Sun Set Days
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2004年07月29日(木) 異なる場所

 今日は2泊3日の出張から帰ってきた。
 帰りの飛行機でははじめて隣の席になった会社の人とずっと話していた。四歳くらい年上の人だったのだけれど、真摯な姿勢に素直に感心させられた。そして、そういった人が会社にいるのだと思うと、それはもちろん悪くないことだよなと思っていた。いろいろな人と話をするのは楽しいと思う。
 それから新幹線に乗っていたのだけれど、帰りはさすがに疲れていたのか、気がつくと眠っていた。目が覚めると降りるべき駅の少し前で、そういうタイミングで目を覚ますたびに、小人がどこかに隠れているんじゃないかと思う。眠りに落ちている人を必死に揺り動かしていたりするのだ。いや、もちろん本気で思っているわけではないのだけれど、そういう小人がいたらおもしろいのにと考えてみたりする。

 一度部屋に帰って着替えてから職場に顔を出し、いくつかの確認と指示をする。今日は休日だったのだけれど、ちょっと気になったことがあったのだ。午後は大雨が降って、空の低いところをうごめく影のような黒雲がゆっくりと進んでいくのが窓から見えた。窓を開けて、手を伸ばしてみる。雨は勢いを強めたり弱めたりしていて、これは西に逸れたという台風の影響なのだろうかとぼんやりと思う。

 昨年の夏と違う場所にいて、天候が随分と異なっていることに驚いている。いま僕のいる小さな町は、ときどき夕方に雷が落ち、日中は随分と暑くなる(35度なんていう気温がそんなに珍しくないのだ)。夏風はそれほど強くなく、けれども冬になると随分と冷たい風が吹くのだそうだ。
 一年か、二年。どれくらいいるのかわからないけれど、新しい町の環境にはやく馴染んでいきたいと思う。いままでいくつもの町に少しずつ馴染んできたように、この町にも馴染んでいけたらいい。まだ通ったことのない通りを越えて、はじめて見る場所を増やしていくことができたらいい。そんなふうに町に馴染むというのは、おろしたてのシャツを着てみることに似ている。最初はごわごわとした感覚が、少しずつ肌に馴染むように感じられてくるからだ。そしてそうなったら、いくつかのシャツはお気に入りになってしまう。そんなところが随分と似ているように思う。実際、いくつかの町はお気に入りとして記憶に残っているし。
 いまいる町はそんなふうに記憶に残るのだろうかとぼんやりと思う。
 まだ住みはじめて2ヶ月しか経っていないので、いずれにしてもこれからだけれど。

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 お知らせ

 今朝は5時前に起きたので、さすがに眠たいのです。


2004年07月23日(金) 話し続けた二晩+この木はどんな色を作るの?

 一昨日の夜には、本社からきた先輩と一緒に食事に出掛けてきた。
 店舗で新しくはじめる仕組みの打ち合わせのためにやってきた先輩は、僕が新入社員だったときに一緒の店舗で働いていた人で、それ以降も何度か会ってはいたのだけれど、それでも久しぶりではあった。そして、久し振りだからということで一緒にご飯を食べに行く約束になっていた。
 その先輩はいま僕がいる町で大学時代を過ごしており、当時よく訪れていたステーキ屋に行きたいと言った。僕は助手席に先輩を乗せて、ナビを使って目的の店を目指した。ある中学校の近くということだったので、その中学校を目的地にして。

 夜の細い道路を進み、ようやくナビが目的地周辺と伝える。先輩が「あ。あそこだ」と指をさす。電灯がほとんどない薄暗い路地にその店の明かりだけが淡く輝き、まるで田舎の山道の途中にある宿屋のようだった。
 そこは随分と小さな、けれども混み合った店で、店の前にある数台分の駐車場も半分ほどが埋まっていた。先輩が言うには「10年前と何も変わっていない」とのことだった。
 内装も、メニューさえも10年前と変わっていない。マスターも同じだよ。店内を見回した先輩はなんだか随分と懐かしがっているようで、メニューをどれもおすすめだよと言いながら見せてくれたりした。そして僕らはステーキを食べながら(ご飯はかなり大盛りだった。学生だった先輩がよく訪れていたのにも納得ができる)、いろいろな話をした。会社の話、仕事の話、昔の話、昔一緒に働いていた人の近況……たくさんの話はあっという間に時間が過ぎて、気がつくと店には僕らだけしか客が残っていなかった。
 先輩はおごってくれた。かつてよくおごってくれていたように。店を出るときに、先輩に「ごちそうさまでした」と言う。最近は先輩にならって若いメンバーにおごったりもしているんですよとか思いながら。

 帰りは駅の近くのホテルまで送った。先輩は窓から街並みを眺めながら、「この辺は変わってないな」と言った。かつて暮らした場所を10年後に再び訪れる。そういうのって、どういう気持ちになるのだろうと思う。懐かしさと、感傷と、思い込みとは異なっている現実と、きっといろいろなものを見ることができるのだと思う。そして、僕も久しぶりに見てみたいなと思わされた。自分が、かつて暮らしていた場所を。


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 昨日の夜は、後輩を部屋に呼んだ。ドライブスルーで買ったモスバーガーを食べてから、仕事の数表の見方をゆっくりと教えて、それからいろいろな世間話をした。前に店で数表の見方を教えるのが途中になっていて、その続きをする約束になっていたのだ。それで、ご飯でも食べながら教えようと思っていたのだけれど、結構熱く語ってしまいそうだったので部屋に来てもらうことにした。ファミリーレストランで熱く語るのはちょっと恥ずかしいし。
 部屋でゆっくりと教えるというのは個人的にはものすごく新鮮だった。職場で教えようとすると、途中で呼ばれたり、他にやることがあったりなど、結構慌しいしまとまった時間を取ることができない。いわゆる重要じゃないけれど緊急の仕事という差込の仕事に忙殺されてしまうのだ。けれども、仕事が終わった後に、ゆっくりと面と向かって質問をしたりされながら説明できるというのは随分と理解の質が異なることのような気がした。少なくとも、昨日教えた後輩は、ニュアンス的な部分も含めて、僕が見ているやり方のようなものを、ある程度以上吸収してくれたと思う。もちろん、一回では難しい部分もあるだろうから、それはまた今度は現場で機会を見て繰り返し伝えていけばいいのだし。
 その後もいろいろな話をして、気がつくと1時を回っていた。興味深い話をいろいろと聞くこともできた。明るい後輩なのだけれど、様々なエピソードは楽しかったし、感心させられた。学生時代に大変だけれどやりがいのあることをやってきていて、そういう経験がしっかりとした地力に繋がっているのだなと思わされた。
 教えている時間も含めて、なんだかんだで4時間以上話していた。そんなふうに長い時間をちゃんと話したのは久しぶりで、ちゃんと集中して、相手のほうを見て話を聞いて、言葉を返すことは大切なことなのだとあらためて実感させられた。
 ちゃんと集中して、コミュニケーションをすること。簡単そうで、意外とそういったことができていなかったりするような気がする。もちろん、普段から人の話は聞いているし、言葉を返してはいるのだけれど、それでもやっぱりコミュニケーションの密度のようなものはこの2日間程濃くはなかったような気がする。もちろん、常に密度を濃くということが現実的に難しいということもわかる。けれども、意識はしていないければならないのだとは思わされた。ちゃんと話を聞くこと。そして言葉を返すこと。コミュニケーションをとること。
 それは簡単なようでいて、なかなか難しいことなのだなと思う。
 けれども、やっぱり大切なことではあって。


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 今日は休日で、朝10時台の『スパイダーマン2』を観てきた。1よりずっとよいと評判の続編だ。
 感想としては、面白かったけれど期待しすぎてしまっていたというところ。かなり泣けると聞いていたのでそういう気持ち満々で観ていたのがいけなかったのかもしれない。
 もちろん、アクションは相変わらず派手だし、手に汗握ってしまうようなシーンもたくさんあるのだけれど、印象的な台詞や、主人公の葛藤のようなものもわかるのだけれど、それでもツボにははまらなかった。ストーリー的におそらく3もあるはずなので、それに期待しよう。
 でも、トビー・マクガイアはやっぱりよい俳優だと思う。


 それから、今日は車で山の中にある遊歩道まで出かけ、山道を歩いてきた。
 駐車場に車を止めて、ゆっくりと歩く。参道があって、その両側に饅頭やみやげ物などを売っている小さな店が立ち並んでいる。観音像があるので、それ目当ての観光客がいるのだ。
 せっかくなのだからと、観音像を見る。賽銭箱にお賽銭も入れる。平日の昼過ぎという時間だったためか、ほとんど人の姿がなかった。僕はそこから遊歩道の方に向きを変えててくてくと歩いていたのだけれど、歩いている間、店の人とかチケット係の人以外に、最後まで誰ともすれ違わなかった。不思議なことに、鳥の鳴き声も虫の鳴き声も周囲を包み込むかのようにたくさんするのに、誰の姿もないのだ。
 両側を生い茂る木々に囲まれた遊歩道を歩いて、途中で吊り橋に出る。山の案内図を見ていたときから、絶対に見てみたいし渡ってみたいと思っていたのがその吊り橋だった。案の定そこにも誰の姿もなくて、ちょっとだけ驚いた。大きな吊り橋だったから、途中に観光客がいて写真とかを写しているのではないかと思っていたのだ。
 けれども誰もいなくて、誰もいない吊り橋は渡ったら落ちてしまいそうに見えた。たとえば、それは店で棚に残っている最後の1個の商品だとちょっと買うのを躊躇してしまうことに似ていたかもしれない。吊り橋は誰も渡っていないと、妙に不安をかきたてられてしまう。
 とは言っても、吊り橋なんてそんなに渡った経験があるわけでもないので、浮かれていたのも事実。「すごい」と思いながらさっそく渡ってみた。僕一人だけしか渡っていないのに、軽くみしみしと揺れる音がする。途中、左右のてすりに触れながら下を覗き込んでみた。結構高さがあって、下のほうにも木々が植わっているのが見える。意味もなく、吊り橋を支えている太いロープに手を伸ばして触れてみる。その間も鳥の鳴き声が遠く近く聞こえる。空を見上げると青空に雲が点在していて、随分と暑い。周囲には緑の稜線が続いている。足元にも緑の森が広がっている。誰もいなかったから、結構長い時間吊り橋の上で過ごしていた。吊り橋の上に長い時間立っていたのははじめてだった。ただ、その山に行こうと思ったのはきまぐれだったので、デジタルカメラを持ってきていなかった。それが残念ではあった。写真に撮ったら、印象的な感じの光景だったのに。

 吊り橋を渡って少し歩くと、染色工芸館という建物に出た。せっかくなので中に入ることにする。そこでは、日本染色文化史などの常設展があり、様々な染色品が並んでいた。そして、やっぱりというかどうしてなのか、その常設展の会場にも、他には誰の姿もなかった。館員の人だけで、客はいないのだ。なんだか貸切みたいで不思議な感じだった。
 印象的だったのは、色の名前だった。延喜式の中にある縫殿寮(ぬいどのつかさ)の雑染用度条(ざつせんようどじょう)にある色を再現した布を展示しているコーナーがあったのだけれど、そこにある色につけられた名前が色見本と印象が重なって魅力的だった。
 たとえば、


 浅滅紫(あさきけしむらさき)
 深緋(ふかきあけ)
 深支子(ふかきくちなし)
 次縹(つぎのはなだ)


 とか、あんまり見たことのない色名が並んでいるのだ。浅滅紫とは別に深滅紫(ふかきけしむらさき)という色もちゃんとあって、その違いなんかも見ていると結構新鮮に感じられた。
 館内を出た後は、そのまま染料植物の道という散歩道を歩く。これは名前の通り、染料に使う木を、遊歩道沿いに並べている道だ。
 クヌギや百日紅やヤブデマリなど、様々な木が植えられている。そして、それぞれの木のところに小さな案内板が立てられていて、その木からどんな色が採れるのかを色見本を使って説明しているのだ。たとえばヒサカキなら藤色というように(そして、たいていの木が2色以上の色を作ることができた)。新鮮な道だった。たくさんの種類の木を植えている遊歩道はたくさんあるけれど、この木からはこんな色が生み出されますという色見本がある道はなかなかにないからだ。
 だから歩いていて、何度も立ち止まってしまった。この木はこういう色を作ることができるのかと見入ってしまったのだ。草木染という言葉があるように、木から色を作れることは知ってはいたけれど、そんなふうに木と色をダイレクトに繋げて眺めることはいままでなかった。ただ歩いているだけでも気持ちのよい遊歩道が、そのためにさらに興味深いものとなっていた。
 また、山間にある遊歩道だったから、途中から自分のいる場所が他の山々に囲まれている場所なのだということがよくわかった。天気がよくて、気温も高く、虫の鳴き声は異常なほどだった。ホーホケキョという鳥の鳴き声も聴こえていた。ホーホケキョって聞いたのはあらためて考えてみると、随分と久しぶりのように思えた。

 遊歩道の途中には、温室もあった。2階建ての小さな建物で、冷房の効いた休憩室と、沖縄や南国の木や花を集めた温室があった。
 テーブルと椅子がいくつも並んだ休憩所にも、やっぱり誰の姿もなかった。染料植物の道を歩いているときにも誰もいなかったのだけれど、14時頃前の休憩室にも誰の姿もないのは、さすがに不思議には思えた。
 温室も誰もいなくて、ちょっと警戒しながら引き戸を引いて中に入る。
 イージーなイメージだけれど、南洋植物がたくさん生い茂っている温室って大きな虫なんかがいて、しかも誰もいないとホラー映画に出てくるような大きな蜘蛛なんかが出てきて食べられてしまいそうな気がしてしまうのだ(もちろん、現実にはそんなことはあるはずもないとはわかっていても)。
 温室の中は暑く、不思議な格好をした木々が脈絡もなく並んでいた。ベニヒモノキという木があったのだけれど、どうしたらこういう花が必要になるのだろうと思うような形をしていた。また、モクマオウやガジュマルの木なんかもあって、モクマオウが漢字で書くと木麻黄なのだということや、ガジュマルが榕樹なのだということをはじめて知った。イメージとしては、やっぱりカタカナのイメージなのだけれど。
 そして、染料に関する場所だけあって、そこでもちゃんと色見本はあった。たとえば、琉球藍は水縹色になるとか。

 それから、遊歩道を1時間くらい歩いて、再び吊り橋を渡って、観音像を通り越して駐車場まで戻った。観音像のところには他にも観光客が増えてきていた。吊り橋を渡るときにはやっぱり一人だった。途中、みやげ物屋で饅頭を買った。せっかく来たのだからと思ったのだ。客がいないので僕が店に入るまで携帯メールをやっていた店番のおじさんは、「試食用のおまけです」と言って僕が買ったまんじゅうを1個別に手渡してくれた。「ありがとうございます」と言って、それをもぐもぐと食べながら坂道を降りる。
 駐車場から車を出して、急カーブの山道を越えて部屋を目指した。
 気持ちのよい休日の午後だった。


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 お知らせ

 百日紅の花がちょうど咲いていて、薄い白っぽい紅色がきれいだったのでした。


2004年07月20日(火) 季節アンテナ

 今日は仕事が終わった後5人でご飯を食べに行った。個室ばかりの、郊外型の創作料理の店だ。繁華街だけではなく、いまでは郊外にまでこういう店は進出しているのだ。今日が最後だったアルバイトの学生の子がいたので、その送別会を兼ねてという感じの食事だった。
 いろいろな話をしたのだけれど、中に来年結婚するという人がいたりしたこともあって(23歳なので若い)、恋愛の話題が結構出てきた。いろいろな人がいるなというのが正直なところ。たくさんの人がいて、たくさんの形があるのだなとあらためて思っていたりした。
 また、お開きになった後、駐車場で送ってくれる人と少し話したのだけれど、その間駐車場の背後にある水田からは蛙の鳴き声が響いてきていて、星も見えていて、なんだか久しぶりに日本風の情緒のある場所にいるような感覚があった。
 東京の方では異常な暑さだったというけれど、0時前後だったというのに確かにまだかなり暑かった。
 いつの間にか、世界はしっかりと夏になっていたのだ。
 僕はぼんやりしているので、いつも季節の変化を見逃してしまう。もう30年弱も生きているのだから、一度くらい季節の変わり目をしっかりとこの目で見ることができてもよさそうなものなのに、いつだってあるときにはたと気がつくと季節が変わっているのだ。
 厳密に言うと、それは季節を感じる見えないアンテナのようなもの(あるいはしっぽのようなもの)は、常に遅れて季節を認識するということなのかもしれないけれど。
 そうしたら、僕のそのアンテナは(あるいはしっぽは)、多くの人よりもさらに遅れて感じるようになっているのかもしれない。
 はたと気がつくのが随分と遅いような気がするからだ。


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 お知らせ

 たよりにならないそのアンテナでは、今年の夏は長いような気がします。


2004年07月16日(金) パスタ

 今日は仕事が終わってから5人でご飯を食べに行く。パスタとピザの店に行ったのだけれど、先日も別のメンバーとパスタを食べに行ったので、最近はパスタが続いている。個人的にはぺペロンチーノとカルボナーラばかりを繰り返し頼んでしまうのだけれど、今日もカルボナーラを注文した(パスタはやっぱりおいしい)。
 結構いろいろな話をしていたのだけれど、アルバイトの子の話していたテレアポのアルバイトの話が結構興味深かった。なかなかうかがい知ることのできない業界の話なので、なるほどと思わされたのだ。
 帰りはそのまま車で送ってもらい、部屋を見たいということだったので少しだけ部屋を見せる。前に数人が部屋に遊びに来て、男の部屋にしては随分と片付いているという話になっていたのだ。
 まあ、一度片付けておくと手直しをするのが楽なので、片付けておくのは何かと得なのだ。それに、部屋が片付いていると気持ち的にいいような気もするし。気持ちが沈んでいると、部屋も散らかって、それに引きずられるようにしてさらに落ち込んでということにもなりかねないし。

 いずれにしても、人が部屋に遊びに来て本棚とかを見られるのはちょっと恥ずかしい気もするけれど、人が遊びに来ることはいいよなとは思う。


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 お知らせ

 明日からの3連休は頑張ります。


2004年07月15日(木) 家事をする休日

 今日は休日で、いつもよりは遅かったのだけれど7時過ぎに目が覚めた。
 カーテンを開けると天気がよかったので、とりあえず起きて洗濯機を回す。洗濯機をお気に入りにしておくと、休みのたびの洗濯も面倒だと思わないようになる利点があるよなと思いながら柔軟剤と洗剤を入れる。
 そして、洗濯機を回している間に、掃除機をかけてしまう。いま住んでいる部屋は2DKで、ベッドを置いてある和室、ダイニング、洋間、玄関、脱衣所、その他という順番で掃除機をかける。窓を開けていたのだけれど、さわやかな風が入ってくるわけではなく、あっという間に室温が上がっていく。むあっとした熱気にやれやれと思う。

 洗濯と掃除が終わってから、予約していた歯医者に出掛ける。それからクリーニング屋に預けていた洋服を取りに行き、スーパーマーケットで食材を買う。今日は車に乗っていたので、重くなった袋も問題なく持ち運ぶ。
 部屋に戻ってもまだ14時少し前だった。早起きは三文の得とはよく言ったものだと思いながら、買った食糧を冷蔵庫にしまいこむ。

 それから、今度は歩きで髪を切りに出掛けてくる。異動してきて二度目の散髪で、前回とは違うところに行くことにした。テレビのニュースで政治家の献金問題についてやっていて、「叩けば埃が出るのねえ」という話になる。髪を切られているときにそんな話をするなんて定番だよなあとなんとなくおもしろく思う。
 それからコンビニに公共料金を支払いに行き、帰りに新しくオープンしたパン屋に行く。前から気になっていたのだけれど、最近は仕事が忙しく行くことができていなかったのだ。中途半端な時間だったにも関わらず店内は混み合っていて、いかにもおいしそうな外観の店だけあって近隣の主婦たちも注目しているのだろうなと思う。5台分ほどの駐車場もあるのだけれど、それも埋まっていたし。
 食パンやクロワッサンなどを買う。食パンは1斤を5枚に切り分けてもらう。
 部屋に帰ってから朝から何も食べていなくてお腹が減っていたので、牛乳と一緒に食パンを食べる。これがまたものすごく柔らかくておいしかった。
 店の人が焼き立てだから袋の封はしませんよと話していた食パンは、ミミまで美味しくて何もつけないで食べてしまう。
 まだ他のパンをいろいろと試しているわけではないのだけれど、なにしろ近所なので頻繁に行くようになるのだろうなと思う。パン好きとしては、かなり嬉しい。

 そして、今度は夕食の準備にとりかかる。今日はのんびりと過ごそうと思っていたので、料理を作ろうと思っていたのだ。仕事のある日だとどうしても外食か作っても簡単なものになってしまうので、少し時間のかかるものを作ろうと思うとどうしても休日になってしまうのだ。
 今日はなすとひき肉のカレーを作った。カレー粉とかホールトマトを使うやつで本を見ながら作る。本を見ながら作るので、最初にたまねぎのみじん切りを30分くらい炒める。ゆっくりやると味がしみこむとか書いているので音楽を聴きながら炒め続ける。最後に出来上がってからいちおうパセリも散らして見た目も整えてみる。カレーというには随分とあっさりとした味になってしまったけれど(カレー粉は全部で大さじ4杯分)、自分で作ると贔屓目になってしまうのであっさりしていておいしいと思う。都合がいいけれど。
 残った分は保存容器に入れて冷蔵庫にしまう。

 というような感じで、のんびりと過ごす休日だった。あとは本を読んだり、文章を書いたり。音楽は常に部屋に流れていた(いまも流れている)。
 こういう穏やかな日はいいなあとあらためて思う。


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 お知らせ

 洗濯物は夜に取り込みました。


2004年07月14日(水) 『ウォルター少年と、夏の休日』+ショッピング・センター

 先日の1週間ぶりの休日には、一人でドライブに出掛けてきた。車が届いてからまだ一月と経ってはいなくて、練習がてらある程度長い距離を走ってみたかったのだ。
 ドライブにはやっぱり目的地が必要ということで、車で1時間半ほどのところにある大きなショッピング・センターに行くことにした。ホームページでどんなテナントが入っているのかを確かめ、シネマ・コンプレックスにレピシエなども入っていることを確認する。
 ちょっと朝に用事を済ませ、出発したのは11時少し前。天気は快晴で、ドライブ日和と言えばそんなふうに言えるような感じだった。

 ドライブは楽しかった。カーナビをつけてあるので道に迷うことはなかったし、チェンジャーからはお気に入りの音楽が聴こえてくる。ハンドルを握る手はまだ少し緊張していたけれど(何しろ5年ぶりの自分の車だ)、それでも少しずつリハビリしているように、車を運転する感覚のようなものが戻ってきていた。

 途中いくつかの青い看板を超えて、ナビの音声案内に従う。時間はあるのだからと下道優先で走っていたのだけれど、市街地を抜けるとすぐに田舎の畑が広がっていたり、あっという間に通り過ぎてしまうような小さな町を越えていくのもまた感じがよかった。昔子供の頃に、北海道の地方をドライブしたときに感覚が似ているかもしれないと思った。

 1時間半かかってその大きなショッピング・センターに到着した。屋外の駐車場に車を停めて、一度大きく伸びをする。緊張していたのか、肩が凝ったような感じがしたのだ。随分と気温が高く、暑い。
 まずは建物に向かって歩いて、外にあるシネマコンプレックスの上映時間案内を見る。『スパイダーマン2』を観ようかなと思ったのだけれど、ふと20分ほどで上映開始になる『ウォルター少年と、夏の休日』という映画が目に入った。『シックス・センス』の子供に、『サイダーハウス・ルール』のラーチ役をしていたマイケル・ケインの姿も見える。感動できる佳作といった雰囲気で、地方のショッピング・センターに来たのだからこういうひそやかな感じの作品を観ようかなとなんとなく思ったのだ。

 そして、その何となくは「あたり」だった。地味に面白く、久しぶりにいい映画を観たと思えるような作品だった。パンフレットによると「14歳の少年が本物の大人の男たちに出会い、成長していく物語」なのだけれど、古きよきといった言葉がぴったりくるかのようないい映画だった。
 映画が終わってから売店でパンフレットを買ったのだけれど、そのとき後ろにいた同じ映画のパンフレットを購入したおばさんが、「いい映画だったわねえ」とうっとりと話しかけてくるくらいにはいい映画だった。
「そうですよね。よかったですよね」と僕は答え、おばさんは「子役の子もかわいかったわねえ」と言った。「叔父さん二人もよかったですよ」と再度僕が言うと、「ええ、本当にそうね。ウェスタンもかかっていたし、本当によかったわ」と再びうっとりしたように言った。
 見知らぬ人に思わず話しかけてしまうくらいよかったということなのだろう。そういうのって気持ちとしてはわかるような気がする。
 それにしても、そんなふうに話しかけられたりすることが多いので、悪人には見えないのかな? となんとなく思う。
 でも、そのショッピング・センターにドライブがてら行かなければきっと観ない作品だったと思う。そういう意味では偶然に感謝。


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 映画を観終わった後大きな書店で本を購入し、CDストアでCDを購入する。ショッピング・センターは2核1モールの典型的な郊外の大型ショッピング・センターで、採光も考えられており、非常によくできたつくりだった。シネマ・コンプレックスもあるし東京に行かないとないようなテナントが並び、地方にこういう店があったら確かに暮らしには便利で役に立つし、娯楽にもなるよなと思う。RSCで食品も扱っているので本当の意味で暮らしに密着というわけにはいかないのだけれど、それでも便利だよなとは思う。
 帰り際にはレピシエで紅茶の葉を購入する。いま住んでいる町にはレピシエはなかったので、これは重宝するなと思いながら。

 帰りは夕方になってしまった。再び1時間半の道のりを帰ろうとしたのだけれど、夕方の渋滞に巻き込まれ、結果として2時間ほどかかった。
 けれども、そういうのもまた醍醐味だとは思えた。

 またどこか目的地を決めて、ドライブに出掛けようと思う。


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 お知らせ

 今日は後輩と一緒にご飯を食べに行きました。カルボナーラを食べたのですが、とても美味しかったです。


2004年07月08日(木) 雷雨消灯

 21時少し前に仕事が終わると、空の遠くの方で雷が鳴り響く音が聞こえてきた。
 それから少しして空が一瞬輝き、また間をあけてから地響きのような激しい音が響いた。
 雷だ。
 日中は35度にもなる記録的な暑さが続いていたのだけれど、その時間になってもまだ余韻が残っていた。周囲は、むあっとした熱気のようなものに覆われていた。
 そんな雰囲気の中で鳴り響く雷は随分とアンバランスに感じられた。
「この辺は雷が多いんですよね」
 隣を歩いていた後輩がそう言った。「へえ」とか「そうなんだ」とか相槌を打つ。そう話している間にも空は再び輝き、後を追うように雷がどこかに落ちる音がする。
「でもまだ遠いですね」
 別の後輩が言った。
「そうなんだ」ともう一度言う。
 雷が多い町だなんて、それは不謹慎だけれど情緒があるかもしれないと思いながら。

 マンションに帰ってきたときにも、雷はまだ鳴っていた。廊下を歩きながら、駐車場に置いてある車を上から見下ろす。僕の部屋は3階にあるのだけれど、平地ということもあって廊下からは結構遠くまでを見下ろすことができる。結構先に大きな運動公園の近くにあるゴルフ練習場か何かのネットが見えていて、いかにも雷が落ちそうな柱だよなとぼんやりと思う。

 着替えてから、近くのコンビニまで行くことにする。iPodを入れた斜めがけのカバンをかけて、車はやめて歩いていくことにする。近くのコンビニなのだから車を使うまでもないと思ったのだ。
 雷はまだ続いていた。けれども雨は降っていなくて、ちょっと迷ったけれどどうせすぐに帰るのだからと傘は持たなかった。そして、コンビニまでの途中で、そうだモスバーガーに行こうと思ったのだ。
 今日、最近力を入れていた仕事がひとつ終わって、ほっとしていたこともある。それで少し足を伸ばして、モスバーガーで山ぶどうスカッシュを飲もうと、そんなふうに思ってしまったのだ。
 モスバーガーまではちょっと距離があった。片道歩いて10分くらいの距離。引き返して車に乗ればよかったのかもしれないけれど、なんとなくそのまま歩くことにした。身体は疲れていたけれど(今日は5時起きだったし)、それでも気持ち的に解放感があったからだ。途中、後輩から電話がかかってきたりして、話ながら歩く。

 歩道橋をわたり、モスバーガーに入る。モスバーガーでははじめて夜の間だけメニューに加えられるビーフシチューを食べた(ぬるかった……)。
 もちろん、お気に入りの山ぶどうスカッシュも飲んだ。
 そのときだった。堰を切ったように、一気に雨が降り出したのだ。
 しまった、とは思った。傘がないと思ったし、車でもなかったからだ。そして、客観的に考えればいくらでも予測できたことなのに、なんとなくそのままてくてくと歩いてきてしまったことを少しだけ後悔した。
 それからものすごく近いところで雷が落ちる音がした。
 雨はそう簡単には、止みそうもなかった。

 モスバーガーでは備え付けの雑誌を1冊読んで、iPodでも数曲を聴いた。
 それでも雨は止まなかった。雷は相変わらず鳴り響き、近くに落ちる音がするたび、店内の人たちが窓の方を不安気に眺めていた。茶髪の若者は携帯電話を手に、「すげー雷」なんてことを喋っていた。初老の夫婦の奥さんの方は、雷が鳴るたびにいちいち驚いていた。
 まいったなとは思った。けれどもこのまま時間が過ぎるのを待っているわけにもいかなかった。

 それで店を出ることにした。その前に、iPodのイヤホンをバックの中に入れた。なんとなく、耳につけたまま歩くのは嫌だったのだ。
 外に出ると、周囲がやけに暗かった。最初はなんでそうなのかよく理解できなかった。そして、少し経ってようやく気がつくことができた。
 交差点の信号機の明かりが消えていたのだ。
 国道沿いの、片側2車線の大きな道路にある交差点が、まったく動いていなかったのだ。
 国道側の自動車だけがものすごい勢いで通り過ぎていて、枝道から交差点に合流する道路には車の列ができていた。確かにそうだろう。国道を走る車が止まってくれないのだから、進みようがないのだ。
 来たときとは逆に歩道橋を戻りながら、真っ暗になってしまった交差点をみた。電気のついていない交差点はパニック映画のワンシーンのように見えた。普段当たり前のように身の回りにある信号機が点灯していないだけで、あまりにも簡単に道路は混乱の中に沈んでしまう。不思議な感じだった。その間も、路地の方の車の列はどんどん長くなっていった。

 雨はどんどん勢いを増していた。交差点がどうなるのか見てみたい気持ちもあったけれど、結局僕は部屋までの道路をずっと走っていた。傘を持っていなかったので、まるで暑さに耐え切れずに服のままプールに飛び込んでしまった人みたいにずぶ濡れになっていた。髪も、シャツも、カバンも、ズボンも、そしてもちろん靴も時計も、すべてがたっぷり水を含んで、走るたびに走りにくくなっていった。まるで何かのバツゲームでもあるかのように。

 停電になっている信号機は国道沿いだけではなかった。もう一つ消えているところがあって、近くのコンビニも一瞬だけ停電になり、それからすぐに電気がついた。それもやっぱり不思議な光景だった。コンビニが停電しているところははじめてみた。それがすぐに元に戻ったのも、まるで一瞬だけ目の錯覚で異なる周波数の世界の光景を垣間見てしまったかのようだった。

 ずぶ濡れのままコンビニに入って(ちょっといやな客だったろうなとは思う)、飲み物を購入して、それから再び部屋に向かって走り出した。部屋についてから、着ていたものを脱いで、タオルで髪を拭いた。濡れていないTシャツに着替えて、ようやく人心地ついた。やれやれとは思った。まったくとも思った。でも、同時に珍しい体験をしたなとは思っていた。何よりも、交差点が停電になっているのを見ることができたのは印象的だった。もちろんそれはちょっと不謹慎だけれど、そういう光景を見たことで、そういうこともありえるのだということが実感としてわかったからだ。
 なかなかそういう光景を見ないと、信号機の明かりが消えることはイメージしづらいような気がする。けれどもこれから先しばらく忘れた後で、ふいに今夜の光景を思い出したりするのだろう。突然に、思いがけず。
 そして、そういうこともあったなと、ありえるのだなとあらためて思うのだ。


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 お知らせ

 本当にすごい雷でした。


2004年07月05日(月) Little Prayer

 昔、出張で訪れていた小さな町で、休日に散歩をしているときに商店街のアーケードに並べられた短冊を見たことがある。地域の幼稚園や保育園の子供たちが書いたらしい短冊がたくさん並べられていて、「ぽけもんがほしいです」なんていうことが書かれていた。その中で一枚、とても印象に残る短冊があって、それには「おんぷになりたい」と書かれていた。どうしてかそのことは折りに触れて思い出されたりして、以前にも一度Daysにも書いたことがある。


 今日、夕食をとるために後輩と一緒に入った店(2日前に4人ででかけたところと同じ店)でも、入り口のところにたくさんの短冊がかけられていた。会計のときにはじめて気がついたのだけれど、レジの横に短冊とペンが置いてあって、何か願い事を書いて、外の笹につけてくださいとのことだった。言われてみれば確かにいまは七夕間近で、そういう粋な計らいをしているようだったのだ。


 店を出て、さっそくどんなことが書かれているのかと見てみた。確かに創作和食っぽい店の入り口の前には、たくさんの笹があって暖色の間接照明で彩られていた。
 最初に見た短冊には、


 やきゅうせんしゅになりたいです。


 と書かれていた。つたない、子供特有の字で名前も全部ひらがなで。その短冊を見ながら、そういうことを何の躊躇もなく書くことができるのってやっぱりとても幸福なことなのだろうなと思う。そして、他のやつを見てみる。


 お金持ちでかっこいい人が現れますように。
 お金持ちの男の人と知り合えますように。
 素敵でお金をもっている人と出会えますように。


 日本の不況はついにここまで……というわけではないのだけれど、今度はちゃんとした大人の字でそんな内容が書かれている短冊が目に入った。しかも、そんな短冊は何枚もあった。
 そんな男はほとんどいないだろうとか思いながら他の短冊に目を移す。


 もちろん、古風ないかにも短冊っぽいやつもちゃんとあった。「健康でいられますように」とか、「毎日幸せに生きていくことに感謝しています」というようなやつ。そういうのを見ていると日本的なわびさびな情緒もまだ捨てたものじゃないなとか思ったりする。
 けれども、それほど数はなかったそれらの短冊の中で、一番印象に残ったのは次のものだった。
 本当に、なんだかびっくりした。
 その短冊にはこう書かれていたのだ。


 やまだでんきになりたいです。


 ええーっ、と思わず声を上げてしまうくらい驚いた。やまだでんきになりたいって、いったいそれはどういう意味なのだろう? 本当に一瞬唖然として考えてしまった。
 もちろん、いろんな解釈がなりたつ。その子(字は子供のものだった)にとってヤマダ電機(株式コード9831)はゲームソフトやテレビやデジタルカメラなどを扱っている何でもある最高に憧れの場所で、その思いが募ってそんなふうに書いてしまったのだとかそういうやつ。でも、その言葉に圧倒的なインパクトがあって、なんだか妙にツボにはまってしまった。


 やまだでんきになりたいです。


 親はたぶん微苦笑しながら、子供が短冊をつけるのを見ていたのだろうなと思う。そしてそのことは格好のネタになって、数年後親戚たちの間で、「○○君は子供の頃やまだでんきになりたかったんだよね」とか言われるのだ。


 そういうのって、ささやかな幸せと言えば幸せな気がする。


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 お知らせ

 Crystal Kayのアルバム『CK5』を買いました。すごくいいですね、これ。


2004年07月03日(土) Life rhythm

 昨日は仕事帰りに4人でご飯を食べに行った。
 以前に別のメンバーと行った豆腐料理がメインの、今風の内装の趣味のよい店だ。
 掘り炬燵風の個室のようなところに座り、豆腐料理やゆば、そしてしそ入りの肉巻きなどを食べた。他にも温泉卵をつけて食べるつくねもおいしくて、女の子が言った「美味しいものを食べてると幸せですよね」というのは確かにそうだよなと思う。
 他愛のない、いろいろな話をしていたのだけれど、まだ一緒に働くようになって一月半ほどということもあって、話の内容もなんだか新鮮だった。いつもと同じメンバーで気心の知れた話をするのももちろん楽しいことだけれど、まだそれほど深く付き合っているわけでもないメンバーたちと話すのもそれはそれでやっぱり楽しい。
 21時くらいにご飯を食べ始めて、気がついたら0時15分くらいになっていたので、やっぱり結構いろいろと話したのだと思う。いま勤務している店はその前にいた場所より1時間閉店時間が早いので、その分自分の時間が1時間増えている。それは個人的な感覚としては、1時間以上の価値があるように思えることだ。毎日、仕事が終わって22時過ぎというのが21時過ぎになるだけで、疲労度が随分と少なくなり、何かをやるための時間だとか、そういったものが随分とあるように錯覚してしまうのだ。そして、そういう幸福な錯覚ならばいくらでもと思う。

 ただ、その分というか、最近は意識して生活を朝方にずらしてきている。まだ完全にできているわけではないけれど(それこそ昨日みたいに誰かとご飯を食べに行ったりするとなかなか難しい)、それでも朝方の生活をしたいなと思っている。朝の方が何をやるにもはかどるような気がするのだ。なんとなく、だけれど。
 ということで、部屋に帰ってくる時間が1時間短くなるというのは、以前と比べて1時間早く眠ることができるわけで、その分1時間早く起きやすくなる。もちろん朝は睡魔と戦うのが辛く感じられるときもあるけれど、それでもまあ日々頑張って睡魔ともんどりうって格闘しながら、早朝に部屋の近くを歩いたりすることもあって、そういうのは気持ちのよいことだよなと思ったりしている。
 いまならば、早朝に車の運転のリハビリ(というか練習)を兼ねて、ちょっとしたドライブに行くこともいいかもしれないとも思う。
 いずれにしても、少しずつではあるけれど、20代続けてきた夜型の生活を、改めようとしているのだ。
 もしかするとDaysも、今後は朝に前日のことを書くようになったりするかもしれない(ならないかな?)。


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 お知らせ

 でも朝早く活動し始めることは、確かに気持ちがいいよなとは思うのです。


2004年07月01日(木) 『原則中心リーダーシップ』+久しぶりの運転

 この1週間は結構忙しく、店での業務の合間に2泊の出張などもあって、慌しく過ごしていた。そして、その出張の移動時間(新幹線と飛行機の中)で以前から少しずつ読み進めていた『原則中心リーダーシップ』を読み終える(スティーブン・R・コヴィー著。キングベアー出版)。
 これは『7つの習慣』の著者が、その本の中で述べていた原則中心の姿勢やあり方を、リーダーシップと関連付けて説明しているものだ。前著が概略の説明的なものだとしたら、ビジネス(あるいはリーダーシップ、組織論的)応用編という感じ。個人的に『7つの習慣』が結構好きなので手にとっていたのだ。
 語られていることは、『7つの習慣』とほとんど変わらない。もちろん、原則中心のアプローチ自体が変わるはずはないのでそれはまあわかってはいたことなのだけれど、インサイド・アウトやWin-Winの法則など、前著で語られていた単語が頻出してくる。別段難しい内容ではないのだけれど、前著を読んでおくと当然のことながらより理解が深まるだろう。
 この本で書かれている内容を説明するには、いくつかの部分を抜粋した方がいいと思うので下記に引用。


 農場で「詰め込み」が通用するだろうか? 春に種蒔きを忘れ、夏は遊んで過ごし秋になってから必死に作業して収穫を得ようとする。そんなことが通るわけがない。農場は自然のシステムの下にあるからだ。きちんと対価を払って、決められた手順を踏まなければならない。蒔いたものしか収穫できないのだ。そこに近道はない。(75ページ)


 そして地図をコンパスに持ち替え、経営者自身や社員が、正しい原則や自然の法則を指し示すコンパスを使って歩むようになるべきだと思う。なぜなら、不正確な地図を持っていると道に迷ってしまうからである。そのような地図を持ったまま、もし誰かに「もっと一生懸命やれ」と言われたら、あなたはもっと早く迷ってしまうだけだ。もし「もっと前向きになれ」と言われたら、今度は迷っていることさえ気にしなくなるだろう。これは勤勉さや態度の問題ではない。不正確な地図にすべての問題の原因があるのだ。あなたのパラダイムや考え方のレベルが、あなたの持つ現実世界の地図にあらわれているのだ。(……)地図(価値観)によるマネジメントからコンパス(自然の法則)によるリーダーシップに変えていかなければ、こうした問題は解決しない。(142ページ)


 豊かさマインドとは「この世界には、私の夢をかなえるのに十分なだけの天然資源、ヒューマン・リソースがある」、そして、「誰かの成功によって私の分が減ることはない。同様に私の成功が必ずしも他人の失敗を意味するわけではない」という骨身に滲みこんだ信念である。(……)
 もし人生をゼロサム・ゲームと見るなら、誰かの勝利は自分の負けになるわけだから、物事を競争や対立の観点で考えるようになる。(……)豊かさマインドを持つ人は、交渉においてはWin-Winの原則を採用し、コミュニケーションにおいては理解してから理解されるという原則を用いる。こうした人は、積極的な意味でも消極的な意味でも、他人を負かしたり勝ったりすることや、他人と自分を比べることで満足を得ることはない。(……)
 豊かさマインドは心の安定から生まれるものであり、人の評価、比較、意見、あるいは財産や交友関係から得られるものではない。心の安定をそうしたものから得ている人は、それらに依存するようになる。彼らの人生は、安定の源に起こることに影響を受ける。(……)原則中心になればばるほど、私たちは豊かさマインドを発達させ、力、利益、評価を共有することに喜びを感じ、他人の成功や幸福、達成や評価、幸運を心から祝福することができるようになる。そして他人の成功は自分から何かを奪うのではなく、自分の人生にプラスになると思えるようになるのである。(226-228ページ)


 マネジメントとリーダーシップの違いは何か? マネジメントは眼鏡をかけて仕事を遂行するが、リーダーシップは眼鏡のレンズを調べて言う。「これは正しい考え方だろうか?」。マネジメントはシステム内部でシステムを動かすが、リーダーシップはシステムそのものを扱う。リーダーシップは方向性、ビジョン、目的、原則、目標、社員教育、企業文化の育成、信頼口座の開設、社員の成長などの分野を担当し、マネジメントは管理、ロジスティクス、効率性を扱う。リーダーシップは目標を管理し、マネジメントは結果を管理する。(383ページ)


 主体的な人ならば、組織のさまざまな状況下で、他者の意見を総合し、経験をとおして自ら意識的に視野を広げることができる。想像力を発揮して、自分自身に問いかけるのだ。「組織にとって一番大切なものは何だろう?」「どんな貢献ができるのだろう?」「私たちが行っていることの意味は?」「私たちの役目は?」「私たちはどうなりたいのか?」「私たちは何を達成したいのか?」真剣に検討することによって、広い視野で物事を考えるようになる。自分の一番よい部分を探求し、組織のすばらしい点を考えることで、本当の相乗効果が生まれてくる。相乗効果とは、違いを尊び、相違点に価値を見いだすことによって、最善の解決方法を生み出すプロセスである。(439ページ)


 というような感じだ。500ページ弱の本の中に、上記に書かれているような内容が繰り返し語られているのだ。『7つの習慣』を読んでその原則中心のアプローチ(これが難しい……)を実践できているのなら、本書に書かれているような説明は必要ないのかもしれないとも思う。けれども、原則中心のアプローチは農場の法則のような自然の法則にしたがっているため、読めば読むほど順序に従って、少しずつでも着実に実践していくしかないのだということがわかるようになっており、そういうことを認識する意味でもこの分量は効果的なのかもしれないとは思う。


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 今日は納車の日だった。午前中にディーラーの営業の人が駐車場まで車を運んできてくれて、鍵の引渡しや簡単な操作の方法の説明を終えた。
 ようやく、という感じだ。発売以来の異常な納期(注文後4ヶ月など)ではなかったけれど、それでも1ヶ月と少しは待ったことになる。その分喜びもひとしおで、毎晩楽しみにしていたわけではないけれど、それでもそろそろだなとか、もう少しかなとは楽しみには思っていたので、やっぱり嬉しくは思えたりした。
 以前も書いたけれど、購入したのはトヨタのプリウスで、グレードはG。色はシルバーで、ナビつき。別にエコについて強いこだわりがあるわけではないのだけれど、エコでないよりはエコであるほうがいいような気がするし、燃費がよいことはいいことだし、それに何と言っても形や装備などが気に入ってしまったのだ。
 車には基本的には興味がほとんどないので、長く使うことになると思う。そんなふうに思っているので、やっぱり愛着がわいてくるのだ。愛着を抱きやすいような、丸みを帯びたデザインでもあるわけだし。

 分厚い説明書群(とても読みきれないような量があるのだ)のポイントと思われるところだけを斜め読みし、早速ドライブに出掛けてきた。ドライブ、と言っても隣の市にある一度見てみたいなと思っていた店を見に行くというだけのことなのだけれど。
 横浜に住んでいた3年間は車なしだったので、あまりにも久しぶりの運転に結構緊張しつつ、それでも身体が覚えているのか(?)、クラクションを鳴らされたり、どこかをぶつけることもなく隣の市までの30分ほどの運転を無事に終えることができた。各地の様々なショッピング・センターを見ることは好きなことのひとつなのだけれど、車があるとそれはぐんとやりやすくなる。たいていのショッピング・センターというものは、郊外に位置しているからだ。
 また、休日にのんびりと近くの山の公園に行くとか、電車の駅の近くではないところにも、これからは気楽に行くことができるようになるのだ。それもやっぱり、随分と楽しみなことだ。

 プリウス(Gグレード)は少し変わっていて、車に鍵穴というものがない。もちろん何もないというわけではなくて、電子キーみたいなものがあって、それを入れるへこみのようなものはある。ただし、必ずしもそこに入れなければならないというわけではなく、そのキーをポケットに入れていても、ブレーキを踏んでパソコンの電源ボタンのような丸いPOWERボタンを押すと始動するのだ。あとはパーキングブレーキをはずし、ブレーキを踏み止めると、運転を始めることができる。それは結構便利な感じだ。また、シフトをRに入れるとナビの画面に車の後ろの映像が映し出され、駐車が楽にできるようにもなっているのも運転にあまり慣れていない身にはとても便利だ(さらに使ってはいないけれどパーキングアシスト機能もついている)。

 正直な話まだまだ3時間くらいしか乗っていないし、全然使いこなせてはいないのだけれど、これから少しずつでも使いこなし、乗りこなせるようになっていきたいなと思う。


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 夕方17時から歯医者の予約があったので、それに間に合うようにドライブを終わらせて部屋に戻ってきた。そして、歩いて10分ほどの歯医者まではとりあえず歩いて出掛けてきた。ちょうど外が涼しかったことと、どんなに近くに行くのにも車というふうにはしたくないなとなんとなく思ったからだ。
 結構(というかかなり)年配の歯科医がやっているその歯医者に行くと、いつも80年代のイメージを抱く。壁のポスターや機材なんかが、随分と年季の入ったものになっているためだ。今日も10分ほどで治療を終える。外に出ると、やっぱり気持ちのよい風が吹いていたので、そのまま散歩がてら近くのスーパーマーケットまで歩くことにする。空は当然まだ明るくて、それでも夕方特有の太陽の光に若干オレンジが混じり始めたような雰囲気があった。
 住宅地の中に唐突に現れるいくつかの田んぼでは、数週間前まではただの泥水だった場所を一面の苗が覆い、それが時折吹く微かな風に揺れていた。アメンボやら名前のわからない虫やらが水面を不可思議な動きで滑るように移動していく。その脇の歩道では中学生が連れ立って帰っていて、入り口を開け放した古い民家の前で、年配の主婦同士が笑いあっている。
 本当にのんびりとした平日の夕方という感じだった。
 一人暮らしで、普段は朝から夜まで仕事場にいると、どうしてもそういった日常感覚のようなものを薄く感じてしまいがちだ。けれども、そういう感覚を忘れてしまったら店での仕事は本当の意味ではできないんだよなということを改めて考える。店が職場なのでその場所を中心に考えてしまいがちなのだけれど、当たり前のことながらお客様にとって店は日常の中のわずかな時間訪れるだけの場所で、それぞれのお客様にはものすごく長い日常というものが存在しているのだ。そう考えたら、その場所をどんな場所にするべきなのかということを、もっと考えなくてはとも思う。

 さらに歩いていたら、田んぼのところに4人の小学生くらいの男女がいて、道路脇に横たわったりしゃがんだりして田んぼの中をかき混ぜていたりしていた。いまの子供もそういう遊びはしているんだな……と穏やかな気持ちになって通り過ぎようとしたら、なんと4人のうち1人がしゃがんでゲームボーイアドバンスをやっていた。4人ひとかたまりというような感じの場所にいても、自分だけ違うことをしていても不思議には思わないのか……なんだか、その田んぼと4人組と、ゲームボーイとが、妙に生々しく見えてしまった。この間読んだ雑誌に、いま子供が幼稚園で絵を書くと、腕や脚がない胴体だけの人間を描く子供がいるというものが載っていたけれど、なんとなく考えさせられる光景だった。
 そのゲームボーイをやっている子供も、画面を見ながら他の3人とは言葉を交わしていて、そういうのが当たり前であるようではあったのだけれど。

 スーパーでは牛乳とかりんごとか、いろいろと買う。そして、袋2つに詰めて外に出てから、「なんで車で来なかったんだろう……!」と思う。車がないときにスーパーに行って重い荷物を持つたびに、車があれば便利なのにと思っていたのだ。それなのに、車が来た初日に散歩がてらスーパーにきて、両手一杯に物を買ってしまうなんて……と自分のうっかり加減に自分で呆れて、やれやれと思いながら(でもまあいいやとも思いながら)部屋まで歩いた。


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 お知らせ

 ドライブ用の音楽は、Stacie OrricoとThe Corrsでした。


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