**Secret**..miho
いじめ...前編
2005年11月23日(水)
私は、過去に、何度か「いじめ」を受けた事があります。
「いじめ」と言っても、それほど悪質なものではなく、
仲間外れにされたり、陰口を言われたり、無視されたり、
女の子のグループの中では、ありがちな「いじめ」かな…
それに対して、恨み続けていたり復讐しようと思ったり
なんて事もなく、今となっては笑って話す事ができるよ。
昔から、忍耐力だけは、人一倍に強い子どもだったから。

幼少時代の「いじめ」は、社宅の子供たちによるものでした。
私は運動神経が悪くて、かけっこも鬼ごっこもかくれんぼも、
何をやってもトロくて、いつも一番最後で泣いてばっかり。。
そのため、アウトドアよりも、インドアな、お人形遊びなど、
いわゆる女の子向けの遊びを好んでいました。他の子たちは、
男の子も女の子も関係なく、元気溌剌とした活発な子が多く、
私だけ輪に入れていない状態でした。外見は、母親の好みで
可愛らしい格好ばかりして、仕草も、もじもじしていたので、
よく「ぶりっこ」ってバカにされて、いつも仲間外れでした。
時おり、運動などを無理やり強制されたり、できなかったら
できるようになるまでしごかれたり…大切にしていた宝物も、
頻繁に陰で盗まれては、よく草むらの中で見つけていました。

たった1人、仲良しだった男の子がいて、よく
ウルトラマンごっこをして遊んでいたんだけど、
幼稚園に入ってから、引っ越してしまいました。

小学校に入学してからは、いじめられていた子たちとは距離を置き、
別の女の子と男の子と「お友達」になりました。その子たちとは、
対等に仲良くできました。相手の方から私の事を慕ってくれたから…
小学校に入って、初めて、「お友達」との絆を実感しました。
そして、私は、密かに、その男の子に想いを寄せていました。
でも、その女の子も男の子も、やがては引っ越してしまいました。

そして、私も、小学3年生の夏、今の一軒家に引っ越す事になった。
新しい環境では、後の「いじめ」に繋がる発端が待ち受けていました。
たまたま近所に住んでいた同い年の女の子と仲良しになったんだけど、
その子は、とてもプライドの高い女の子で、将来は必ずピアニストに
なると言い張っていました。当時、私もピアノを頑張っていたので、
密かに、その子を尊敬しつつも、自信満々な様子を羨んでいました。
いつも私と行動を共にして、グッズは全てお揃いにしていました。
ただ一つ、非常にプライドが高かったために、二人一緒でありながら、
必ず、その子の方が目立っていないと、その子は満足しませんでした。
お人形遊びでは、その子がお姫様役で、私はお姫様を引き立てる
王子様か召し使い役。親に新しいグッズを買ってもらったら、一番に
貸してあげて、いつだって、その子のご機嫌取りをしていました。
その子が不機嫌になると、その子は違う子と仲良くして、そのたびに
私は一人ぼっちに追い遣られていました。一人ぼっちになるのが嫌で、
無理をしてでも、その子と仲良くしようとしていたのかもしれない。

ちょうど、その頃だったかな…
母親が、私の髪を結っている時に、
私の頭に円形脱毛を発見しました。

その子との友達関係に不服を感じた事はありませんでした。
むしろ、引っ越して来たばかりで不安でいっぱいだった私を
救ってくれて仲良くしてくれて、本当に感謝していました。

「いじめ」は、小学4年生の時、その女王様が県外に引っ越した後に
起こりました。同じく、その子に頭が上がらず、私と競うようにして
その子と仲良くしようとしていた女の子たちと「お友達」になる事に
なったのです。たった1人の友人がいなくなってしまった後だったので
新しくお友達ができた事は嬉しかったんだけど…その新しいお友達は、
私の一挙一動に対して、とても陰険な態度を取るような子たちでした。
ただでさえ内気で、当時、孤立していて寂しさを感じる事の多かった
私は、そのお友達に心を開けず、いつも引け目を感じながら、対等に
接する事ができませんでした。言いたい事があっても話しかけられず、
いつも後ろの方から、その子たちの楽しそうな様子を眺めているだけ。
時おり、優しく接してくれる人がいたとしても、その子たちが怖くて、
結局は、その子たちの味方に付いて、余計に孤独感が増すだけでした。
たまに「お友達」として仲間に入れてもらえたら、ありがたく思って、
常に笑顔を装って相手の顔色を窺いながらヘマをしないように必死で
縁の下の力持ちとして、その場を盛り上げようと献身的に努めていた。

その子たちは、そのような私の受身的な態度が気に食わなかったのだと
思います。「いじめていない」つもりが、あたかも「いじめている」
ように思わせていた、私の曖昧な態度が腹立たしかったのでしょうね。
私は、決して、その子たちに文句を言った事も、周囲の人たちに愚痴を
こぼした覚えもなかったのに、成り行き上、その子たちの被害妄想を
どんどん煽ってしまっていたようです。具体的な「いじめ」の内容は…
仲間外れにされる事や無視される事は、まだ直接的な接触がないだけ、
マシでした。一人ぼっちでいて、ひたすら耐えていれば良いのだから。
最も苦しかった「いじめ」は、陰でコソコソ文句を言われる事と、
呼び出されたり待ち伏せをされて、面と向かって気に入らない部分を
吐き散らされる事でした。私は、この子たちにとって邪魔な存在で、
居ない方が良いんだ。今すぐ消えてしまいたい…そう願っていました。

具体的な文句の内容は…
「『ごめん』って言わんでくれる?」
私は、その子たちに対して、本当に申し訳ない気持ちで一杯でした。
だから、その子たちが私に対して文句を言いたくなるという事は、
私に悪い部分があるからであり、文句を言われるたびに「ごめんね」
と謝る事しかできませんでした。文句を言われるたびに口癖のように
「ごめんね」の連続。自分でも情けないと解っていながらも、そう
言うしかなく、その子たちの不満を募らせていた事は確かでしょう。

それから…
「泣かんでくれる?」
私は泣き虫だったので、文句を言われるたびに泣いていました。
辛くて苦しくて、どうしようもなくて泣かずにはいられませんでした。
しかも、堂々と大声で泣き叫ぶのではなく、一人で陰に隠れて、
めそめそと弱々しく涙をこぼす姿が気に入らなかったのだと思います。

それから…
「うつむいて歩かんでくれる?」
私は、いつも一人ぼっちで家に帰っていました。その姿を、いつも、
その子たちは遠くから見ていました。その時に、下を向いて歩く、
いかにも悲愴感に満ち溢れた私の姿が気に入らなかったのでしょう。
それで、私は、わざと、上を向いて歩くようになりました。
その方が、嫌でも流れてくる涙も溢れてこないだろうと思ったから…

学校へ行きたくなかったけど、両親に余計な心配を掛けたくなかった
ので、家では、できるだけ明るく元気に振る舞うように心掛けました。
ちょうど朝の7時頃に再放送されていた『キャンディ・キャンディ』を
毎朝、学校へ行く前に観ていました。その主題歌のワンフレーズ、

 ひとりぼっちでいると ちょっぴりさみしい 
 そんなとき こう言うの 鏡を見つめて
 笑って 笑って 笑ってキャンディ
 泣きべそなんて サヨナラ ね
 キャンディ キャンディ

この部分の歌詞に、いつも励まされていました。
当時は、一人ぼっちな事が当たり前だと思っていました。
本当は、ただ、幼くて不器用すぎただけなのに…




運命と死
2005年11月05日(土)
自分が選ばれたのは、
「運命」だなんて、たった一言で、
片付けられるものではない。

それでも…
この世に生き延びる人、死する人、
その差は、運命としか考えようがない。

お父さんの従弟は、事故死によって、
一瞬にして、この世を去った。

4月から始めたばかりのお仕事だった。
不況の現代、以前の職場は縮小により閉鎖され、
長男である彼は地元を離れられず、未経験
であるにも関わらず、工場で勤める事になった。

彼は不景気な時代の犠牲者になったんだ。

これも、彼に巡り合わせた運命なのかもしれない。

運命を、信じる、信じない、は、
個々人の意志によるけれど、少なくとも、
運命は、信じられ得るものだと思う。

人為的に未来を予知する事は不可能なので、
たいてい後付けの結果論になってしまうけれど、
人間の意志に関わりのない、人間の力を超えた
変更不可能な絶対的な作用であるからこそ、
運命という実体が存在するのではないでしょうか。

揺るぎない確かなモノだから、
信じられ得る対象となれる。

どんなに不条理な運命であっても…

でも、人間には感情の流動があるから、
運命を受け入れられるかどうかは、
その人の価値観や受け止め方にもよる。

例え、運命が、天の神様による、
命(めい)だとしても…。


他人の「死」によってもたらされるもの。
それは、死に対する恐怖だけでなく、
存在そのものが「消えてしまう」という、
言葉では言い尽くせない無常な儚さであろう。

それは、例えば、目の前で、一瞬にして
消えゆくシャボン玉のような儚さとは違う。

それは、例えば、美しく咲き誇っていた花が、
徐々に枯れゆくのを目にする儚さのようなもの。

「生」あるものが、「無」になるのだ。
ただ、存在するものが、姿を消すだけではない。

「生」が意味するものは、
そのものに力が宿っているという事。
それを感じ取る事ができるから、
人間は、そのものに感情を抱くのだ。

愛情だとか、憎悪だとか、他にも様々な想いを…

人間であれば、発話や行為などの言動のような、何らかの
働きかけがあり、その放たれる全てのものを受け止める事によって、
その人自身がその人であるという存在を確認する事ができる。

「死」は、それらを、全て皆無にする。
最も怖いのは、相手の死によって、
相手との関わりが、一切、絶たれる事。

事物の根底に関係が成り立たない実体は、
そのものの存在すら、無きに等しい。

もう、何を言っても、伝わらない。
一緒に何かをしたくても、できない。
その人から感じ取れるものもない。

完全に一方通行。
通じ合えない。

そのうち、その人という実体すら、
過去の思い出と共に、だんだん
遠ざかっていって、消えてしまうんだ。

最初から存在しなかったも同然に…

そうやって、真実も何もかも、運命という
言葉によって、幻想に摩り替えられていくんだ。

それでも、
それを、浄化と言うの??




m a i l



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