**Secret**..miho
慰めること
2004年12月24日(金)
以前は、誰かを慰める事の方が多かったけれど、
今では、逆に慰められる事の方が多くなったような気がする。
(「慰める」という言葉は、何だか高ぶっているような気もするけど…)
それは、少しずつ平気で弱音を吐けるようになってきたから…
それでも、相変わらず強がりではあるんだけどね。。

でも、それって、ある意味では、
慰められる側の気持ちを理解する事ができるようになった
っていう事でもあるよね。

以前は、相手の気持ちに同調していながらも、
やっぱり、最後には決まり文句みたいな言葉しか
言えずにいたよ。無力な自分をカバーするように…
確かな保証を持っているとは限らないのにね。
私は、つい誰かを慰める時に「私なんて…」って、
自分を卑下して相手を持ち上げようとしてしまいがちだけど…

「大丈夫だよ。」
「前向きでいこう。」
「元気を出して。」
「応援しているよ。」

そのように言えば、相手も少しばかりは安心してくれて、
「理解してもらえた」気持ちになってくれるかなって…
誰だって、良心があれば、落ち込んでいる人に対して、
無視したり、非難したり、いい加減な事を言ったり、
無責任な事なんてできないもんね。
でも、それって、すごくおこがましい事だよね**

でも、本当は、誰かを慰めるという事は、
相手を「理解する」事じゃなくて、
相手の「話を聞く」事なんだと思う。
いかに、相手のSOSを受け止める事ができるか…それに、
一人の人間を理解する事なんて、絶対に不可能だと思うから。
もしもそれができたら、人間、単純すぎて面白くないし、
そもそも苦悩する必要もないでしょ。

そうは言っても、相手を「理解しようとする」姿勢は、
対人関係において、常に不可欠な要素だと思う。
それがあって初めて、人と人との信頼関係も築く事ができるもんね。
第一、どうでも良い相手とは、親しくなんてしないだろうし。

それで、悲しみや苦しみなどの色々な心の傷を抱えている人たちは、
相手に自分の事を完全に「理解してもらいたい」だなんて、
そこまでは追求していないと思うんだ。それは特別なケースだよね。
それでも「大丈夫だよ。」などという気休め程度の言葉で、
少しでもホッとできるのは、きっと、相手に自分の素直な気持ちを
聞いてもらえて、一人で抱え込んでいた心の重荷が軽くなった
という事と、相手自身からの思い遣りや優しさなどの温もりを
感じ取る事ができたからなんだろうなぁって…ただそれだけの事。
下手に気休めを並べていくよりも温かく接する事の方が大切だよね。

だから、相手からの具体的な言葉がどうとかではなく、
もっと抽象的な相手の反応や存在だけでも報われるのだと思う。
人間の心理って、言葉では表せないほど複雑だからね。


今の私には、自分の素直な気持ちを打ち明けられる人を
指折り数える事の方が困難なのかもしれないけどね…
それでも、誰に話しても安心を得られるほど単純でもないよ。




dependence
2004年12月23日(木)
結局、人間は誰かと一つになる事なんて不可能で、
自分は他者の外側に存在する孤独な生き物に過ぎない。

「依存」なんて言葉は、
誰かを自分のモノにする事じゃなくて、
きっと自分の欲望を
より多く満たしてくれる人間に対する
自己中心的な行為なんだね。
だから「愛情なんて後付けでも構わない」んだって…
所詮、自己愛に溺れている身勝手な生き物なんだ。

私は、
そもそも自分の欲望が何なのかさえ
判らない、
淋しさを自分一人で抱えきれずに
何一つ満たされる事なく
脱け殻のように生きている人間だから。

ゴマかしすぎたよ。
気が付いたら、手遅れだった。
もう、何が真実なのかも判別できないよ。
「全て幻想だから大丈夫だよ」って、
言ってくれたら、たとえ偽りでも、信じるよ。
どうせ、目に見えるモノは全て儚いから…

自分らしさなんて、疾うに見失っていたよ。
あとは、残されたシナリオの上で踊らされるだけ。
どんなに着飾っても、使い古された人形に過ぎないのに…
感情だけは、永遠に押し殺せないまま…

もう、疲れちゃったよ。




ルミナリエ
2004年12月13日(月)
今日から、神戸の三ノ宮で、ルミナリエが始まったみたい。
ルミナリエと言えば、彼氏との思い出のビッグイベントなのだ(^-^)

今から3年前の2001年12月23日、私は彼氏と初めて会いました。
場所は、神戸の三ノ宮。
一度も会った事のない彼氏と会うために、はるばる電車に乗って
一人で行きました。私にとって、初めての冒険でした。
当時は写メールなんてなかったから、顔だって知らなかったの。

待ち合わせ場所は、三ノ宮駅前。
三ノ宮には、友達や元カレとも遊びに行った事があったので、
怖くはなかったんだけど、やっぱりドキドキでした。。
落ち合えるまで、1時間以上も掛かっちゃったよ**
携帯で「レトロなバスの前におるよ。」と言われたのを覚えているよ。
当時は「レトロ」って、どういう意味か分からなかったのだ(^_^;)ゞ
携帯で「どこどこ?」とアタフタしていた所を見られていたみたい…
彼氏は、グレーのセブンに乗っていました。
金髪で男っぽいラフな格好をしていました。
想像していた通り、私とは違う世界の人みたいでした。
そういう部分に、私は憧れて惹かれていたんだ。

初対面の人の車に平気で乗り込んじゃって、大丈夫なのかなぁ…
なんて、少しも警戒する事なく、二人でドライブをしました。
私って、けっこう無防備なのかなぁ…真に受けやすいし。。
なぜか勝手に携帯のアンテナをお揃いの光るやつに変えられました。
「俺の運転は酔うでー。俺自身も運転していて酔うし。」って
言われて、つい笑っちゃったよ。生関西弁にも嬉しかったり☆ミ
思っていたほど、バカみたいにお喋りな人ではありませんでした。
むしろ、イメージとは正反対で、大人っぽいクールな感じでした。
でも、おもちゃのガチャガチャに飛び付くほど、おこちゃまでした。
今となっては、自称おこちゃまのオッチャンなんだけどね(・・。)ゞ

ルミナリエは7時からだったので、それまでモザイクへ遊びに行き、
軽く喫茶店でジュースを飲んでから、次に六甲山へ行きました。
そこに小さな展望台があって、そこでたこ焼きを食べました。
本場でバリバリの関西人と食べられて感動しちゃったよぉ(*^_^*)♪
青海苔はいらないって言ったら、おいしいのにって言われました。
本当にしょぼい展望台で、ガッコンガッコン揺れていて、
「きっと下で誰かが必死こいで回しとるんちゃう??」と言われて、
涙が出るほど笑っちゃいました(ノ∇≦*)やっぱり関西人だぁ☆
その1、2年後、その思い出の展望台は、閉鎖されてしまいました(ノ_・、)

六甲山のお土産物屋さんで、お買い物をしました。
家族と友達と…それから、元カレの分も。。
そう、当時は、まだ元カレと付き合っていた最中だったのだ。
でも、もう恋人なのかどうかも分からない状態でした。
くされ縁なのは今も変わらないけどね…(ーー;)
でも、私が元カレと別れたがっていた事を知っていた彼氏は、
その翌日の夜「彼氏と別れて俺と付き合わへん??」と言われて、
略奪?乗り換え?その辺りは曖昧だけど、彼氏が恋人となりました。
そして、その時、元カレのために買って渡せずにいたお土産は、
その1、2年後、彼氏への思い出のプレゼントとなりました。

4時過ぎ頃に六甲山を下りて、ルミナリエの方面へ向かっていると、
大渋滞に巻き込まれてしまいました(>_<)この調子だと、駐車場も
見つけられるか分からない状態で、最悪の場合、ルミナリエを
一目も見ずに帰らなくちゃいけなくなってしまうかもしれない…
時計の針は、5時6時…と、どんどん過ぎていき、ルミナリエを
諦めて駅に向かうか、帰りが遅くなる事を覚悟でルミナリエを
見に行くかという、最大の決断に迫られました(>_<*)
車の中では、沈黙…でも、せっかく来たのに見す見す帰るなんて…
それに、可能ならば、ずっと彼氏と一緒にいたかったもん。。
だから、ルミナリエを見に行く事に決めました!!これも冒険でした。

何とか駐車場を見つけられて、元町駅の群集の最後尾に付いたのは、
7時過ぎ。それから、ゆっくり一歩ずつたくさん歩かされました。
途中で何度も携帯がブルブル鳴って、その度ごとに恐怖でした**
外は寒くて真っ暗。どこを歩いているのかも分からなくて、唯一、
頼れるのは初対面の彼氏だけでした。群集に紛れていると、何だか
怖くなってきて、ふらふらしていたら、彼氏が腕を組んでくれました。
ドキドキが止まらなかったよぅ(*>_<*)でも、不安は吹き飛んだよ。
ルミナリエよりも、彼氏と一緒にいられる事に幸せを感じました。
このまま現実逃避して彼氏と一緒にいられたらいいなぁと思いました。

それにしても、一体いつになったら、ルミナリエが現われるんだ??
地元では、クリスマスデートと言えば、近場の神戸のルミナリエが
代表的で、私もそれに憧れていたのだぁ(p^_^q)♪どんな物なのかは
ポスターで見かける程度で、彼氏が持って来てくれたパンフレットを
見てから、ますます楽しみになりました。でも、実物は遠かった…
何だか騙されているような気がしてきて、ただワケも分からず群集に
付いて歩いて行くだけ。。何だか期待外れな感じだったなぁ(-.-;)
歩きながら、必死で家に帰ってからの言い訳を考えていました**

でも、ちょうど9時前頃だったかなぁ…
急に群集の足取りが早くなり、歓声と共に目の前に光が広がりました。
これが待ち望んでいたルミナリエなんだぁ・:*:・( ̄∀ ̄ )。・:*:・
光がいっぱい!!寒空の下だったから、温かい気持ちになりました☆ミ
何だかエキゾチックな雰囲気でした。みんな夢中で携帯やデジカメで
撮影していたよ。私と彼氏は感動して、ただ黙って見上げていました。
雨が降ったら感電しないのかなぁって、不思議に思いました。
ここへ辿り着くまでは、ちっとも進まなかった群集の行列も、いきなり
早足になって、もっとゆっくり見ていたかったのになぁって思ったよ…
2時間くらい歩かされて、実際に見ていた時間は30分もなかったもん。

最後は、広場に大きな円形のルミナリエが装飾されていました。
本当に眩しいくらいに光り輝いていたよ(*^.^*)今でも覚えています♪
周囲に屋台があって、何か食べる?って聞かれたけど、少しでも早く
家に帰らなくちゃと思い、本当はゆっくりしていたかったんだけど、
何も食べずに、お土産も買えずに、そのまま駐車場へ向かいました。
実は、親友カップル(現在夫婦)が翌日にルミナリエへ行くと言っていた
ので、ちゃっかりお土産を頼んだのだ(*'ー'*)♪
ルミナリエの下で、彼氏は隣でスパスパとタバコを吸っていました。
当時は何も言わずに我慢したけど、付き合い出してからは禁煙を促し、
その1、2年後、私の身体のために、彼氏は見事に禁煙を遂行したのだ☆

幻想的な光の世界が目の前から消えた瞬間、一気に現実に戻りました。
顔面蒼白でした…時計を見たら10時前。ただでさえ、遠出をしていて、
こんな夜遅くまで一度も家に連絡を入れずに…もちろん初めてです。
両親と顔を合わせる恐怖と、早く家に帰らなくちゃという焦りと、
彼氏と別れたくないという寂しさで、ゴチャゴチャ困惑していました。
ルミナリエの事なんて、すっかり頭から消えてなくなっていたよ…
「遅くなったの俺のせいやし、家まで車で送ろうか??」と言われて、
嬉しかったけど、車だと家に着くのが翌日になっちゃうと思うから、
新神戸駅から新幹線で帰る事にしました。

何とか終電までに間に合って、新神戸駅のホームでお別れです。。
やっぱり泣いちゃったよぅ(p_q*)もう二度と会えないかもしれなくて…
でも「またいつか会おうな。」って言ってくれて、当時は、遠距離だし
再び会えるなんて信じられなかったけど、離れたくないという気持ちは
確かにありました。それが、恋愛感情だったのかは今だに謎ですが…
クリスマスだから、手作りクッキーをプレゼントしました(*-.-*)
それを渡そうとしていたら、新幹線に1本乗り遅れて、ショック!!
でも、姿が見えなくなるまで、手を振って泣きながらバイバイしたよ。
私にとって、幼い頃から、新幹線のホームは別れのイメージが強くて…
元カレは、いつも飛行機だから、空港まで見送りに行った事はないし。

新幹線の中では、座席に座る事もなく、ずっと真っ暗な外の景色を
眺めていました。どうか、今日という日が、夢で終わりませんように…
ずっと心から願い続けていました。

地元の倉敷駅に着いたのは、夜の12時前!!
危うく日付けが変わるところだったよ(・・。)ゞ
超心配性な両親が駅で数時間も待ち続けていてくれたみたい…
特に母親は、泣いているのか怒っているのか、よく分からない状態で、
気が狂ったかのように私を大声で叱り付けました。
当時は、まだ退院して3ヶ月しか経っていなかったから、余計に心配を
掛けてしまったみたい…自分でも当然だと思い、ひたすら謝りました。
必死で耐えて、何とか切り抜けて、家に帰って、お風呂に入って、
お布団の中に入った途端、急に恐怖と不安と寂しさに襲われました。
まだ当時は、彼氏との交際という秘密を一人で抱え切れずにいたから…
それと、その夜は、彼氏から何の連絡もなかったから…

このまま本当に夢で終わってしまうのかなぁって思うと、
とても遣り切れない気持ちになりました。
嫌われちゃったのかな…これで最後だなんて絶対に嫌だよ…
様々な不安を抱えながら、心の整理もできずにいました。

すると、翌日の夕方頃、お仕事帰りにメールをしてくれました。
彼氏も、ずっと私と同じ想いでいた事を知らされました。
そこからラブラブの日々の始まりだよ(*'ー'*)♪

でも、私は、最初から、それが冒険の続きだったと気づいていました。



October Nightmare
2004年12月05日(日)
ここに、10月のDiaryの一部を、再度、転記します。
その目的は、前回の記事「all alone」のような過去の私と現在の私の
生きるという事に対する価値観の相違を感じ取って欲しいからです。




*2004年10月23日(土)---今---

ただ今、情緒不安定気味です。
自分自身の事がよく分からなくて戸惑い中です。
こんな事、しょっちゅうなんだけど、その度ごとに
どう対処して乗り越えてきたのかが分からないよ。
結局は逃げ切れずに修繕された偽りの今があるだけ…
同じ苦しみを何度も何度も繰り返しては何も掴めないまま
時の流れに溺れては抗って身を沈めているだけなんだ。

眠れなくて、何も食べたくなくて、じっとしていられなくて
自分が怖くて、泣いてしまいそうで、生きていたくなくて…
しょっちゅうの事だから大丈夫だよ。
だから、昔のように抜け目なく気丈に振舞っていよう。

でも、今日はもうどうしようもなくて、家にいるのが怖くて
思い立って入院中の親友に会いに行きました。
お見舞いのつもりだったけれど、ほぼ私一人が喋りっ放しで
気が付けば3時間以上も経過していました。
何を話していたのかは断片的すぎて全く思い出せなくて、
途中で何度も涙を堪えた事だけはよぉく覚えています。
必死で笑顔でいようとしていました。自分は異常なんだって
それを曝け出す事に少しもためらいは感じませんでした。


もう振り返る事はしたくないよ。
あの頃の私が存在した事は確かだけど、
それは今じゃないから。
何一つ確かなモノを見つけられないまま…

3年前の今日、私は彼氏と知り合いました。
あの頃の私はどんな人間だったかだなんて、
今となっては、もう関係のない事だよね。
今は今だから、今を見つめて生きる事しかできない…
ただ、もう自信が持てなくて…
あの頃の私と今の私は同一人物なの??
猶予期限が近づいて来ているよ…

もう怖いものなんてない。自分以外は…
きっとね、私は立ち枯れ病なんだ。



*2004年10月24日(日)---脱け殻---

お布団の中にいても、寝ているのか起きているのか
分からなくて、全身が重怠くて頭が痛い原因は、
微熱と泣き過ぎのどちらが先なのかよく分からないよ。
いくら横になっていても心身共に安まる事はなくて
単なる時間の無駄だと分かっていても起き上がる気力すら
湧かなくて、ただ私の外界で今という時間が流れている…

私は決して確かなモノしか信じられないわけではないよ。
目に見えなくちゃ意味がないなんて思っていないよ。
信じる気持ちと忍耐力だけは人一倍に強いはずだから…

でも、昔ほど毅然としていられなくて、
私の中のリアリティーは膨大する一方で
本来の自分らしさでさえも遮断されつつあるよ…

頭をよぎる事は思い出と化した過去ばかり。
その度に急所を突かれたように涙が流れ落ちてくるよ。
その儚さは自らに作り上げてしまったものだから…

例え顧みる対象がもはや実在し得ないものであったとしても
今ある自分の一片として存在し続けてくれているのだと、
今でも信じられるものなら、私は何も躊躇する事なく
生きていても良いんだよね…??



*2004年10月25日(月)---強がり---

ずっと眠り続けていられたら、どんなに楽なのかな…

いつもの事だから大丈夫だよって、笑顔で言い退けられる
ほど強くなんてなかった。本当に強がりを貫ける人って、
本当は強がりなんかじゃないんだと思う。強がりってね、
いっぱい勇気が要るの。常にポーカーフェースでいなくちゃ
いけないから。どんなに辛くても涙は見せちゃいけない。
周囲に不安な気持ちを気づかれてはいけないの…
周囲を心配させずに、何事にも動じない素振りを見せながら
その間に自らの力で解決してしまわないといけないの。
そんな孤高の強さは、もはや強がりを凌駕するものだろう…

でもね、寂しい時に寂しいって言えないのは、強がりなの?
大切な人にさえ弱い自分を曝け出せないのは、美徳なの??
どんどん懸け離れていって心の置き場さえ分からなくなって
気が付けば、大切な人にさえ鋭いトゲを張り巡らせている。
むき出しの自分に触れられる事を何よりも恐れてしまう…

笑顔は強がりの解決策にはならない。
笑顔は強がりの代償になれるほどの万能薬ではないから…
最初は平気でも、いつかは真の意味を失っちゃうから。
本当に笑顔でいたい時に心から笑えなくなっちゃうから…
笑顔は消耗品じゃないけど使い方を誤って記憶しちゃったら
ゴマかす事しかできない人間になってしまうかもしれない。
そんな臆病な弱さは、強がりの名にさえ値しないだろう…


今の症状は、あらゆる相乗作用が原因なのかなぁ・・・
なかなか微熱が下がらなくて全身が怠いよ。寒気もするの。
ヒーターを付けながら毛布と羽毛布団に包まっていたら、
お母さんが「熱い!」って、温度計が30℃を越えていたよ。
なんか扁桃腺も腫れて痛いよ。風邪ではないと思うけど…
もともと大きいみたいだから…心因性なんてあるのかな??

怠くなっちゃうの分かっていたけど、もう泣いちゃうの嫌で
心のモヤモヤからも解放されたくて、ずっと眠っていたくて
名ばかりの安定剤を飲みました。今、眠り続けていられたら
辛い気持ちも不安も少しずつ忘れさせてくれるよね…



*2004年10月26日(火)---私---

ねぇ、言霊って知ってる??
言葉を発すると、そこに魂が宿って
本当の事になるんだって。
でもね、口先だけの言葉には、
どんなにそれが真実味を帯びていても
そこに魂が宿る事は絶対にないの。

その見極めは案外と簡単な事なのかもしれない。
それなのに私は、自分自身も含めて、
どうして人間不信に陥ってしまったんだろう…
ウソだと分かっていても、真に受けてしまうから??

世の中は目まぐるしい速度で回っているから
複雑すぎて、矛盾だらけの私には
疲れちゃうばかりで、もう付いて行けないよ…
時の過ぎ行くままに流されて、漂い着いた場所で
答えを見つけられるのなら、それで、いいよ。

それでも、行き場を失って絶望の淵から見た景色を、
あなたも一度は目にした事があるのでしょうね…
だから、私は疑う事なく信じていられたよ。
あなたと同じ道を歩んでいられたから…


もう消えちゃいたいだなんて思いたくない…
知っているよ。本当に消えちゃいたいって願う人は
誰にも知られずに、そっと消えちゃうんだ。
私は、今でも孤独を恐れてしまうから…大丈夫。

ごめんね…
自分を信じて生きて行くよ。
ありがとう。
もう、大丈夫だよ。



*2004年10月27日(水)---願い---

どれだけの涙を流したら、もう泣かなくても済むのかな…
泣きたくないからって眠っている間に補われちゃうのかな…
それとも、いつかは途絶えてしまうものなのかな…
泣き疲れるまで泣いたら、楽になれるのかな…
何だか涙と共に全身の力が抜けていくような感じだよ。

ねぇ、私はどこで道を誤っちゃったんだろう…??
どこから歩み直せばいいの?どこまで進んで行けばいいの?
私はここに居つづけていてもいいの??
これからもずっと、ここに居なくちゃいけないの??

そろそろ限界だよ…自分の事がよく分からないよ。
他の人たちも同じような想いを抱えながら生きているの??
私だけなのかな…私は異常なんだ。病気のせい??
ううん、きっと生まれ方を間違えてしまったんだ…

頭が痛くて、全身が怠くて、微熱が下がらなくて、
涙が止まらなくて…病院へ行く事にしました。
主治医に会いたかったから…
もう私の涙を見せられる人は主治医しかいないの。
でもね、涙の理由を悟る事のできる人は誰もいないんだ。
私自身にさえ分からないから…

初診で10時過ぎ頃から待っていて、途中で看護婦さんに
症状を聞かれてから、採血をする事になりました。
いつものパターンなのに…この微熱は感染症によるものでは
ないと分かっているのに、相変わらず主治医は慎重だった。
そのせいで、診察が1時半まで長引いてしまいました。
食欲がなかったので何も食べずに、少しだけ外を歩いて、
それから、ずっと待合室で待ち続けていました。
途中で何度も涙が溢れ出てきて、壁に寄り掛かりながら
ずっと顔を隠すようにうつむいていました。
眠り続けていたかった…周囲に触れていたくなかった…

直接主治医から名前を呼ばれて、怖くて全身が凍り付いた。
こんな私をどう受け入れてもらえばいいの??
分かっていたよ…どうせ泣く事しかできないんだ。
けれど、半端な量の涙ではなかった。洪水のようだった…
もう私の心の堤防は完全に決壊してしまっているよ…
それでも、まだ流出する行き場があって良かった。
でもね、もはや主治医との関係は見え透いてしまっていて
逆に縮こまってしまう…誰より心を開けているはずなのに。

主治医はいつもと同じように私の両手を握り、髪をなでたり
涙を拭いてくれたりした…それでも、涙は一層量を増した。
もうどうしようもないんだって、私には分かっていたから…
「今日は私に何か言いたくて一人でここに来たんでしょ?」
主治医は知っているつもりで、何も分かってはいないんだ…
私が口にしようとしている言葉を聞いた途端に、きっと私を
見放してしまうに違いないんだ…それを何より恐れていた。
最初から分かっていたから、どうしても言えずにいたけれど
主治医にだから伝えられる言葉だと思ったの…

「何が嫌なの??病気?それとも治療する事が嫌なの??」
「全部、嫌…」
「全部って??」
「生きている事が、嫌…」

その瞬間、主治医は真顔になり、繋いでいた私の両手を解き
パソコンを打ち始めた。長い長いタイピングだった…
私には分かっていた。手に負えないから心療内科でしょ??
主治医は微塵も分かっていないんだ。
主治医に打ち明けられない想いを他の人に話せるはずがない
という事を…私にはそんな事務的なものは通用しないのに。
「話を聞いてもらえるだけでも心が軽くなると思うよ??」
そんな誰にでも口にできるような言葉を平然と言う主治医が
信じられなかった。決して誰でもいいわけじゃないのに…

それ以上、一言も言葉を発する事ができなくて、一方的に
私は厄介者のように心療内科へ連れて行かれました。
それでも、私は私だから…決して負けたりなんかしない。
顔は一度も見なかったけれど、穏和そうな医師だった。
いかにも柔和に誘い込むようなモノトーンの口調…
私が泣き付いて縋ってくるとでも思っていたんだ。
私が本当に望んでいるものは、そんな薄っぺらな表面上の
憐情なんかじゃない。本当に欲しいモノは、人間味のある
間柄の奥深くに潜在している真実という名の温もりなの…
私には、もう、それしか信じる事ができないの。

結局、最後まで目すら合わせる事なく一言も話さなかった。
お薬もいらない。これ以上の処置も必要ない。
だから、そのまま家に帰る事に決めたの。そして、最後に…
「かなり気が滅入っているように思われるのですが…」
「このまま家に帰っても本当に平気でいられるのですか?」
その後、医師の口からとんでもない事実を知らされた…


「あなたの主治医が、あなたに対して最も心配している事は
 いつか、あなたが死んでしまうのではないかって・・・」


恐ろしかった…そんな事を平気で本人に告げる医師の心が、
そして、そんな事を私に対して抱いていた主治医の心が…
そして…自分自身の意思を推し量れない自分自身の心が。
ねぇ、消えちゃいたいっていうのと死んでしまいたい事は
同じなの?異なるモノだと思っていたよ…でも、今日ここで
同じ事なんだと知らされてしまったような気がする。

主治医は、私なら今でも遣り兼ねないと思っていたんだね…
私の過去には、そう思われても仕方のない前科があるから、
完全に否定する事はできないけれど、全く違うんだよ。
あの頃は、本当に消えてしまいたいと懇願する毎日だった。
でもね、あの頃、毎日のように流していた涙と、今の涙は
全くの別物なんだよ。どうか、それに気づいて欲しいよ…

私ね、今ではもうあの頃のように消えちゃいたいだなんて
心から願ったりなんてしたくないよ。あれから今日までの
数年間で、少しは成長できたんだよ…多くの人たちに心を
開けてきたんだよ…それでね、少しずつ本当の自分らしさを
見つけていって、自分らしく生きていきたいと願う気持ちが
芽生えてきたんだよ。一度は失ってしまった笑顔を、再び
取り戻したいって願うようになったんだよ…本当だよ。

それだから、ふと消えちゃいたいって思ってしまう自分が
怖くなるの…もう本当は消えちゃいたくないはずなのに…
今でも自分の事を疫病神だと思い続けている自分がいるの。
だから、いつも最後には人間不信に陥って、立ち止まって、
永遠に同じ事の繰り返しなの…親しくなればなるほどに、
ありのままの自分を曝け出す事を恐れてしまうの。

そういう時は、どうしたらいいの??
誰に心を開けばいいの??
どこで答えを見つけ出せばいいの??


私には自分の幸せを掴むどころか、
他人を幸せにする事もできないんだ…
だから、一人でも平気なようになりたかった…
いつ消えてしまっても大丈夫なように…

でもね、一人では生きていけないって分かったの。




all alone
2004年12月01日(水)
実は、私がこのHPを開設したのは、退院して1年半も後の事でした。
ちょうど過去の自分を忘れかけていた頃だったので、ある程度は、
前向きなプラス思考で生きられていた頃だったと思う。
だから、まさか、こんな過去のお話をするなんて思ってもみなかった。
本当は、ずっと封印していたら完全に消し去れるものだと信じていた。
きっと、全てを覆い隠せるほど、成長できていたつもりでいたんだね。

HP開設当時は、病気によって得たモノの方が多かったような気がする…
だから、病気の自分でも好きでいられて、笑顔でいられたのだと思う。
病気によって無理強いされた価値観も、少しずつ馴染んでいっていた。
でもね、それは、ただ、過去の自分を遠ざけたかっただけなんだ。
少しも自ら繋ぎ止める事をしようとしなかったから、置き去りにされた
狂気だった過去の自分が、今、再び私の心の奥で泣き声を上げている。


あの頃の私は、とっても悪い子でした。
それまでは、とっても良い子だったけど…
別に豹変したわけじゃないよ。道理に適った事なんだ。
それまで抑え込まれていた自分が、苦しみの果てに溢れ出てきただけ。
ある意味では、メッキが剥がれたとも言うのかもしれない。
そんな自分を、私は、何も知らずに、必死で押し殺そうとしていた。


入院11ヶ月目から、私は免疫抑制剤というお薬を服用する事になった。
「これを飲んだら、今度こそ、病気が良くなるからね!!」
主治医に、そう説得されて、仕方なく服用する決心をした。
本当は嫌だった。良くなるはずはないんだって、知っていたから。
もう自分なんて、どうでも良かったから…もう疲れ果てちゃったから…
生き地獄で生き続けなくちゃいけないのなら、安らかに眠りたかった。

だから、2001年7月31日の夜、翌日からの免疫抑制剤の服用に関する
主治医による説明と親の承諾を得るための面会の直前に私は脱走した。
病院を飛び出し、真っ暗闇の中、ずっと泣きながらうずくまっていた。
遠くから全館放送が聞こえた。何度も私の名前が呼ばれていた…
みんな何にも分かっていないんだ。私は一人ぼっちで、ここにいるよ。
どうか、少しでも、私の気持ちに気づいて下さい。

その数時間後、深夜に内科の医師がパジャマ姿の女の子を発見した。
主治医は自宅に帰らずに、ずっと私の病室で待ち続けていてくれた。
そして、いつもの口癖。「生きていて良かった。」と言った。
病棟の患者さんたちも、私の事を心配して起きていてくれたみたい…
全館放送なんてされちゃって、ビックリさせて、ごめんなさい。
それでも、私は、主治医の透かしたような笑顔が何だか腹立たしくて、
ちっとも反省しようとしなかった。ちっとも笑顔でいられなかった。

ご飯なんて食べたくなかった。だから、栄養点滴に繋がれた。
体力の限界に挑戦しちゃダメよって言われた。
だから、点滴を引っ張りながら、疲れ果てるまで歩き回った。
そこで見つけた藤棚に座り込んで、ある事を思い付いた。
別に自ら針で刺さなくても、血は出せるんだ。理性が吹っ飛んだ。
点滴のチューブの接続部分を外せば、自然と逆血してくる。
地面にポタポタと流れ落ちる真っ赤な自分の血を眺めていた。
アリが一気に集ってきて、私の血で溺れそうだった。バカだなぁ…
その血には、悪の病魔が潜んでいるんだぞ。。しばらくして、
通り掛かりの療法士さんに気づかれて病棟まで連れ戻され、叱られた。
その翌日、病室でも同じ事をしたら、ベッドのシーツが真っ赤になって
主治医がビックリしていた。でも、特別に何も問い詰められなかった。
しばらくして、貧血になった。原因不明の発熱も続いた。

ちっとも効かないお薬なんて飲みたくなかったから、辞めた。
飲んだフリをして、引き出しの中に溜め込んでいた。
ステロイドの服用を急に辞めたらショック状態になると言われたから、
試してみたけど、特別に何の変化もなかった。うそつき…
病室に居たくなくて、病院玄関のベンチに座って一夜を過ごしたり、
鍵が掛けられた屋上の扉の前に座り込んで過ごしていた一夜もあった。
鍵が閉まっていて良かった…進入できていたら飛び降りていたと思う。
筋力を疲労させたらダメと言われたから、病棟の階段を上り尽くした。
なかなかくたばろうとしない自分の身体に苛立ちが募っていった。
免疫抑制剤を服用しているから、グレープフルーツジュースを飲んだら
ダメと言われたから、売店でグレープフルーツジュースを買い込んで
飲み続けてみた。血中濃度が上昇していくのを感じ取る事ができた。
でも、すぐに血液検査でバレてしまい、主治医から厳重に注意された。
「あなたは医学の知識なんて何にもないんだから…。」と言われて、
ますます腹立たしく思った。ますます笑顔を失っていった。

もうじき21歳になるんだ。私の20歳は何だったんだろう…
成人式にも出席できなかった。ずっと病院に監禁され続けていた。
快方に向かいもしない病気を負わされて、何を望んで生きればいい?
疫病神な自分に、この先、一体何ができると言うの??
どんな生き方が残されていますか?どうか私に指標を与えて下さい…
どこか、ここではない遠い場所へ行きたかった。自由になりたかった。
歩いていると息切れがして苦しくなるから、電車に乗る事にした。
パジャマ姿でスリッパを履いたまま、電車に乗り込んだ。
大学へ行った。広島県にも行った。会いたい人にも会いに行った。
駅前の本屋へ自分の病気について調べに行ったりもした。
近所の薬局へ「禁忌薬」を探しに行ったりもした。
グッタリで病院に戻って来ても何事もなかったかのようにゴマかせた。
みんなバカだ…私は、もっとバカだ。それから、しばらく寝込んだ。

2001年8月5日、21歳のバースデーの当日、私は絶望した。
どうして病院のベッドで寝込んでいるの?病気は良くなっているの?
免疫力が低下しているからって、病室の外に出る事も禁じられていた。
私は何のために生きているんだろう。幸せって、どんな事を言うの?
今は、辛いの?苦しいの?悲しいの?ううん、とっても寂しい…
でもね、寂しい気持ちを、どうしたら寂しくないようにできるのか、
分からなくて。だって、ここには私の嫌いな自分しかいないんだもん…
だから、憎しみしか生じてこないよ。あったかい居場所を求めていた。
私じゃない人と一緒に居られたら、少しでも自分を忘れられるかな??
そこに、真の幸せが待ち受けているような気がするよ。

その日の夕方頃、親友に電話をした。恋人だった元カレではなく…
当時の私には、自分から甘えられる人なんて存在しなかったけど、
彼女になら、ありのままの自分を曝け出す事ができると思ったから。
今でも、その時の事を覚えているよ。夕食後「今すぐ会いたい」って、
「病院まで来て」じゃなくて「駅の時計台の前で待っていて」と言って
私は自分で点滴を抜いて「大好きな人に会いに行って来ます。」と、
置き手紙を残して病院を去った。駅まで徒歩で20分くらい…
外は真っ暗だったから、どんな姿でも恥ずかしくはなかった。
無我夢中で歩いた。駅に辿り着くまでは、立ち止まりたくはなかった。
その親友とは、すぐに会う事ができた。すごくビックリしていた。
でも、咎める事もせずに、ずっと黙って私の話を聞いてくれていた。

このままずっと一緒に居たかった。離れたくなかった。
今でも、そんな感情に襲われる時が多々あるよ。
誰かに自分を繋ぎ止めていて欲しかった。自分自身では無理だから…
ふわふわ揺れて消えてしまいそうな自分を、縛り付けて欲しかった。

からくり時計が9時を知らせた。たくさんの人たちが集まってきた。
その中に見慣れた顔が…いきなり、お父さんが目の前に現われた。
すごいね。。なんで私の居場所が分かっちゃったんだろう…親バカだ。
非難されるかと思っていたら、ホッとしたような顔つきだった。
病棟では警察沙汰になる寸前で、常に穏和だった主治医も、さすがに
かなり立腹していると知らされた。でも、ちっとも恐怖ではなかった。
ちゃんと謝るように言われたけど、絶対に謝るもんかと強気でいた。
私は、私の生きたいように、生きたかっただけなんだ。
誰にだって、持ち合わせている衝動でしょ??

その後、お父さんの車で、親友も一緒に病棟まで付いて来てくれた。
車椅子の患者さんが、杖をついて私を捜し回ってくれたみたい…
元カレから「何バカな事をしたんだ!!」と怒りのメールがあった。
お母さんが「大好きな人」を元カレだと勘違いして、元カレの自宅に
電話を掛けたらしい。あなたなら、私を救う事ができていたと言うの?
寂しくて死にそうな時に側に居てくれた事なんて一度もないじゃない…
病室の前には、号泣していたお母さんと、心配そうな表情をした
看護婦さんたち、患者さんたち、医師たちが呆然と立ち尽くしていた。
そこに、主治医の姿はなかった。会いたくもなかった。
もう、一人にしておいて欲しかったから。涙しか流れて来ないから…
もう、私は、あなた方が思っているような良い子ちゃんではないから。

しばらくして、主治医が私の病室まで駆け付けて来た。
いつもの笑顔はなかった。困惑した表情で思いっきり説教をされた。
そして、いつもの口癖。「生きていて良かった。」って…
でも、初めて、その言葉に温かみを感じたよ。嘘じゃないと思った。
いつもは透かしたような笑顔で「大丈夫」って、私を元気づけられた
気でいて、私の事なんて微塵も理解できていなかったくせに…
でも、その時、初めて、自分を理解してもらえたような気がした。
私ね、本当は、先生の温もりが欲しかったよ。先生が大好きだった…
ずっと、寂しいって、言いたかった。救いを求めていたんだよ。
でも、先生は、いつも「大丈夫」って言うだけで助けてくれなかった。
私が欲しかったモノは、そんな薄っぺらな優しさなんかじゃない。
本当は大丈夫じゃないんだって、解ってもらいたかったの。
でも、分からなくて…どうやったら素直な気持ちを伝えられるの??
だから、抗う事しか、泣く事しか、出来なくて…笑顔も失ったの。

その時に、初めて主治医からお手紙を受け取った。
その前に、私が主治医に宛てて書いたお手紙のお返事だった。


主治医が今でも私の涙に敏感なのは、当時の私の事を知っているから。
いつも両手を握って慰めてくれるのも、あの頃と全く同じだよ。
私は、言葉で自分の素直な気持ちを表せなくなってしまっていたから。
心を開いていないんじゃなくて、分からないからなの。
だから、自分を理解してもらいたいって願う事もしなくなった。
そのうちに、自分でも、自分の事を理解できなくなっていった。

過去の自分を完全に押し殺せたつもりでいた。
それなのに、今でも当時のままの自分で、生き続けているよ。
本当は、忘れる事なんて、消し去る事なんて、
過去の自分を完全に否定しない限り、できないんだ…

退院直前、抗鬱剤の服用を始めた時に、主治医が言った。
「精神症状は、入院が長引きすぎた事が原因なのでしょうね…」
明らかに丸一年間の監禁生活が、私の人生を、私の人格までも変えて
しまったのだと、その時点で、もうすでに気づいていた事なのに、私は
そのまま何事もなかったかのように、生き続けようとしてしまった…
「ありのままの自分」を、御座なりにしてしまった。…
退院さえすれば、再び以前の元気な自分に戻れると信じていたから。
でも、完全に取り戻せるはずはなかったんだ。
ずっと思い描いてきたシナリオの主役には、もうなれない。
逸脱したレールに再び乗る事ができたという錯覚に翻弄されていた。
矛盾だらけの自分に答えを見出せずに、ただ漠然と生きていた。
遠ざかれば遠ざかるほど、手に負えないものとなっていく運命だった。

2001年9月1日、退院。

最も悲しかった事は、病気が治らなかった事じゃない。
最も寂しかった事は、笑顔を失ってしまった事だった。


今でも解らずにいるよ。今でも充たせずにいるよ。
今でも求め続けているよ。今でも泣き続けているよ。

私は、何のために生まれて、どうして今を生きているんだろう…



m a i l



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