする。果たして警察は、こういう全体感をもって戦いに挑んでいるのか、疑問である。
メディアが既に指摘しているが、自分のところの情報を盗まれた腹いせに胴元を逮捕するような中途半端な真似をしても、それは雨後の筍のための雨を降らせるようなものだ。



本歌取りはボロが出るのであまりやるもんじゃないと後悔。

金と権力を保持するための、違法コピー対策なんかどうでもいい。
どうせ100年もすれば消えるような、大したコンテンツじゃないんだから。

それよりも、生命倫理にかかわるDNAの違法コピーを何とかするべきだ。
こっちは金と権力を保持せんがために、歯止めがかからなくなっている。



2004年05月09日(日) さらば黒ヒョウ

新聞で福田官房長官の辞任のニュース。
これが同じ人かと思うほど、何故かすがすがしい顔をしている。
写真は言葉で表せないものを映し出す。

随分前になるけれど彼の「男は黒ヒョウだから」発言には、
黒ヒョウはそんなことしないぞ、と思ったものだ。
もし彼のいう黒ヒョウが、食肉目ネコ科の、pantherと呼ばれ、
夜行性で単独行動をとる動物をさしているのならば、であるが。

このことについて、どこかの動物生態学者が
「恐れながら官房長官」と指摘しないか楽しみにしていたのだが、
残念ながらなかったようだ。自然系の学者センセイには、
ぜひこういう交流センスをもっていただきたいと思うのだけど。

それはともかく、黒ヒョウなんていう発言は、
要するにイメージなのだ。本質的な事実や科学は
それについているおまけのようなものだ。

黒ヒョウは暴力的な性欲をもち、
国民はヤギのように大人しく従順で、
政治家は牧童犬のように賢く国民を導く。



2004年05月07日(金) 不機嫌スパイラル

連日の雨が過ぎ去ってしまうと、確実に
木々の緑はその色濃さとボリュームを増していた。

疲れて帰宅すると、Hも疲れていた。
その様子によってAもご機嫌ななめだ。

不機嫌力は、一番生命力のあるAが最もパワーを発揮して、
他の二人を圧倒する。そして再び疲弊する。
会話の棘が口論という気色を帯びてくる。
形式的な就寝の挨拶と沈黙。

別に特別なことではない。
私はトゥルーマンショーをやっている訳じゃないのだ。
右回りに回転する時もあれば、左回りに回る時もある。



その渦が家族という単位から国家規模になって、
イラクやアメリカ、その他全世界にいる「市民」の
怒りと悲しみはある。

洗濯機を回すようにスイッチをONにした首謀者はいるだろうが、
渦を止めるのはスイッチ一つというわけにはいかない。

ぐっすり眠った後の日の輝く早朝に、
昨晩の嵐をケロッと忘れてオハヨウオハヨウと言える
この3人の小さな単位は、本当に幸せだなと思う。



2004年05月06日(木) 200年前の育児放棄

単身日帰り上京す。

メルシェのタブロー・ド・パリを車中で読み返しながら、
これを鞄に入れてきたのは正解だったなと満足する。

18世紀パリ生活誌という日本語タイトルの通り、
革命直前のパリに生活する人々の暮らしが
細々と書かれている貴重で面白い文献なのだ。

その中に、当時大変多かったという、捨て児についての記述がある。

当時パリで生まれる子どもの約3分の1が捨て子で、彼らの
10年後の生存率は2〜3%という壮絶な状況だったのらしい。

ヨーロッパ大陸第一の都市で、こういう退廃が起きていた。
著者のメルシェという人はこのことをひどく嘆いている。
200年前のジャーナリストの言葉を
ウェブ日記に引用するのも変な感じだが、以下引用する。

「7、8千人の正嫡子あるいは私生児が毎年パリの養育院にやってくるが、そ

の数は年毎に増えている。したがって人間の心の中でもっとも尊い愛情を断念

する不幸な父親も7千人いることになる。この自然に逆行する残酷な子捨ての

存在によって、多数の困窮者のいることが数えられる。こうした世の乱れは、

おおかたいつの時代でも極貧によって引き起こされるものであるのに、それが

あまりにも一般に人間の無知や粗暴さのせいにされている。

民衆がいくらか安楽な生活を楽しんでいる国では、最下層の市民でさえ自然の

掟に忠実である。貧窮は、過去においても、将来においても絶対に悪しき市民

しかつくらない。

子ども達がこの不幸の深淵に突き落とされる原因のうち、ありふれたものだけ

を取り出して検討してみても、不幸なことにどうしてもこういう惨い仕打ちを

せざるを得なかった人々を大部分、大目に見させてくれるような、差し迫った

理由が無数にあるものだ。(−中略−) 少しでも都の政治制度について

反省してみようという気持ちがあるのならば、きわめて容易に識別することの

できる捨て児の二次的原因が無数にあるのだ」



2004年05月05日(水) 少親化社会

本日帰宅。

Hにしてはめずらしく、夕食を作りながら
ラジオのニュースを聞いている。天気予報が目当てか。

子どもの日にちなんだニュースというので何かと思ったら、
虐待の実態と対策、続いて摂食障害の子どもの心拍数が
著しく低いという調査結果。

子どもの成長を祝う日に、全く想像力の欠如したニュース。
こんな報道で何も改善されないし誰も幸せになどなれない。
Hに悪いと思いつつ、ラジオのスイッチを切る。

少子化というのは少親化でもあるのだ。そちらの方が問題だ。
子をもつ人間がマイノリティになるような社会で、
親心という通念がどこまで尊重してもらえるのか本当に心配だ。

こんなニュースを子どもの日に流すセンスは、
既に危うさを物語っている。



2004年05月04日(火)

金曜日には近くのT住職をやっと訪ねた。
お土産にどっさりいただいた寺報を、その日のうちに
薪ストーブの炎でくまなく読む。

季節に一回配本されるような中身の濃い本を、
一度に読むべきではなかったのだ。
20倍ぐらいに希釈するべきものを、
原液で飲んでしまったような読後感。

山仕事でもすれば少しは希釈されるかと、
薪にするために残地していた木を運ぶ作業。
気持ちの良い汗と、通り抜ける風と、鳥のさえずり。

しかしやはり私は発熱した。
脳のレンジをふりきっていて、
オーバーヒートしたようだ。



2004年05月01日(土)

一日中洗濯掃除、部屋の片付け。
読み終えた本を選別し、保存するものだけ書架へしまう。
冬のカーペットに掃除機をかけ、干して、しまう。
夏物のシャツをタンスから引っ張り出す。

よく冷えたジンを、同じようによく冷やしたグラスに注ぎ、
太陽のふりそそぐベランダで煽る。

冴えない自分の気持ちも、こうして一緒に虫干しするのだ。
天気がいい日の考え事は、まったく損でしかないから。


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