みかんのつぶつぶ
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2002年09月28日(土) 変化

この写真は、大桟橋から山下公園を撮ってみたもの。
かもめがいい感じかな。


最近ちょこちょこと歩きまわっている。
せっかくの秋の季節を見て歩かないとね。





でもさ、
なんとなくどこか違う、いままでと。
世界を見る目が変化したみたい。
それは、何色になったのかはまだわからない。
まだまだ。





私でさえこうなんだから、
子ども達は、どんなに苦しいだろうね。


触らないでいようと思うんだ、なるべく。



2002年09月26日(木) 病院へ行こう

雨降り。
去年も秋雨の日が多かったような気がする。


いっつも暗い雲に覆われている空と、
灰色のコンクリで四角ばった病室と、
真っ白い掛け布団。
しとしと雨とひんやりした廊下と。
そんな記憶。


病室って足元がとっても冷えてきて、
余計に居ても立ってもいられない気分になる。


そんな感じ。




とにかく、この歯痛をなんとかしなくては。
かれこれ2年越しですか。
10月から先の計画としては、
身体の放置していた箇所の治療かな。
神経疲労から色々と故障してきて誤魔化してきたけれど、
もう、しばらくはそんな無理をしなくてもいいのだし。






痛みなんてどうってことないさ。
そう、痛みなんて。


2002年09月25日(水) 高次機能障害

墓参の帰り道。
道の反対側、向こうから歩いてくる青年がひとりで笑っている。
ニコニコと静かな楽しげな幸せそうに微笑んでいる。
ちょっと白さが目立つ細い顔立ち。
すれ違うときに目に入った横顔。




右側頭部に、開頭手術の術跡。
彼と同じ位置にあった。
大きな大きな術跡で。




道路を挟んでいるのに術跡だとわかるほど。
退院したばかりなのか。
それとも連休で外泊しているのか。
そんなことを思い巡らした。




後姿で歩き方はしっかりしているのを確認してしまう。




でも、その青年はひとり微笑んで歩く。



いいんだよ、
ずっと笑っていていいよ。
いぶかしげな顔をされても気になんてしなくていいよ。
何も心配しなくていいよ。



どこへ歩いて行くのかな。





人に優しくなりたいよ。
でも、
優しくなるには強くならないといけないから。
そこが苦しいところだなあ。


2002年09月24日(火) 見えない形

形はね、
粉がたくさん集まったもの。
一握の砂。
悲しみがたくさん集まったら、
形ができるよ。
でもできたその形の意味は、
もう悲しみではなくなるかもしれない。
悲しみが集まったから悲しくなるのではなくて、
悲しみを持つ心が集まったら温かくなるんじゃないかな。
悲しい部分はだれにでもどこにでもあるものだから。
気にしないでなんていわないよ。
悲しいから泣いてもいいよ。
泣いたらきっと少し軽くなるよ。
そしてまた新しい悲しみで涙がでるよ。
でもその新しい悲しみに自分の考えが形になってきて、
怒りの涙になるかもしれないね。



怒りの感情は苦しいよ。
悲しみよりも辛いことで。




そうして歩いていくのが生きていることなんじゃないかな。
生きているから涙がでるんだもの。
心が脳がそうして欲しいと要求している自然なことだから。




だからね。
脳が病気になると悲しいんだよ。




わからなくってもいいよ。
でも知っててね。


2002年09月23日(月) 墓参

調子が悪いです。
どこかなにかが切れてしまっている感じ?
あぁ切れてるのはいつものことか。
だけど、
なぁんかねえ。


金木犀の香り漂う季節となりました。
ギクリと道瑞で立ち止まります。



お墓参りのハシゴで疲れ果てています。


小田急線かったるいです。


成城学園で乗ったタクシーの運転手さんは霊が見えるひとだった。
お墓にはだれもいないけど、お墓参りはしたほうがいいって。
自分が死んだときにお迎えがきてくれるからってさ。
でも運転手さんの訛りで、
ほとんど何をいってくれているのかわからなかったのが残念。


成城から藤沢へ着いたらとたんに雨で、
父のお墓では柿の木から落ちてくる雫に苛立ちました。
濡れながらお花を供えていたら、雨がさぁーっとやみました。


お父さん、ありがと。


2002年09月21日(土) 彼岸

夕暮れ迫る商店街の薬局は、切ない想い出。


薬局へ走り、何か彼のために買っていけば何とかなるのでは、という思い。


コンビニへ行って夕刊を買う。
目が覚めて彼が読みたいといったときのために。





だけど全て必要がないことだということもわかっていて。


ただただ切なくて切なくて
泣きたい気持ちを抑えて
だけど泣きたいのかどうなのか自分でもわからなくて
だれかに聞いてもらいたいけれど答えはわかっているからやめる




どうしてこうなってしまったのか
どうしてこんなに元気がないのか


ベッドサイドで固まってしまうだけの自分の姿


大切な大切な時間を黙々と刻む音だけを感じて、
もう、前か後ろかわからなくなっている自分の思考。





病室を思い出す。
怒りと悲しみが湧き起こる。
だけどその場所に置いて帰らなければならなかった。



午後8時10分
この時間にあのバス停でバスを待ち、
誰かそばに居てくれたらと車内から月を見上げて。
病院から遠ざかれば気持ちは少し切り換わり、
明日のために家路につこうとする。


これを買っていったら彼が少し元気になってくれるだろうかと、
勤め帰りの人で混み合うスーパーで食材を選ぶ。
手のひらに食い込む袋をぶら下げて、子どもの待つ家へと急ぐ。


待っているそぶりも見せずに私の帰りを待つ子ども達。
疲れたと口走ると悲しみの裏返しで怒りはじめる娘。


あまり見舞いには行きたくないんだ、と珍しく口篭もる息子。


不安だったんだよね、みーんな。
姿を見れば尚更不安になるんだよね。
そんな状態だったんだよね。


ぜーんぶわかっていたのに、
どうしてなにもできなかったんだろうね。


もっともっと。


なにかできたはずじゃなかったのだろうかってね。
思っちゃうんだよね。


こういうのって、どういうことなんだろうね。


命が動こうとするときって、
だれも身動きできなくなるもなのだろうかね。


大きい大きい動きだから、その振動が伝わってきて。


だけど、
そんな大きな不安も、
家族が揃っていたからあったものなんだよね。


ベッドで眠っているだけでも、
彼はちゃんと父親の役割を果たしていたんだよね。


私達が生きていく保障を与えてくれていたんだよね。


いまもこうして何の不自由もなくいられるのも、
父親としての役割を果たしてくれていることと同じ。


これからを生きる私達のために、彼がいる。




ありがとう、おかげさま。













2002年09月20日(金)

リンクされる。
その扉は突然現われる。


私の細胞が、
その記憶を蘇えらせる。


動けない。


頭の中に虫がいるみたいに耳鳴りがする。


どこか、修復していない部分があったみたいな感じ。


心をスキャンして、
もう一度みつめなおしてみなければ。


そっと横たわり、
うつらうつらする昼下がり。


こんな風に、
病室で眠っていたのだな、と再確認。







あの日、
私に何ができたというのだろう。



2002年09月17日(火) キムチパワー

うちの近所にキムチ屋さんが開店して、
さっそく買いに行ってみたりした。


店内にはお客さんがお持ち帰りのチヂミ待ちでひとり。
焼いている匂いが食欲をそそるぅ


ショーケースよりも冷蔵庫の方がはるかに立派で大きかった。
どうしてかしらん。
冷凍にしておくのかなぁ。
などとぐるりと見渡して、
キムチの小瓶詰めとニラキムチ、ナムルと韓国海苔一袋を注文する。
ニラキムチは量り売りなので奥さんらしきひとが奥へ計りにいった。


するとチヂミを焼き終わった旦那さんらしき人物が私に、
韓国海苔はよく食べるのかと聞くので、
おやつがわりに子ども達が食べてしまうと世間話しをした。
すると、



アナタ カンコクノ ヒトデスネ?



と、ちょっと片言っぽい日本語でいわれて、ちょっとびっくり。


「あら、よくいわれるんですけれど違うんですよぉ」


エ?アナタ ニホンジン? テッキリ カンコクノ ヒトダトオモタヨ


「韓国のお友達はたくさんいますけどねえ。残念ながら違いますぅ」


ソウ ソウデショ ワタシ アナタココ ハイッテキタトキカラ オモタヨ
ダカラ カンコクノ コトバデ アイサツ シタヨ アンニョンハセヨ


「あはは。
で、ニラキムチがあるけど、ネギキムチは無いんですか?」


ホウ?!アナタ ヨク シッテルネ! ホントニ カンコクジン チガウノ?







・・・苦笑





すっかり疑惑の眼差しです、旦那さん。
残念ながら違うんだなぁー
それに隠す必要ないしなぁーもし韓国人だったとしてもぉ



帰りに冷麺を一袋おまけにもらっちゃったし。
また買いにいこっと。




2002年09月15日(日) アルジャーノンに花束を

少し人と距離をおきたい気分ってことは、
どことなく調子が悪いってことで。





ミイラのようになって死期を迎えるということは、
骨身を削って命を消化しているということであり、
とても自然な形だということであり、
屍が満足げだということだと何かに書いてあった。


そうなの?
どうなの?


生きようとした結果だから、という。

ある意味そうだと思う。
生きようとしたから衰弱しながら呼吸をして、
呼吸をするだけでまた衰弱して。






息子が暗い。
勉強漬けの日々で、光りは見えているのだろうか。
でも、
息子自身が選択した道なのだから見守るしかない。


カレーに骨付きチキンを入れたら、
お風呂場にいる私のところまで文句を云いにきた。
バスタブを洗っている私に向かって、
仁王立ちになって怒っていた。


こんなもの2度とカレーに入れるな。


と、いいながら食べていました。チキンをよけて。


まぁ、時々息子の癇に障ることをして刺激する役目だなぁ。とか。






ここへ引っ越してくる前にハムスターを飼っていて。
娘にクリスマスプレゼントで買ってあげたんだった。
そのハムスターが急死して、外出していた私に息子が電話をよこした。


「アルが死んだから」


帰宅すると、息子と娘ふたりで側にある桜の木の下に埋めてあった。
残っていた餌も一緒に埋めてあげたんだ、と。



7月のある朝、
その桜の根元に、ひまわりの芽がにょきにょき顔を出していた。
アルと一緒に埋めたひまわりの種が、いっせいに芽をだしたのだ。


私は、複雑な気分だった。
子ども達も、神妙な顔をしていた。


私達は、ひまわりの花が咲く前に引越しをした。



HPにいるアルは二代目です。
10000HIT、ありがとう。





2002年09月14日(土) けろけろけろっぴ

急に涼しくって、というよりは寒いんですが。
極端な温度差は私と一緒。へへ。


そろそろ一周忌のことを頭に置かなければならないですなぁ
そんでもって父の三回忌ですか。ふむぅぅぅ


なぁ〜んにもしないで1年かぁ
なぁ〜んにも自分の環境を変化させずに現在に至り。


仕事を惰性で処理できるほどまだ割りきれていないし
このなんでもない束縛のない時間がとても愛しくなってきていて。
すっごいストレスな毎日だったんだと今更思ったり。
10月の日記はもう笑う気力さえ無くなっている感じでね。
読み返すのも辛いよ。
でも現実だから。
あれが現実だから。
もう身動きできないほどのストレスだった日常。




でも、私は生きている。
ケロリと生きている。






2002年09月10日(火) 浪花節だよ人生は

最近プールのおかげで身体が少し軽くなったようだ。
身体の贅肉がとれると、
心の老廃物も解消しやすくなるかもしれないなぁ、とか。
単純単細胞なみかんです。


はきにくかったスカートがすんなり入ったり、
ピチピチでカッコ悪かったTシャツがスッキリ見えて来たり、
そんなことで気持ちが和む生き物が女かも知れません。


ただ、ちょっとゾワッとするところもありますがね。
私、どこか悪いんじゃ?とか。
まぁ、これを気に病み始めると、神経衰弱になりますから、
すぐに解消するような機能を発揮しますが。



たったこんな単純で勝手な妄想的なことで気に病むのですから、
持病を持つひとの再発に対する心理は、どれほどのものだろうと想う。





暗い淵をのぞかずにはいられないでしょうか。
淵の底から吹き上がってくる冷たい風を、
自身だけが感じる孤独感に悩むでしょうか。






いや、きっと。
人一倍生きるという幸福感を満喫し、
そして誰よりも優しい気持ちを持って生きるのでしょう。



きっとね。




そんな真摯な姿が私の目の前に映し出される。


そして、
どうしてもっとゆっくりと、
生きていることを祝福できなかったのだろうという
私の心底の奥底に潜んでいる罪悪感が震え出す。




患者の家族として、
そして遺族として、
残されたものはその場面場面で様々な想いを噛み締めるものだ。


生きていてくれるというその姿に胸が痛み、
生きたかっただろうにとまた胸が痛み。


そんなことを繰り返して季節を過ごし、
私はまだまだ生きていくんだなあ。


これが生きるってことなのかなぁ。
こんな風に考えることができる時間を与えられたことは、
私が生きるために必要なことなのだろうかな。


そう、無知な私に与えられた思考する時なのかも知れないね、この日々は。


しない方がいい苦労もあるけれど、
遭遇した苦労に背を向けないでいられるような
そんな人間になりたい。
絵を描くときに見る光と影を、
人生のなかにそっと感じとることができるようになろうと想う。



2002年09月09日(月) 秋雨

娘のお弁当箱を探しているときに、
キッチンの引き出しの奥にみつけた。
いや、
みつけてしまったという感じが強かった。


入院中にずっと彼が使っていた箸箱。
中には薄紫色のお箸があって。
そのお箸の先には、
彼の前歯の跡がついていて。


それは、お箸を噛む癖があったわけではなくてね。
右手の力もなくなってきてしまい、
意識もはっきりするときが少なくなってきてしまい、
私がお箸で食事を口に運んでいたときに噛んでしまったのだ。


そんな状態でも、
彼は食べたかったし、
食べる意欲があったし、
一日のサイクルを崩さないでいようとしていたのだ。





ちょっと、朝からまいってる。
それに雨で涼しくなってくるこんな季節で、
一足一足、
ひたひたっと忍び寄る自分の陰の部分を感じてしまい、
空をみて深呼吸をするんだけどね。








ま、こんなときもありでしょ。








2002年09月06日(金) ダンサー・イン・ザ・ダーク?

子どもの目に光を与えるために死を選ぶか
子どもの目になって生きることを選ぶか


と、選択を迫られたらどうしますか?


自分の遺伝子によって盲目になるであろう子どもを救うのに、
自分の命を使う手段があるよ、と。


自分の命が治療方法になるのであれば、惜しげもなく捧げますか。


それとも、
自分がそばにいることが子どもの幸せだと選択しますか。







私は、
子どもが自立する道を選びます。
私から生まれでた時点で子どもは子どもの人格があり、
私よりももっと先へ進まなければならない人だからです。




子育てで一番大切にしてきたことは、
私が嫌だなぁと思うことは、
きっと子どもでも嫌だなぁと思うのではないか?と考えてみること。
嫌だなぁと思うようなことをしない努力をみせるのではなくて、
嫌だなぁと思うかな?と考えてあげる努力をみせるのです。



親の背中を見て育つといいますが、
いい面ばかりを見て育つために親は努力をしても、
絶対に子どもは育たないと思います。
親の背中に見えるものは、
子どもが成長するにしたがって変わってくるものだと思うから。
見えてくる範囲が広がれば、それは順調に育っているのではないかと。


そしてその親の背中を見て感じたことを、
世間の風と照らし合わせてみて、
子ども自身が感じ考え、自分自身を確立させていって欲しいと思います。


子ども達の後姿を見ているのが、昔から私はとっても好きで、
時々カメラに収めたり、絵に描いたりしていました。


そして、
抱っこをせがみ私を見上げるその目は、
その子の人生のなかでホントに一瞬のなかだけにある目で。






私は、私を失う子ども達の苦労は少しはわかります。
目から光を失う苦労も、少しは想像できます。
だからこそ、
子どもの目に光を与えることを選択します。
私は、どちらにしてもいつかは、先に旅立たなければならないのですから。








2002年09月03日(火) いつかはさよなら

身近なひとが死ぬということは、
私ばかりが悲しみ嘆いているわけではなくて、
よくよく考えてみれば、
人生には必ずそのときは訪れる保障がされていることであって。


みんなみんな人知れず噛み締めて生きているんだね。





彼が亡くなったあと、私にはその失った彼のことを話せる場所がなかった。
唯一、HPにお悔やみを書きこんでくださる方達への返信だけが許された。
それだけでも、無いわけではなかったのだから、良かったんだね。


聞きたくないだろうという想いと、
聞きたくないだろうことを話したくて吐き出したくて彼の姿を語りたくて、
でも、
そんな場所はなかった。
喪主であるということと、
弔事で集まっても対応に追われるだけで、
じっくりと話し合うことなんて1度もなかった。


ましてや、
子ども達とはもっと彼の話しは避けていたし。


それよりもなによりも、
私のなかで「終わってしまった」という感が強かったのかも知れない。


いつか終わりがくるそのときが、
毎日毎日足音たてて近づいてくることに耳を目を口を塞ぎ、
瀕死であるそのひとを目の前にしている絶望感との葛藤。
涙を流す気持ちもなかった。


まだ、まだ。


茫然と見送るしかない命を目の前にしたあの、
あの、ベッドサイドでの寂寥感を言葉にすることさえ躊躇った日々で。
言葉にすれば人知れず彼を苦しめ、
自分もまたその感情に溺れてしまう危機感とプライドだったのだろう。


だからこそ、
終わってしまったその日々を、
ただ無駄なように過ごして時を食い尽くすことで埋めている空虚な気持ち。





ああ、秋がくるね。
季節を感じるたびに臆病になるよ。


自分が平気でいられるかどうか、とってもとっても不安だよ。


2002年09月02日(月) 分析

9月の闘病記を読んでいて感じたことは、
最期の抗がん剤治療を終えてからの状態が、
それまで陥っていた状態とはちょっと違うという落ちこみと、
だけどまたいつものように元気になってくれるのだろうという希望と、
交差して闘って、でも、
やっぱりどうしても死が近づいていることへの不安がつきまとい、
病室への足取りも重くなり、
予期悲嘆という状態に陥り始めていた時期だったのだと思う。





眠っている時間が長くなり、
彼と会話できることも少なくなって。
だからこそ時折なにかを要求する言葉を彼が発してくれると、
それだけでとても気持ちが明るくなったものだった。


でも逆に、
要求する気力も体力もなくなっていた彼に、
やっぱり酷な場所だったのかも知れない。
あの病院では、
自分のことは自分で処理できる患者だけが居る場所であって、
彼のように要求もしない患者はどこまでも放置され、
要求できない患者に思いやりを持つシステムはないのだ。
病院とは、そういう場所だ。


付き添う者がそういう場所だという見極めを持たないと、
患者だけがどこまでも一人苦労をするだけで。
不自由だと口にできない彼が、
どんなにか不自由な思いを抱いていたか。
いまとなっては分析するしかできないことだ。
だが、
付き添う者もまた、
患者と同じように精神的な負担も大きく、
そんなに分析解析している余裕ははっきりいってないもので。
だからこそ、
看護士や医師を信頼し、助けをかりる場所が病院だと思うのだが...


「思いやりの看護」


思いやりを持たない性格の看護士も、
訓練によって思いやりを身につけることはできるはず。





足りなかったよ、あの病院は。




そんな場所でも、彼にとって良かれと選択した場所だったのだけどね。



私自身も、もっと気丈にしていられると思っていたのだけれど、
私の手のひらに乗っている命を、どうしていいのか、
もう分からなかったんだ...





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