**Secret**..miho
過去
2005年12月19日(月)
過去の自分を思い出そうと思えば、いくらでも思い出せる。
私は記憶力が良いから、心に刻まれた出来事が消える事はない。
不器用な私は、そうやって多くのトラウマを作り上げて行った。

その場で処理をするという事をせずに溜め込んできたから。
どれも全て私には価値あるもののように思えてしまうから。
どんなに辛い出来事でも、未来に繋げていきたかったから。
無駄なものなんて一つもない。私を取り巻く全てのものが、
私が生きているという、存在意義の証となってくれるから…

そのような強迫観念が私の心を支配し続けていた。

病気になる前の私は他人に尽くす事で自分の意義を見出していた。
誰かのために一生懸命に頑張っている自分が好きだった。
誰かに必要とされる事で自分を輝かせる事ができていた。
大切な人の事を考えている時が最も自分らしくいられた。

誰かのために存在する自分。それが当たり前だった。
私の知っている自分は相手の中に存在する私だった。
だから自分を計り知るためには相手に対する愛情が
どれくらい相手を幸せにできるかに完全に依拠した。

だから、私には適当な人間関係は無理だった。
浅く広く、誰でも良いわけじゃなかった。
特定の大切な人にしか心を開けなかった。
自分を理解してくれる人は多くは必要ないよ。
欲を張ったらキリがないからね。

病気になって、私は多くのものを失った。
最も悲しかったのは「自分らしさ」を見失った事。

周りの人たちから距離を離される事を強いられて、
限界を知り無力で弱い脆い自分を思い知らされて、
自分の存在さえ無駄に思えてきて大嫌いになって、
生きている意味さえ見出せなくなり不幸に思った。

病気と闘わないといけなくなってしまってから、
もう誰かのために存在する自分じゃなくなった。
誰かを幸せにするのでなく誰かに迷惑を掛ける、
存在するに値しない、疫病神となってしまった。

同じ道を歩んできていたつもりだったのに、
いつしか私だけ違う道を歩いていた。
ううん、ただ逸脱したわけじゃない。
単に遅れただけでも遠回りでもない。
私だけ人並みに歩けなくなってしまったの。

知っていたよ。20歳の時、1年間も入院して、
病気の重さと共に、今後、もう人並みには
幸せな人生を歩めないという事を覚悟した。
未来に自分を描けなくなってしまったから…

他人は何々できるのに、私は何々できない。
そういう単純な差異そのものではなく、
そのような状態に至らしめた根源が悔しい。

病気にならなかったら…

確かな保証なんてないけど、
病気にならなかったら、
人並みに幸せになれていたと思う。

少なくとも大切な人の事を想う気持ちは
ずっと不変であり続ける自信はあるから。
その人の存在そのものが私の幸せだから…
私を繋ぎ止めるものが存在するという事。

でも、今は、大好きで大切だった人にさえ、
憎しみで心を閉ざすようになってしまった。
まともに生きられない事に引け目を感じて、
自暴自棄になってしまっているだけなんだ。

なんて心が狭くて幼稚なの??
昔はもっと毅然としていられたのに…
それでも、他人本位な性格が、
未熟な人格を形成してしまったのかもしれない。

失ったものは、もう二度と取り戻せない。
それ以上の幸せを手にするまで、
永遠に苦しみ続けなくちゃいけないんだ。

ただ対等に肩を並べて歩んで行きたいだけなのに…

私の場合、きっと長引かせすぎてしまったんだね。
いつまでも過去に執着して拘り続けているうちに、
自ら自分の意義を否定するようになってしまった。

私は私なのに…

「自分を好きになれないなら、他人を好きになればいいよ。」
そう言うけど、自分を好きになれなかったら、
他人を好きになれる資格なんてないんだよ。
そんな自分を、他人は受け止めてくれるの??

私が本当に受け入れなくちゃいけなかった過去は、
病気になる前の私ではなく現在の病気の私なんだ。

人間は積み上げた過去を土台に生きているから、
簡単には、そこから逃げ出すわけにはいかない。
それらの長年に渡る積み重ねを根本から崩して、
振り出しに戻る事が人生のやり直しとも思えない。

だから、人間は自分である事を止められないんだね。
どんなに辛くても、今を生きなくちゃいけないんだ。

きっと、
いつかは自分のために生きられるようになるよね…
生きていても良いんだって思えるようになるよね…

幸せになれるよね…??




生きているということ
2005年12月14日(水)
 これは、私が高校2年生の時に参加した
 ボランティアについて書いた当時の文集です。
 まだ、自分が病気になる事を知らなかった頃…
 でも、今と変わらない価値観を抱いていた。
 まるで今の自分に言い聞かせているようだった。



『生きているということ…』

私がボランティア活動に参加したのは、これで二回目です。
進路の為に行ったのではなく、ただ「ボランティア」を
したかったので行きました。行こうという意志は積極的ですが、
今回も相変わらず、お年寄りの前で何をしていいのか
オロオロしていました。すると、あるおじいさんが、
「腰をかけなさい。」と言って下さったので、私は、
そのおじいさんと、お話をさせていただく事にしました。
そのおじいさんは、事故か何かで、下半身不随で車いすでした。
年は六十四歳で、私のおじいちゃんよりも少し若い位でした。

私が、「今、楽しい事は何ですか。」と尋ねると、
「そうだな。なにせ、この体だからな。やりたくても何もできん。
 行きたくても、どこへも行けん。もうこんな状態になったら、
 生きている意味なんて何もないさ。」と笑って答えられました。

私は、この時、どうして辛い事なのに笑って言えるのか不思議でした。
何一つ体に不自由のない私は、一生懸命、おじいさんの立場に
成り切ろうとするのですが、結局、何を言えば良いか分からず、
「そんな事ないですよ。」としか言えれませんでした。
そんな事よりも、「どうしてそんな事が言えるのですか。」と、
おじいさんを責めようとする自分の気持ちを抑えるのに精一杯でした。

おじいさんは、この施設にいる事を、あまり好んでいないように
思われました。楽しい行事中も、「はよ終わらんか。」と言われたり、
食事について、「おいしゅうねぇんよ。」と言われたりして、
ほとんど残して姿を消されたりしておられました。
私は、これらのおじいさんの行動に対して、私の願いとして、
これだけは、おじいさんに言っておきたかったです。

生き甲斐を持って。

そして、
二度と「生きている意味なんて何もない。」だなんて言わないで。

ああ、生きていて良かったなぁって思える事が、
きっとあるはずだから。

だって、おじいさんは、今、生きているんだよ。




いじめ...後編
2005年12月05日(月)
小学5年生になり、その子たちとクラスが離れ次第に「いじめ」から
解放されていきました。そして、また新たな「お友達」ができました。
今度のお友達は、私以上に「ぶりっこ」で、そして、可愛い子でした。
その子とも小学3年生の時の親友と同じような仲良し2人組みになった。
似ているのは、仲良しな関係だけではありませんでした。その子も、
まさに女王様タイプのワガママっ子だったのです。宿題を代わりに
やってあげたり、欲しい物があったら、私の分をあげていました。
何か嫌な事があったら、私が身代わりとなり、その子が不機嫌に
ならないように、いつも「お守り」をしてあげていました。それでも、
私は一人ぼっちじゃないんだという事が嬉しくて、その子と一緒に
いられる事を幸せに思い、その子のために一生懸命に尽くしました。
その頃から、「いじめ」に立ち向かっていく勇気が現われてきました。
当時、いじめられていた女の子の味方をして一緒にいじめられたり、
例え、いじめられたとしても、開き直って自らも自分をいじめたり…

そのまま、その子との友達関係は続き、同じ中学校へ入学しました。
運良く、同じクラスになり、同じバドミントン部にも所属しました。
学校の行きも帰りも、教室移動も、部活中も、ダブルスのペアも、全て
一緒。他の子たちからも「仲良し」という太鼓判を押されていました。
私自身も、その子のワガママを受け入れられるのは自分しかいないと
自覚していました。その頃から、孤独に対する恐怖心が芽生えてきて、
相手に対する独占欲が、どんどん強まっていっていたのだと思います。
まるで、その子の事を恋人のような存在に思っていたのかもしれない。
その子が、普段は私なのに他の子に何かを求めていたら嫉妬していた。
きっと、自分だけのモノにしたかったのだと思う。失いたくなかった。
そのためなら、自分を犠牲にしてまでも相手の事を守ろうとしていた。
相手を喜ばせる事が、私の生きがいだったから…

もう二度と一人ぼっちになるのは嫌だったから…
たった1人でいい。自分を必要としてくれて、
その人と確かな繋がりを感じていられるのなら。
それが、自分の「居場所」となってくれるから。

でも、小学生の頃とは異なる、思春期という壁にぶつかった。
私は、精神的に、とても幼稚な方だったのだと思います。
その子の方が自我の芽生えが早く、次第に、いつまでも
ベッタリ仲良しという関係ではいられなくなっていった。
中学2年生になり、4年目にして初めてクラスが離れてしまった。
もう、学校の行き帰りと部活でしか接点がなくなってしまった。
幸いな事に、新しいクラスで新しいお友達ができ、その子たちとは
同じクラスメイトとして、毎日、楽しく仲良しでいられたんだけど…
一方、親友の方も、同じクラスで同じ部活の仲間と仲良しになった。
一緒のクラスじゃないから、離れていってしまうんじゃないかって、
不安で心配していたら、案の定、部活でも、親友は新しい「親友」と
行動を共にするようになってしまいました。でも、私はペアだから、
試合の時だけ一緒にプレイしていたんだけど、その他の時間は別々…
学校の行き帰りも、方向が一緒で以前からの約束だからという感じ。
その親友にとって私は、単に都合の良い存在だったのかもしれない。

どんどん擦れ違っていきました。それだけなら良かったものの、
その親友は、以前よりも不機嫌になる事が多くなり、そのたびに、
新しい親友と仲良くしては、部活でも私を無視したり避けたり
していました。「ケンカしたん?」と、部活のメンバーたちが
気を遣ってくれても、結局は、みんな、常に中心的な存在だった
親友の肩を持って、私は仲間外れのような形で一人ぼっちだった。
私に優しくしてくれる人がいたとしても、何だか気の毒になって、
居たたまれない気持ちで一杯でした。小学3年生の時と全く一緒…
親友による陰口を聞くたびに、不信感と失望感を感じていました。
内向的で控え目で意地っ張りな性格だったために、周囲にとって、
私は気に食わない存在だったんだ。いつもバカみたいにニコニコ
笑顔でご機嫌取りをして、決して怒らない、従順で受身的な私が…
私自身も、そんな弱くて惨めで卑屈な自分が悲しくて心が傷んだ。
でも、そんな苦しくてたまらない気持ちも次第に麻痺していった。

「いじめ」を通して変わった事は、それだけではありませんでした。
相手の顔色を窺うのも、積極的に行動できないのも、神経過敏なのも、
自分に自信が持てないのも、自分嫌いも、ワガママを言えないのも、
自分を押し殺してしまうのも、他人本位も、感受性が強いのも、全て。
傷みに敏感になった分、相手を傷つける事だけは絶対したくなかった。
相手が傷つくくらいなら、自分が傷つけば良いと思うようになった。
傷みに耐え抜く自信はあった。なぜなら、自分が大嫌いだったから…

恐らく、神経難病になってしまったのも…


その親友とは、別々の高校へ入学して以来、
プッツンと音信不通になりました。最初から、
本当の「親友」ではなかったのでしょうね。
本当は、解放されたかったのかもしれない。
自分で自分を縛り付けていた脆い自分から…

高校に入学し、無意識のうちに、
一人でも平気なようになれるように
心掛けるようになっていました。

以前よりも明るく元気に振る舞うようになった。
今度は「いじめ」られないように、「ぶりっこ」
というイメージを消し去る努力をしていった。
標準語ではなく「岡山弁」を身に付けるようにし、
大好きなピンクではなく、対照的なブルーを
敢えて好むようにした。歩き方も、内股ではなく、
ガニ股で歩くように気を付けた。そのせいで、
今では、O脚になっちゃったけどね(*^〜^*)ゝ
自分の事も、ちゃんと「私」と呼ぶようになった。
可愛いものを「可愛い」と思う気持ちも我慢した。

「お友達」ともなるべく依存しないように、
ほんの少し距離を置いて接するようにした。

そして「勉強」という没頭すべき対象に目覚めた。
朝早くから、夕方遅くまで、職員室に通い詰めた。
担任の先生と親しくなり、英語の先生に恋をした。

そして、同じクラスの、一匹狼的な存在だった
元カレに惹かれていった。初めての恋愛だった。
「お友達」よりも大切な「恋人」と巡り合った。

彼は私の事を「女の子らしくてお嬢様みたい」と言った。
昔だったら「ぶりっこ」とバカにされていただけなのに。
初めて、この人の前では私で居ても良いのだと確信した。

彼の事を「一番」大事に想うようになった。
彼さえ居れば、他は何もいらないと思った。

次第に、以前の自分らしい私に戻っていった。
抑え付けていたものが一気に溢れ出ていった。

ちょうどその頃、そんな、ありのままの私を受け入れて
親身に慕ってくれた「真の親友」たちと仲良しになった。
その親友たちとの関係は、今でも途絶えずに続いている。

ずっと繋がっていたい。
ずっと私らしくいたい。

それでも、大人に成長するにつれて、
どんどん解らない事が増えていった。

今でも愛し方が解らないよ。
どうやったら大好きな人と
一つになれるんだろうって…

もう二度と独りぼっちにはなりたくない。

私は私という自分らしさに誇りを持って、
好きなものを好きと言える素直な自分で、
私が私で居られる居場所を夢に見ている。

私なりの私だけの幸せを…

だから、笑顔だけは絶やさないよ。




m a i l



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