みかんのつぶつぶ
DiaryINDEXpastwill


2002年10月27日(日) 履歴

抗がん剤治療は諸刃の剣だった。だがやめるわけにはいかなかった。治療を中止するためには、彼に全てを告知しなければならない。不自由になった身体を受けいれようと過ごしている彼に、治療の効果はない、先は短いということを相談しなければならいのだ。それまでも再発、転移と告知されてきた彼に、死ぬまでこのまま過ごせと、誰が云えるだろう。闘病に付き添っていた私には、告知したあとの彼を支える自信がなかったし、精神的な苦痛を与える行為は避けたい気持ちでいっぱいいっぱいだった。

抗がん剤の効果が思わしくなく、最後の手段として全脊髄への放射線照射を試みた。効果はすぐに現われた。痛みも治まり、脱力した足に力が蘇えってきた。放射線科へ通う日々は、彼に希望を与えた。病室ばかりにいる日々のなかで、治療へ行くという光と目標だった。歩行の練習もした。だが、そんな日々は、まもなくままならなくなってしまった。

彼の精神が崩壊していった。外泊してきた自宅を認識できなくなっていた。ベッドの上で、静かに狂っていった彼の内面。ここは自分の家ではないと焦燥した彼の表情が、私と子ども達の心に影を落とした。私は打ちのめされた。そばにいて救うことができない自分の行為を悔いはじめていた。

彼が受け入れることができないこと、それは不自由な自分の身体。
あれはうちの時計だね、だけどここは家じゃないという彼を怖いと感じた。こんなところには居られない、出かけるから車の鍵を出せという必死な形相の彼に言葉が出なかった。
入院によるストレス、病状を受け入れるために葛藤する心、彼の精神バランスはギリギリだったのだ。時間的確立がない、と診断された。彼のなかで病院は職場になった。だからここへ居なければならないという理由を彼自身でつくった。その頃は夜11時頃まで私に電話をしてきた。どうして俺はここにいるのか教えてくれ、という叫びだった。ベッドの上から携帯でかけてくる彼。彼は正常なのだ。だけど異常なのだ。苦しい日々だった。
彼には精神薬セレネースが処方された。効果はすぐにあらわれた。夜もぐっすり眠れるようになり、それまでの苦悩していた姿がまぼろしだったかのように落ちついた。彼が彼に戻った。だが、病状は深刻になっていた。同時にそれまでの治療による副作用も彼の脳に現われていたのだった。

そのようななかで私を救ってくれたのは、医師が私の話しに耳を傾けてくれることだった。看護士さん達が私の状態までも気にかけて言葉をかけてくれることだった。
ご主人のためにどうしてそこまでできるのか、という質問を受けた。興味本位ではなく、私の内面に触れようとしてくれる問いかけだった。

彼が今を快適に楽しく過ごして欲しいから。
病気でいる日々でも、何かできることがあったらできるだけやってみよう、
不自由でも工夫して快適にしよう、
私にできることはそれしかないから。







2002年10月26日(土) 履歴

がんセンターへ転院をすることは、私には術前の面談で医師から告げられていたことであった。治療は手詰まり状態であるということ、腫瘍の成長によっては2、3ヶ月で逝ってしまうかも知れない状況であるということ。それら全ては彼に伝えないでいた。最期まで。

がんセンターへ転院して間もなく、左腕と左足の脱力が始まった。頚髄の腫瘍が大きくなり、神経を圧迫しはじめたため。それでもまだ左手の指先だけは動いていて、握力は弱いものの掴める範囲ではあった。左足はひきずるようにでも歩ける状態であったが、抗がん剤他の点滴をひいて歩くためとても危険だった。彼がそのような状態をどれだけ把握できていただろう。どうしても自由に動きたい気持ちが強く、とうとうナースステーションの前へ病室を変更し監視されるようになった。点滴には大きな鈴がつき、ベッドの下、足を下ろす床面にはセンサーマットを敷かれて安全策をとっていた。

抗がん剤投与1クール、2クールと回数を重ねるたびに投与後の副作用が大きくなり、白血球の減少も増えた。彼の場合、抗がん剤投与中は比較的副作用が出ることはなく、身体のだるさはあるものの、吐き気や悪心もなく加熱食も残さず食べている状態だった。もともと点滴嫌いであったため、拘束されているという感が強く出て、投与中はますます病室に居ることを嫌い落ち着きがなくなる状態で、これには私も随分と悩まされた。抗がん剤を投与すると身体のだるさが強く、脱力が増してベッドから車椅子へ移る作業が困難になるからだ。そして点滴機材の設置も車椅子へ設置しなおさなければならないからだ。
しかし今思えば、そんな苦労は彼が生きていた尊い証しだった。一緒に生きた時間だったのだ。

抗がん剤投与後は、必ず彼は昏睡に陥った。2日、3日と食事もせず眠ったままになってしまう。その時期を過ぎるとまた体力が回復し、左半身の脱力感も少しは緩和されて自力で立っていられるほどになる。だが左腕は、全て機能しなくなっていた。幸か不幸か、この時点で脳腫瘍の影響はなく、頭脳は明瞭だった。酷な日々だった。動かない左腕をもどかしそうにしている姿に、かける言葉がなかった。

彼の脊髄には、首の部分と腰の部分に腫瘍があった。首が頚髄、腰が腰髄。腰髄の腫瘍が神経を圧迫すると、排泄のコントロールができなくなる。便意が弱くなれば定期的に浣腸をし、尿意が弱いのでウロサックを装着することになる。

腫瘍による痛みを抑えるために、MSコンチンを服用していた。モルヒネだ。この薬を服用すると副作用として代表的なのは便秘である。このため、彼はしばしば長時間トイレで時間を過ごすことで苦労をしたものだった。

脳腫瘍患者にモルヒネを投与することはめったにない、副作用による脳への影響が大だからだ。だが、彼には脊髄に腫瘍があるための疼痛に処方されていた。医師や看護士さんらの管理のおかげで、痛みのコントロールは順調にできていて、元気がよければとても快適に過ごすことができた。入浴も毎日できていたし、食べたい物を食べ、喫煙に行ったり喫茶室でお茶を飲んだりと過ごしていた。




2002年10月25日(金) 履歴

癌と肉腫、一般的に「悪性腫瘍」と呼ばれるものだ。彼の場合は肉腫であった。病理組織診断に要した期間は1ヶ月、この結果によって術後治療の方針を決めるのだ。
ただただ待ちつづけた1ヶ月。この間に、また彼の脳に腫瘍が育っていた。手術は成功、術後も良好、それなのに。急激に出現したその腫瘍を摘出、2回目の開頭手術。術後早急に放射線治療を開始。病名は確定できない組織。稀に見る悪性なものである、ということだった。
そんな診断をされた彼だったが、2回の開頭手術を受けた患者とは思えないと放射線科の医師から驚かれるほど元気だった。障害もなく放射線治療の影響もなく穏やかな入院生活を送っていた。
45日間の放射線治療を終え、3ヶ月の入院生活が終わり退院。その2日後に父が逝った。彼の退院を待ってくれていたかのように。
3週間ほど自宅で静養し、職場へ復帰。通勤に苦労をしていたが仕事ができる歓びに満ち溢れていた。
「疲れるけど、目標のある疲れっていうのは、いいもんだなあ」と、気持ちを素直に言葉にする彼に、驚いたものだ。そして、彼にとって入院生活がどれだけ苦痛であったかを物語る言葉だと思った。

年が明け1月の終わり、定期検診でMRI撮影。この結果、再発が認められた。2月、再入院。この頃から肩から首にかけて痛むというようになる。この痛みを調べることにより、彼の命が短いと宣告される。

頭頂葉に出現した腫瘍は小さく、外来では医師が見落としていたくらいの影だった。しかし、彼が訴える痛みによって撮影した脊髄には、腫瘍がくっきりと鮮明な形を現していたのである。特に頚髄、この腫瘍が、とても危険で、そう、残酷な場所にできていた。
そして、私がもっと驚いたのは、小脳にまで腫瘍ができていたことだ。転移。広範囲に転移しているその画像を見て、私は初めて恐怖を感じた。医師の重い口から吐き出される言葉は、現実とは思えないほどの内容であり、ただただ運が悪いとしかいい様のないありきたりな言葉が似合う場面だった。
この会話の内容は、彼に伝えることは勿論、医師と面談したことさえも隠していたのだ。

3月に入り、3回目の開頭手術。組織検査をし、適用できる抗がん剤をみつけるために腫瘍を摘出。根治術ではなかった。開頭手術を終え、首の痛みがなくなった彼はすっかり退院できる日を待ちつづけた。しかしそれも束の間、さらなる痛みが彼を襲うようになった。痛み止めを服用しても効き目が持続する時間は短くなり、医師から転院を勧められた。その時点で彼に、脊髄への転移を告知した。

3月の終わり、がんセンターへ転院。


2002年10月24日(木) 彼女と私

川崎在住時に親しくしていた子育て仲間のひとりから電話があった。1年ぶりか。旦那とやっと離婚できて現在は母子寮にいると。
ちょうど1年前電話で話したときには精神的にも追い詰められ、生活費を入れてもらえないため朝から夜中まで、四つの職業を毎日こなしていた彼女。体調も悪くなっている様子で、でも本来の明るく攻撃的な性格で何とか自分を保っている様子だった。いや、彼女らしさ、というべきか。
あの頃は私もなかなかしんどい毎日だったので、そんな彼女の状態は電話で聞くことしかできなくて、まったく相談相手にはならない相手だった。ただ、早く家を出たほうがよいということ、子どものために我慢をしているという彼女に、その我慢はかえって状況を悪化しているだけだということを伝えたと思う。とにかく彼女の命が危ないと感じたからだ。
その旦那は毎日筋トレをかかさない潔癖症のマッチョだ。気が小さくて力持ち。その鍛えた腕で彼女の身体を痛めつける。いま彼女は、その暴力の後遺症で左顔面の神経が切れていて、ずっと浮腫んだ状態でいるという。彼女は夫の暴力が怖くて怯える女性ではなかった。いつも闘っていた。自分の考えを真正面から伝えて、それに反論できなくなった旦那が暴力を使って彼女を黙らせるという図式。何が歯車を狂わせたのか、子育て時代に家族ぐるみで食事をした場面をふっと思い出す。

そちらは変わりないの?という彼女からの問いかけに、来月で旦那の一周忌になると伝えると、驚きのあまりに彼女が声を失っている様子がよくわかった。どうして言ってくれなかったのかと怒る彼女。私も出席させてくれとの申し出を丁重に断る。今度、ふたりでゆっくり墓参りに行こうねと約束した。一周忌となれば、彼女に気を遣わせるだけだ。金銭的にも余裕がないのに、彼女はきっと無理をしてでも用意してくれるだろう。その気持ちだけで十分なのよ。

旦那さんが作った鯵のマリネ、忘れられないよ、と彼女が呟く。あら、覚えてくれてたんだねと私が笑うと、忘れるわけないよ私は感動したんだもん、と。さすがお互い食いしん坊だけあるね、と笑う。あのときいっぱい作ったからと彼女の家におすそ分けしたんだった。それを覚えていたんだね。

やっと電話をする元気がでたからさ、という彼女の言葉にこれまでの辛苦を感じた。お互い損な性格だよね。辛いと言えずに見栄と意地だけで生きている。人とぶつかりあって傷つけて傷ついて傷だらけ。傷を恐れて自分に嘘をつく生き方なんてできない性質。いつも真正面から人を眺める人見知りで。味方になれば理解されるが敵は星の数ほど。

似たもの同士、先はまだまだ長いぞ。


2002年10月23日(水) 泣き兎

今日友人との会話のなかに終末医療についての話題がでた。そんな話しにも応じてくれる気持ちがありがたいと思った。

もう治療をすることができないという時がきたとき、患者・医者・家族の三者に同じゴールが見えることになる。死というゴールだ。治療の段階では医者と患者では認識や知識の違いで目指すゴールは違ったものになることもしばしばだろう。しかし終末期と医者が診断した時点から、みな同じ最終地点を意識することになる。でも、その過程をどう過ごすかということになると、また新たな判断を要求されることになる。患者本人の意識がはっきりしていたら確認をするのだろうか。それとも告知できずに家族と医者で判断するのだろうか。どちらにしてもその家族に判断が委ねられることには変わりない。果たしてどれだけの家族がそのときに正常な精神を保ち冷静な判断ができるのだろうか。そういうときに、医者の知識と経験を生かしたアドバイスがどれだけ助けになるか、医者は理解しているだろうか。患者にはもちろんのことだが、家族と顔をあわせ会話する時間をそれまで以上に多くして欲しいと思う。

息子が来ると聞いて泣いた彼は、息子が目の前に現われた時には無反応になっていた。目は開いている。だが、いくら話しかけても反応をしない。息子に視線を向けているのに言葉も出ない、表情も動かない状態になっていた。そんな彼の状態は、果たしてどういうことなのだろうか。いまだにわからない。目が見えなかったのか。意識が朦朧としていたのか。それとも、涙をこらえるのに必死だったのか。
無言で3人、しばらく時を過ごすだけの病室。息子が、父親の起き上がっている姿を見たのは、あの日が最期になってしまった。会話は、できなかった。

見送らなくていいという息子を待たせて、彼を車椅子に乗せる。玄関を出たところで息子の背中を見送る。彼とふたり、遠のく息子の姿を見つめていた。すると彼が、息子が去った方向を指差し、何かつぶやいている。私は彼の顔に耳を近づけた。

「あっちにいった」

もうすでに持ち上がらない両腕。かすかに右手の指先だけが動く状態のなかで、人差し指をそっと伸ばし、息子が行った先を指した。そして小さい小さい声。

私は、じゃああっちに行ってみようかと、バス通りに面している門まで、息子がいま歩いた道を進んだ。車椅子に座る彼の頭には、黒々と髪の毛が生えてきていた。抗がん剤による脱毛でしばらく生えてこなかったのに。細胞は、ちゃんと再生されている証しなのだ。それが、とても悲しかった。
通りまでくると、息子が乗ったであろうバスが通過するところだった。車内に目をやると、入口付近に立つ息子の影が見えた。あのバスに乗って帰ったよ、と彼の耳元に囁く。彼は、わかったのかわからなかったのか、返事はなかった。

後日、父親に北海道の土産だといって息子が差し出した箱には「泣き兎」と印刷されていた。箱を開けると、手のひらにおさまる木彫りの両耳を後ろに垂らした兎がちょこんと入っていた。あまりの可愛さに、涙が出た。直接病室へ届ければ、という私の言葉に息子は曇った顔で首を横に振った。息子の気持ちが、痛いほどわかるから、それ以上は何も言うことができなかった。

彼の右手のひらに、その兎を握らせてみる。だが、彼には持ち上げて目の前に持っていくことも、だからといって右手のひらを見るために首を動かすことも、もうできなかった。わかっていたけれど、意識が少しでもハッキリするのではないかと思い、握らせる。少し彼の視線が動く。彼の右手を持ち上げて、お土産だってよ、と声をかける。返事も反応もなかったけれど、きっと彼にはわかっていたと思うんだ。

だが、息子には可哀想なことをした。修学旅行中に危篤となった場合を考えて会いに来させた。だが、父親が自分を認識できていない様子を見たショックは、きっとあったはずに違いない。無表情に隠した悲しみ。

私は、一体どうしたらよかったのだろう・・・

私は、病は気から、という言葉を使用するのは控えるようになった。あまりにも無責任な響きのような気がして。明るい気分でいれば病気にならないのだろうか?楽しくしていれば病気は治るのだろうか?虚しくなるばかりだ。








2002年10月22日(火) morning moon

朝、満月だった。
冷えた空気と月。しばし茫然とした。でも窓をいっぱいに開けて空気を思い切り吸い込んで、匂いを感じた。キリキリと肺の中に流れ込む酸素。彼の口に挿しこまれた管を思い出していた。痰を吸引されたとき嗚咽しながら涙ぐむ顔を思い出していた。吸引が終わって涙を拭いてあげたときに見たその潤んだ瞳。ありきたりだが、純粋な、とても純粋な瞳の色になった彼が、とても切なかった。

病室へ泊まるようになってから、朝5時に病室を出て、ほの暗い自販機で珈琲を買い外のベンチで煙草を吸う。まだ暗い空に浮かぶ月を見上げながら思いきり空気を吸い込んで、そして月へ向かって大きく吐き出す。ため息をつきたくないばかりに深呼吸をするのだ。

あの日も。いつもと変わらぬ朝を迎えたいと願う想いで外へ出た。白い息を吐き出しながら新聞配達の人が通る。元気な頃、彼はいつもあの人から朝刊を買っていた。退院するといったらとても残念がってたと聞いたことがある。

新聞屋さん、彼はまたこの病院に入院してるんです。でも、あまり元気じゃないんです。
追いかけて伝えたい衝動にかられる私がいた。
誰かに、聞いてもらいたかったんだ。

見上げた空には、三日月が尖っていた。うっすらと朝陽の昇る気配が見えるビルの隙間とのコントラスト。その風景があまりにも美しすぎて怖くなった。三日月の光に怯えた。街の上に横たわる大きな三日月が、予言者に見えた瞬間だった。


2002年10月19日(土) 夢で逢えたら

戸籍謄本が必要になり、鎌倉へ行った。見慣れた馴染みの街並み。

娘が懐かしそうに記憶をたどる。
ここは父親がよく使っていた駐車場。
ここはよく父親が買っていた酒屋。
懐かしいビル。ここにお店があったんだよね。
アルを買ったペットショップは駐車場になっちゃった。

そのうち、私と娘は無言になった。
かわす言葉が、妙に傷をなめあうだけのような気がしたから。

思い出を傷とは思いたくないけれど、
父親の死は娘の心に傷をつけたのは確かだろう。
娘は、歩き進む道のりのなかで記憶を蘇えらせ、デジャヴだとつぶやいた。

最近多いんだよねえ、ここは昔来たことがあるんじゃないかと思うことが。と、娘が心模様を語る街角で。

残像が見えるよ。ほら、そこにもあそこにも、歩いているよ、お父さんとおじいちゃんが。みんな一緒の場所にいたのにね。いまはこうして二人で想い出を拾いながら歩くことしかできないね。悲しいね。

今日は、お父さんの夢を見るかもね。だといいね。


2002年10月18日(金) いま私は。

去年の今日は、一緒に泣いた日だったんだ。病院の敷地内にあるベンチで。カサコソと枯葉が足元に数枚落ち始めた季節で。そう、この季節、この匂い、この陽射し、季節は巡る。

どうして彼はあのとき泣いたのだろう。息子の名前をいったから、急に思い出したのだろうか。そして、私を私と認識しながらも目の前にいるのは息子だと思って私の頭を撫でたのだろうか。それとも、言葉にはしなかった感情、子ども達と逢いたいという感情がいっきに脳内に湧きあがり、涙が思わず溢れてきたのだろうか。それとも・・・自分の命の短さを悟り、嘆いていたのだろうか。治ると信じていた勇気に体力が追いついていかず、もうこれまで、と。

彼の涙を見て、私はもうどうしていいのか繕うことすらできなくって、どうして泣くの・・・としか言えなかった。私の心の中に、深く深く染み込んだ彼の涙がいまでも時々深い沼を作る。川となってせせらぎになることのない沼。七色に光る水面で、私は小舟に乗り漂う。どこかに流されるわけでもなく、流れていくこともできず。

この日を境にして、彼はますます眠っていることが多くなった。衰弱がすすみ、点滴も再開されてしまった。去年の10月は、雨の日が多かった気がする。彼が目覚めるのをベッドサイドでひたすら待つ日々。窓の外は雨音。暗い病室が一層暗くなる雨の日が続いて。目覚めない彼のそばで花を飾った。花屋へ行き花束を2束ほど買いベッドサイドに置いた。彼が目覚めた時に目に入るように、言葉をかけても反応しなくなったその目に、病室の壁ではなく花々の色を映して欲しくって。

それから私は少しづつ荷物を整理しはじめていた。それまでは彼がいつ要求するかも知れないという荷物を細々と置いていたのだが、もう、彼が要求することはなくなっていた悲しみで、ベッドサイドのワゴンを開けて荷物を整理していた。希望を失っていた。

光のない日々のなかで私の精神も衰弱していた。目覚めるのが怖かった。起きても病室へ行く気力がなかった。私が行かなければ彼は起してもらえないという使命感が失せはじめていた。ただひたすら彼の眠る顔を見つめている時間が私を狂わせていた。命が、命が。命が消えようとしている彼の姿を、ただただ見ていることの無力感が、とてもとても辛かった日々だった。彼のそばにいてあげよう、という気持ちに私の気力が伴わず人知れず苦しみ、病院へ向かう時間がだんだんと遅くなった時期だった。予期悲嘆だという。

そんな日々が私の心のなかに後悔として残る今。言葉では表せないあの時間。想い出にかわる日まで静かに過ごすいまの私。


2002年10月17日(木) 二十四年間という残酷さ

北朝鮮に拉致された人々がテレビ画面に映し出される。その固い表情から涙がこぼれて肉親との再会する姿。感動、複雑。心が痛む。これまでにどれほどの涙を飲みこんできたことだろう。涙は温かいものだと感じることのない涙を。これからの現実を考えれば、二十四年間という歳月は、あまりにも長すぎるだろう。

空白の二十四年間を埋めることはできるのだろうか。この先が辛くなることはないのだろうか。故郷の土を踏みしめた人々の先に、幸多かれと願うばかりだ。




そんなこんなを考えながら、鵠沼海岸で昼寝。いいお天気だった。寝転び見上げる空は、正面から私と静かに向き合ってくれている感じ。人々がそれぞれの時間を楽しむ砂浜風景。烏帽子岩が入浴をしているような静かな波。鳶が空高く弧を描く。

とりあえず私は平和だ。


2002年10月16日(水) 眠い午後三時。

今年はどの柿木の木を見ても鈴なりになってる。豊作だね。ついでにミカンもよく色づいているし。ホント、実りの秋になりました。

早いもので、来月で1年になります。去年はまだ、元気ではないけれど生きていてくれたのになぁと、薄くなった空を見上げて歩きます。

またちょっとおセンチになったりしてます。セピア色の背景が私の後ろに。でも、そんなことを考えながら向かう先はジムだったりするんです。ええ、そんなもんです現実というのは。←ぴかちゃん風味?(笑)
へこたれてばかりはいられません。自分改造計画第ニ弾突入。第一弾があったかどうかは不明ですが。え?文章が変ですか?ええ、それはとても眠いからです。眠いくせに柿木の実が鈴なりだということを書きたくて開いています。それにフィットネスコーナーの設置を思案中なのであります。せっかく情報をいただいているのに上手く活かし切れていないので。
ダイエット中とか、筋肉増量中のかた、よかったら覗いてみてください。みんなで元気にストレッチしましょう。

静かに私はプールで歩いています。誰ともお喋りも挨拶もしません。目線も合わせません。嫌なんですね。集中したい場所に知り合いを作るのは。気兼ねが生じるものですから何かと人間関係っていうのは。変な人で構いません。私は私なので。

とっても眠いです。どうしよう、ここで寝たら晩御飯の支度が遅くなるぅ・・・


2002年10月15日(火) 子どものいる景色

この世のなかで、暮らしていることは素敵なことだね。何気ない朝の光に包まれて玄関を開けて学校へ行く後姿は、幸せに満ちている。湯上りでホカホカした顔が赤ちゃんの頃と変わらないことに気づく瞬間も幸せがこぼれてる。テレビを見ながらゲタゲタ笑う声が響くリビングは、幸せの匂いで胸がキュンとする。

これが、時が経つということなのだろう。


2002年10月11日(金) お絵描き

日記二歳の記念にサイトの模様替えをって思っていたのに、なかなかはかどりません。頭の中が散らかっていて、これといったアイデアが見えてこないし。そうするとなんとなぁく、お絵描きして色遊びをはじめてしまう。

小さい頃からお絵描きが好きで、クレヨンと画用紙を買ってもらうことが多かった。あの頃、ぺんてるの二十四色のクレヨンに憧れたもんだなぁー。いまじゃクレヨンも百円ショップで売られるくらいに安い道具となって。

中学一年のときは美術部で、でも何を、といったことはなかったし。高校では選択科目で美術をとったくらいだったか。私の描いた油絵をだれかが貰っていたと友達から報告があったけど(笑

子ども達と一緒に絵画教室に通い始めて。その先生は、自由に描かせることを基本にするひとだった。絵画教室の展覧会へ行くとわかるんだけど、みんな同じような画風になってしまうところがあって。そのお教室の先生の色になってしまうんだよね。

うちの先生は、ホントに根気のあるひとで、子ども達の作品を様々な角度から眺めては褒めて、途中で投げ出してしまうことを絶対にさせなくて。子どもがその手から作り上げたものを大切にしてくれた。面白いね、楽しいね、へえ〜そうなのー、って感じで。
なので私も伸び伸びと描かせてもらえる環境で、カンバスに色をのせることがとても楽しいひとときだったと思う。

三年ほどのお付き合いだったけれど先生、お元気かしらん。


2002年10月10日(木) 日記デビュー記念日

病院へ行くと疲れるよ。
なぜかっていうと、
生きたいっていうエネルギーが溢れていて、
でもどうにもしてあげることができなくて、
自分のちっぽけさを感じてしまうからだよ。


病気のひとがいるからじゃないんだよ。
病気のひとが懸命に生きている努力をしているから辛くなるんだよ。
自分はなんだ、甘ったれてるぞ、って。


いまこうして眺める景色は当たり前なんだけど、
それが当たり前ではない景色になるのは人の運命なのだろう。


生きていることは自然な行いであり、
生きている限り死を迎えることも自然なことであり。









いないんじゃなくて、
無になってしまうこと。
それが、
死。



身体が遺体になって、
ただそこにある物体になってしまうことの変化。
どうにもならない、ならなかった、なれなかった悔いる気持ち。



日記をつけはじめたのは、
2回目の開頭手術をしたあとだった。
仕事もやめて病院に通う日々になった秋の日だった。
金木犀の香りでくよくよしている日だった。


それまでは体育の日で子ども達と市民運動会にでたり、
休日を過ごす何気ない何でも無い日だったのに。




手術をして1ヶ月後にまた再発という現実で、
どうしても前向きな気持ちだけではいられなくなってきた自分をみつめ、
文字という形にして眺める場所を作った。
それが「みかんのつぶつぶ」




どこかで知らないだれかが私の日記を開いていることの不思議。
顔を知らないひとが私の考えていることを感じてくれている感動。
そして、
そんな私の前に足を止めて言葉をかけてくれる優しさ。


ありがとう。



2002年10月09日(水) 通夜

お通夜にいってきた。
息子の同級生のお母さんが亡くなったのだ。


遺影は若く微笑んでいて。
どんなにか心残りだろうと心が痛んだ。


子ども達が受験勉強真っ最中のこの時期、
どんなにかベッドの上で心配だっただろう。




昨年、一昨年と続けて過ごした二人分の通夜を思い出してしまい、
お焼香はしないで帰ろうかと思ったくらいに窮地だった。



去年は反対の立場だったんだなあ
みんなこうして並んでくれていたんだなあ
とか。


寒かったね。あの夜。





もうすぐだね。
もうすぐあのときが。






通夜や葬儀も悲しいけれど、
遺族はその前にもう、
どうにもならない悲しみの洗礼を受けているのであって、
だからこそあの式典は美しくなるのかも知れないね。
張り詰めて自然に選り分けられた涙を抱えている人々の儀式だから・・・






2002年10月08日(火) リンク

朝6時。ゴミ出しついでにコンビニへ行く道で。
秋の匂いと冬の匂いが混ざっている朝の匂い。





朝。
冷えた朝。





雲の多い朝の空。





父が逝った朝。





あの朝の匂いを思い出して、
どうやって歩くのか忘れてしまいそうになった自分に驚く。








太陽は7分前の姿だという。
私の姿も7分前の姿かも知れない。
そして、
7分前、いや、1年前の私の姿がそこに見える気がする。



どこへ行っても見える気がする。
そう、
いまはどこかへ出かけるために通過するあの病院の門を通る時、
車椅子を押す私が見える。
車椅子を押す私が現在の私を見ている。



あの日あの時、生きているのは本当に辛いと思ったあの日、
1年後の私は私と彼の姿を目に止めながら通過する。



街のなか、歩く彼を見る。
現在の私に気がつかない彼を見る。




私は7分後の私。




何億光年も先にいる私。
二度と同じ時はない。







脳のなかに光るリンク文字。
クリックするのは私ではない。
感覚がそのリンクをクリックする。






固体を作るためにエネルギーを蓄える。
壊れる時はエネルギーを放出する。
その放たれた粒子が、
また新たな固体を作る。


父も、彼も、
新たな固体になるために宇宙へ飛び散っていったのだ。
私達のなかに同化しているのだ。


そしてまた、
私は新たな固体を作るために生きている。




生きていていいんだと確認する。
生きたいと思っていいんだと確認する。
自然なことなんだと確認する。



空は、いつも無言で広がっている。



ずっと前から全てわかっているように。



2002年10月07日(月) みーんな星だったんだっ

朝のあの暴風雨が嘘のように晴れました。
でもってすっごぉく暑くって、まるで夏のような気がする空で。
錯覚をおこすような青空と雲でした。


お天気も良くなったので娘の授業参観に行ってきました。
息子の学校もそうだけど、
娘の学校もものすごぉく辺ぴな場所にあるので大変です。
車だと20分くらいなのに、電車とバスだと1時間はかかるかなぁ


娘の教室は5階にあって、
5階まで作るのならエレベーターくらいつけろよって感じです(恕
常々娘がこぼしていた通り、
5階まで昇るのはホントに大変で大変で・・・(泣)


地学の授業でした。
私は地学、苦手でしたので興味ないしぃイヤだなぁって感じでいたのです。
いたのですが。うふ♪


先生、すっごくハンサムっっ
声もいい感じで、とっても得した気分になりましたわ。


いい男が教壇に立つ姿はホントに景色がよくて、
授業に身が入りますっっ


「ボク達は昔、それぞれ星だったんだよ」


なぁんて仰ってましたが、まるで愛の囁きのよう(笑


私達が見ている太陽は、7分前の太陽なんですって!
決して現在の太陽を見ることはないんだそうです。
もしも太陽が爆発しても、
私たちは7分間は気づかないでいるということです。


宇宙に「同時」ということはない、のだそうで。


勉強って、いいなあ。
勉強に浸れる環境っていうのは、学生時代しかないものなぁ
高校生よ、有効に使いたまえよ、この時を。



実は、この高校に私の同級生が教師をしておりまして。
入学式のときにわかったんですけれど、挨拶はしていなかったので、
担任をしている教室が並びだったので、HRが終わるのを待ち伏せしました。


「!?おぉ〜〜久しぶりい〜〜〜」


お互い歳くったもんだ(泣
でも、元気でよかったよかった。


じゃあ、と別れ際、しっかりと指摘されたけど。


「懇談会、出席しないの?」


「え゛・・・う、うん。今日は欠席で」


そそくさと娘と下校しましたわ。オホホホホホホ。








しかし、多分習ったことなのでしょうね昔、本日の授業内容って。
すっかり初めて聞いた気分になっているけれど・・・
いかに勉強してなかったかが露呈した感じ(汗


2002年10月06日(日) 空の下、生きてる私達

涼しくなったり暑くなったり忙しいから体調を崩すよねえ

風邪ひいてるひと多いし。

息子も鼻かみっぱなしだし(汗




最近は土日に塾は休みらしく家にいる。
お腹が空くと出てくるって感じなんだけど(笑


仏壇に供えてあるお饅頭やらお団子やら甘い物を食べていることもある。
ま、その度に父親の写真が目に入るんだから、
親子の会話をしているようなものかもねえ


脳をつかうと甘いものが欲しくなるんだね、きっと。
だからテーブルの上にはお菓子をかかさないようにしている。
夜中も勉強の合間に出てきてはガサゴソ食べているし。
部屋に持っていかないところが律儀だよなぁと感心してしまう。
ずっとそうだなぁそういえば。部屋にお菓子を持ち込まない子だ。
でも飴だけはちゃんとキャンディポットに入れて机の上にあるけれど。


息子は、全然お喋りしないけど、
それはそれで、自宅という空間でくつろいでいるということなのだろうか。


新聞は必ず目を通す子ども達。
娘の愛読する雑誌は日経エンタテイメント。
彼女は割と、雑多な情報が頭の中にたくさん入っている。
テレビを見ながらニュースの詳細を彼女から教えてもらうこともしばしばだ。


来月で16歳になる娘。
原付バイクの免許を取得すると意気込んでいるが、
危ないし心配だし、できるならやめて欲しいから、
お父さんがいたら絶対にダメっていうよ、って脅かしておいた。


笑っていた。でも、いないじゃんって。













この空は、昇仙峡から撮った空です。
頂上まで行って、空に近づいてきました。




ありがとう。
生かしてくれて、ありがとう。



そんな気分だった。



2002年10月05日(土) 後悔先に立たず

あー、痛かったぁ
採血でこんなに痛い思いするなんて夢にも思わなかった(泣


結局、母のかかりつけである産婦人科を受診。
乳がんと子宮頚がん検診をしてもらった。
右の卵巣が少し脹れてるけれど心配するほどじゃないらしい。
で、更年期だから漢方を処方しますって(汗


ちょっとショックかも・・・ぅぅ


受付のおばちゃんが保険証を見て不審な声で聞いてくる。


「片親でお子さんを育ててるわけじゃないわよね?」


・・・言ってる意味がわからなくてポカンとしてたらまた聞かれた。


「旦那さんは別に社会保険に加入されてるってことよね?」


・・・ああ、そっか
国民保険証で世帯主が私の名前になっていて子どもが扶養になっているからね。


「えー・・・、主人は亡くなりましたので」


「あらまあ!ごめんなさいね。
じゃあこの保険証とは別にもう1枚カードがあるはずなんだけど」


「え?なんですか?それ」


「医療費が無料になるはずなのよ。手続きしていないのね?」






げぇぇ、そうなん?医療費、タダ?
区役所め、そんなことひとっことも言わなかったぞ(恕




ああ、でもちょっとホッと一安心。
自分の身体だから、不調はわかってるんだからなんとかしないとねえ。
でも怖いんだよね、病院に行くの・・・
不調がわかっているから尚更怖いもので。
悪い結果になったらどうしよう、とか。


だから、
彼も、父も、
きっともっともっと怖かったんだろうなぁと思う。
悪性の腫瘍が自分の身体にあることがわかっているのだから、
どこか少しでも具合が悪ければ、不安は私の比ではなかっただろう。
簡単にMRI検査だ、問診だと連れていったけれど、
その道中は、どんなにか辛かっただろうかと。






父はあまりにも痛みに苦しみすぎて、
だけどとても怖がりだから薬を飲むほど自分の病状が悪化しているといことが
とてもまた怖くって。
MSコンチンの量が増えることをとても嫌がって、
自分で痛みを我慢することを父は選択してしまっていた。




精神科の治療も必要だったのだろうと、今更の見解。


ごめんね、お父さん。
わかってあげられなかった。






お父さんの大好きな柿が、
あちこちに実っているよ。


2002年10月04日(金) 不安

さぁて、どうも体調が思わしくなくてですね。
婦人科検診でもと思い夕診のある病院へ行ってきました。
行ってきましたが、
産婦人科の夕診はないといわれ、とぼとぼ帰宅っす(泣


その総合病院の喫煙所は一階玄関横にありまして、
どうしてもそこを通らないといけません。


その喫煙所に、
父が必死で5階の外科病棟から点滴をひきづって来ていた姿を、
否応もなく思い出して。
末期的な黄疸がでていて、
だけど父は、
どこまでも自分を奮い立たせたくて、
力の限り動いていたかったのでしょう。
病室から出て、
喫煙所へ行き、
そしてまた病室へ戻るという行為は、
何気ない行動にみえるけれど、
それは、
とてもとても命がけの行為で、
とてもとても、
せつないせつない父の想いがあって。


父を思い出し、
ああ、この病院を選んで失敗したなぁと後悔。
娘は、お父さんのいた病院に行けばいいじゃないかと言うけれど、
いまは、行きたくないよ、あの場所には・・・





帰り道、父の会社へ立ち寄り、
変わらずに働く従業員のおじちゃん達の笑顔に癒されて。




2年前の今日、入院中に2回目の開頭手術をしたのだった。
父と母と三女、3人で待合室に来てくれた。
父も、痛みで一時入院から退院したその足で。



それから間もなく黄疸がでて、
ガンによる疼痛も日に日に増して、
父はまた入院したのだった。




去年の今日は、
もう、父はいなくって、
彼の命もだんだんと小さくなってきていて・・・








秋の匂いがね、するんだよ。
木々の葉が香ばしくなる季節。
実りの秋。
大好きな季節。
どうして今日は、
こんなにこの秋の匂いが苦しいほどいとおしく感じるんだろうとか。


来年も、私は生きているんだろうか。
そんなこと、ふっと想っちゃうんだよね。




将来へのぼんやりとした不安。
そんな秋の一日です。
















みかん |MAIL

My追加