Sun Set Days
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2004年03月29日(月) 春の散歩

 今日は休日で、午後から桜を見るためにバスに乗って出かけてきた。
 行き先は三渓園。本牧の近くにある観光名所でもある庭園だ。
 園内の桜はまだ満開には程遠かったのだけれど、遊歩道にはたくさんの見物客がいた。散歩と花見を一緒にできればと思っていたので、のんびりと園内を歩いていた。途中、デジタルカメラでいくつかの風景や桜の写真を撮る。すれ違うたくさんの人が一眼レフやデジタルカメラを持っていて、桜は特に写真に残しておきたい感情がつよくなるのだろうかと思う。すぐに散ってしまうはかない印象が強くて、ついつい保存しておきたい気持ちが先にたつのだろうか?

 また、園内には思いがけず陰影に富んだ風景もたくさんあって、日差しを浴びた華やかな場所との対比はメリハリがきいていた。特に、展望台近くの竹がひしゃげてアーチのように頭上を覆っている遊歩道は魅力的で、湿っぽい陰影に溢れていた。その場所では道行く人がいなくなるまで待って、それから何枚か写真をとった。他にも、木々が鬱蒼と茂っていたり、小川が流れていたり、昼間で明るくてもぐっと冷え込んで感じられるような場所が多かった。また、臨春閣や白川郷から移築してきた合掌造の屋敷など、園内にある建造物も珍しいもので、当然のことながら漢字ばかりの建物の名前を見ながら、和の雰囲気を久しぶりに強く感じていた。

 音楽を聴きながら、たっぷりと2時間以上園内を歩いていた。次の休日にはもう予定が入っているので、さらに次の休日になったら桜が散っているだろうなと思って今日出かけてきたのだけれど、久しぶりにのんびりとした気持ちを抱くことができたのでよかったなと思う。
 三渓園を出て携帯電話を確認したら後輩から着信が入っていて(音楽を聴いていたので気がつかなかったのだ)、電話をかけると一緒にご飯を食べに行くことになる。車で迎えに来てもらって、買う物があるという後輩につきあってまずは大きなホームセンターで買い物をする(僕もコピー用紙とインクリボンを買った)。それから焼肉を食べに行った。昨晩のラーメンといい、今日の焼肉といい、定番だよなあと自分のことながら思う。


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 お知らせ

 桜を見ると、色というのはとても重要なものなのだろうなと思います。


2004年03月28日(日) 県民性

 いまは29日の午前3時少し過ぎ。日曜日で6連続出勤が終了して、月曜日は休日。ということで、随分と夜更かしをしてしまっている。
 昨晩は22時30分過ぎに仕事を終えてから、後輩たちと4人でラーメンを食べに行ってきた。
 みんなお腹が減っていて、何か食べようという話になって、それで一人がラーメンを食べたいと言ったのだ。
 今日は京都ラーメンの店で食べた。京都ラーメン? という感じではあるのだけれど、若い人が好きそうなインテリアの天井の高い店だった。一風堂の成功の影響なのか、最近は内装に凝った店が増えていて流れのようなものを感じてしまう。個人的にはツボにはまる味ではなかったのだけれど、それでもやっぱりラーメンは好きだよなとあらためて思う。札幌生まれなので、どうしたってそれは仕方がないことなのだろう。身体が欲しているようなところがきっとあるのだと、都合よく思う。

 この間休憩のときに後輩の一人が各都道府県出身者の性格なんかが書かれた本を読んだと話していた。それによると、もうこれはベタなのだけれど、北海道出身者は「おおらかでのんき」なのだそうだ。
 またか、と思う。
 北海道出身者の性格の話になると、避けて通ることができないのがこの「おおらかでのんき」だ。酪農風の草原を背景に、青空と白い雲のもとでカールおじさんのように笑顔で笑っているステレオタイプなイメージのようなものが、結構多くの人のなかに刻み込まれているのだ。あとは吾郎さん(@田中邦衛)の強烈過ぎる言動だとか。
 でももちろん北海道は広いし、様々な人たちがいる。確かにおおらかでのんきな人はたくさんいると思う。けれどもそれと同じようにせっかちな人もいるだろうし、短気な人も、鬼姑のように細かな人もいるのだ。けれども何事も大まかにざっくりと捉えることは便利なことであるから、この「おおらかでのんき」説は県民性の話の中では重要なことなのだろうとは思う。ある程度何かの縛りの中に、枠の中に入れ込んであげないと、県民性の本なんて作ることができないだろうし。

 それにしても、と思う。自分のことを振り返ってみても、はたして「おおらかでのんき」と言えるのだろうか?
 とりあえずあんまり怒るほうではないけれど、それはおおらかさとはイコールではないだろうし……
どうなのだろう?


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 お知らせ

 おやすみなさい。


2004年03月27日(土) 『24 ――2nd Season――』

 昨年暮れに今度テレビでも放映する『24』のDVDを見たのだけれど、昨日今日とレンタルショップで借りてきた2ndシーズンの1巻と2巻を借りてきて見た。それぞれ0時頃から見るので、2話を見終わると大体午前1時30分くらいになってしまう。けれども続きが気になってどんどん見たくなってしまうのでついつい睡眠不足になってしまう。3巻以降は4月にならないとレンタル開始しないので、それまではとりあえず少しは眠ることができるかなと思ったりもする。

 この『24』シリーズは、ある1日を描いたもので、全24話、1話が1時間のストーリーとなっている。リアルタイムで様々なエピソードが同時に進行しており、たとえばAのエピソードであと20分後に合流しようという話が出ると、実際に20分経ったときに再度そのエピソードがはじまるといった具合だ。このリアルタイムに事件が(同時)進行中というのはかなり緊迫感のある状況で、映画やドラマだとどうしても引き伸ばしたりはしょったりといったところがあったので、これはかなり意欲的だし魅力的な試みとなっていると思う。

 そう、アイデアとして魅力的なことを、実際に緻密な演出とストーリーとで実現しているところにこのシリーズの妙がある。その同時進行であるところをわかりやすく伝えるために画面分割の手法が用いられたり、リアルタイムであることを伝えるために随所でいま何時なのかというテロップを挿入している。そういった試みが全体として実験的な印象を植え付け、複雑さを印象付けているのだ。

 今回の2ndシーズンは、1stシーズンの大統領暗殺計画から、LAに落とされる核爆弾を防ぐと一気にスケールが何倍にもアップしている。しかし、相変わらず行動の人であるジャック・バウアーは難事に次ぐ難事に果敢に飛び込んでいっているのだ。
 また、2ndシーズンというだけあって、前作の登場人物も多数登場し、既知の人物が出てくることに懐かしさと面白さを感じたりする。実際は顔見せ程度で今回の事件にはほとんどかぶらないような人も少なくないのだけれど、顔が登場するだけでなごむような人物もいるのだ。

 今回も全24話。とても楽しみだ。


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 お知らせ

 未見の方はまず1stシーズンからどうぞ。

 http://www.so-net.ne.jp/24/#


2004年03月25日(木) 家電

 今日は久しぶりに20時過ぎに上がることができて、閉店間際のヨドバシカメラに行ってきた。あと数ヶ月で転勤ということもあって最近は買い物を控えているのだけれど(新しい部屋が決まらないことには考えられないし)、それでもいくつかの物を見ておきたかったのだ。同じタイミングであがった後輩と一緒にいたのだけれど、久しぶりにヨドバシカメラに来たという後輩は、家電商品の変化の早さにあらためて驚いていた。その後輩は先月散々迷ったあげくにノートパソコンを買っていたのだけれど、デスクトップにすればよかったといまさらながらに話していた(だから言ったのに……)。

 個人的には洗濯機を熱心に見ていた。次に引っ越すときには洗濯機を買おうと思っているのだ。いま使っている洗濯機は大学に入学するときに購入したもので、もう10年間以上使っていることになる。ただ、本当に長くもっているのだけれど、いま住んでいるマンション(3階建ての2階。家賃8万5千円)はなんと屋外洗濯機置き場なので、この1年と少しでかなりガタがきてしまっているのだ。

 ということで洗濯機を買おうと思って売り場を見ていたのだ。
 しかも、最近の家電は本当にめったなことでは壊れないので、このタイミングで購入するのだったら長く使えるもののほうがいいよな……と思っていることもあって、いろいろと見ていた。乾燥機がついているドラム式の方がいいかなとか、何かと便利そうな全自動型の方がわかりやすくていいかなとか、結構いろいろと考えてしまう。特に生活パターンを考えると乾燥機つきはいいなと惹かれてしまう。

 他には、テレビを見ていた。とはいえ、僕は基本的にはテレビを見ないので、やっぱり必要ないかなと思いながら。
 ただ、最近の薄型テレビはきれいだし大きいし(値段も高いし)で、ただただすごいと思ってしまう。こんな大きなテレビでDVDなんかを見たら映画館に行く回数とかが減ってくるのだろうなと思いつつ。

 久しぶりのヨドバシは楽しかった。物欲がどうしてもある身としては、いろいろと惹かれてしまったのだけれど。

 夕食は和幸でとんかつ。和幸って本当にどこにでもあって、いったい全国に何店舗あるのだろうと思う。


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 お知らせ

 今年のチャンピョンズ・リーグは、個人的にはポルトに頑張ってもらいたいのです。


2004年03月24日(水) 歯医者

 今日は会社帰りに4人でご飯を食べに行く。例のごとく、部屋に帰ってきたのは0時30分過ぎ。
 話の中で、歯医者の話になって、ひとりが子供の頃に本当に歯医者が嫌で、ドアにしがみついて離れなかったという話になった。そうしたら親に無理矢理足を引っ張られて、こいのぼりみたいになってましたよと言っていた。それが妙に面白くて、ツボにはまってしまった。こいのぼりみたいになっていたというのが、なんだか面白かったのだ。
 でも確かに、子供の頃はいまよりももっと歯医者が苦手だったし嫌いだったように思う。いつからそんなに苦手でもなくなったのかはわからないのだけれど、昔はあの音やにおいだけでもう倒れそうになっていた。絶対に歯医者になんか行きたくなかったし、あのきーっという音が何か不吉なことのように思えていた。けれども、いつの間にか、本当にいつの間にか大丈夫になっていたのだ。不思議なことに。
 あと、子供の頃に錠剤を飲むことができなかった話や、風邪をひいたときなどに飲まされたピンクの液体の薬が嫌だったという話などに派生していった。人によってはあの液体の薬が甘くて好きだったという人もいて、人それぞれだなと改めて思っていた。
 それにしても、同じ薬や病院でも、子供の頃はオーバーに考えていたのだなといまは思う。どうしてか、必要以上に影を長く感じてしまっていたのだ。
 理由はわからないのだけれど。
 


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 お知らせ

 最近はまた冷え込んでいるのです。


2004年03月22日(月) 冷たい雨の日

 今日の関東地方とはとても寒い一日だった。天気予報では雪とさえ言われていて、気がついていた時間には雪は降ってはいなかったけれど、かわりにとても激しい雨が降り続けていた。
 昨晩は23時過ぎに会社を出て、後輩と一緒にファミリーレストランでご飯を食べて、1時過ぎに部屋に帰ってきた。
 それからテレビでサッカーの試合(ボローニャ対ブレシア)を見て、持ち帰りの仕事をはじめた。別に夜にはじめなくてもいいのだけれど、ちょっとやりはじめたら終わらなくなってしまったのだ。それでせっかくなので朝会社に行って(午前6時過ぎに店の鍵を開ける)、その続きをした。午前9時から歯医者の予約をとってあったので、8時すぎに出勤していた店長らに「お疲れ様でした!」と言って会社を出る。
 そのときにはまだ小雨だった。空はかなり雨が降りそうな雲行きではあったけれど、ぽつぽつと降り出しているくらいだった。
 それでも手に持っていた傘をさして、てくてくと歩く。
 そうそう、今日は休日だったのだ。

 歯医者の前に着いたときには雨は少し激しいものになっていた。9時少し前に着いたら鍵が閉まっていたので入り口のところで雨宿りをしつつ雑誌を読みつつ開くのを待つ。しばらくすると、扉が開いて「お待たせしましたー。今度からインターホンを押してくれたらすぐに開けますよー」と言われる。ものすごくさわやかで説明をしっかりとしてくれる歯医者なのだ。治療自体はすぐに終わり、来週の予約を取った。

 歯医者をでると、雨はごく30分ほどの間にかなり激しいものとなっていた。
 傘をさして、部屋まで歩いていく。
 部屋に着いたのは10時過ぎだった。何度か書いているように、いま住んでいる街は古くからの商店街の近くなのだけれど、午前10時前後は商店街の店が開店の準備をしていたりして、日常のくらしの雰囲気が色濃く感じられる。
 自分の休日(世間的には平日)の午前中に、ようやく動き始めた街を歩いているのはなんだか懐かしいような不思議な気持ちになることだ。一人暮らしをしていると生活リズムがかなり融通の利くものになるので、なかなかそういった時間を垣間見ることがないのだ。けれども子供の頃なんかは母親と妹一緒にそういった時間帯に買い物に出掛けたりもしていた記憶もあるので、淡々としたけれどもたくさんの幸福な雑事をこなさなければならないはずの月曜日の午前中なんかは、どこかで懐かしさを感じさせるのだ。パートのおばさんと話していると、「よく毎日の献立を考えるのがもう面倒でねえ」とか話しているのだけれど、そういうのはきっと言葉だけではなく、その言葉を発しているときの表情も込みで捉えなくてはいけないことなのだろうなとも思う。そして表情も込みで考えると、もちろんそんなに悪いことには思えないのだ。

 幸福について考えるときに、ベースとなるのはささやかな幸福なのだろうなと思う。よく言われるたとえにあるように、毎日フランス料理を食べるというふうにはいかないはずなのだ。けれども、ささやかかつ栄養のある食事は毎日取るべきだし、幸福についてもきっと同じことが言えるのだと思う。毎日溢れんばかりの幸福が訪れるというのはちょっと現実的ではないけれど、毎日ささやかな滋養のあるような幸福が空気のようにそこにあるというのはそんなに現実離れしたことではないだろう。

 そして、たとえば家族と一緒に暮らしている人が、毎日の食事にちゃんと栄養が含まれていることをいちいちかみ締めながら食べたりはしないように、日々のささやかな幸福も普段はきっとそんなに意識されないはずだ。けれども、あらためて考えてみると、日々のなかに、日常の時間のなかに、ささやかな幸福はたくさんあるはずなのだ。そもそも、元気で日々を暮らせることだけでも言ってみればかなり幸福なことであると思うし。

 これは繰り返し何度もときどき思うことなのだけれど、ともすれば慌しい時間の流れ方の中で、そういったささやかな幸福についてちゃんと気がつけなくなるときというのは結構あって、折をみてそういうものをちゃんと忘れないようにしようと思う。そのためにたとえばこうやって文章にしているのだし、自分の暮らし方とか好きなことだとかをちゃんと意識することが大切なのだと思う。それはスローライフだとかそんなたいそうな名前のつくことでもなくて、ただちょっとだけ何かに周波数を合わせるだけのことだ。
 ちょっとだけ、何かに。


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 そして、部屋に帰ってきてから、少し音楽を聴いたりして、11時過ぎに眠った。ほぼ徹夜は久しぶりで、これから眠ったら休日が潰れてしまうなあと思いつつ、けれども眠気の波には打ち勝てずに眠った。途中14時に一度目が覚めて、そのときにはものすごい雨が降っていた。明日以降のことを考えたら無理矢理そこで起きて夜にちゃんと眠った方がいいのはわかっていたのだけれど、そのままもう一度眠った。
 17時30分過ぎに起きたときにも、雨はまだ降り続いていた。
 部屋の中が随分と冷え込んでいて、すぐにファンヒーターをつける。最近は暖かくなったり寒くなったりの繰り返しで、ちょっと前に開花宣言が出た桜はきっと混乱してしまってることだろう。

 明日から6連続出勤なので、頑張ろう。


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 お知らせ

 出歩くたびに、iPodを買ってよかったと思うのです。


2004年03月20日(土) 雨のグラウンド

 今日の関東地方はとても寒くて、まるで冬が戻ってきたかのような一日だった。朝方の出勤時には、細かな雨さえ降っていた。僕は傘をさして、音楽を聴きながらてくてくと歩いていた。まずは最初住宅街の路地を歩いていき、途中で小学校のグラウンドの横を通る。土日には野球少年団くらいしかいない小さなグラウンドだ。今日は雨が降っていたせいなのか、練習が休みなのか、それとも試合にでも行っているのか、グラウンドには子供たちの姿はなかった。ただ、地面が雨に暗く染まって、一様に濡れていた。

 かつて、自分も小学校に通っていたのだと思うと、なんだか不思議な気がする。いつも同じ場所に登校して、同じ友人たちと話をして、遊んだり勉強をしていたなんてまったく信じられない。毎日毎日顔を突き合わせていて、それでも話すことは尽きずにあったのだ。一日一日に楽しいことと、嫌なことと、やらなくてはいけないことがたくさんあったのだ。

 まったく、不思議だと思う。僕は別に学校が嫌いな子供ではなかったけれど、いま振り返ってみると、よく毎日ちゃんと通っていたなとあらためて思う。
 当時は何の疑問も抱かずに登校していたのだ。
 いまからまた通えと言われたら、一瞬躊躇してしまうかもしれない。


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 お知らせ

 それでも遠足のこととか、写生会のこととか、ちょっとした授業のこととか、思い返してみると思いがけずたくさんのことを覚えていたりするのです。
 それだけ濃密な時期だったということなのでしょうか?


2004年03月18日(木) Various vehicles

 子供の頃、一人で乗り物に乗ることはとても大変なことのように思えていた。
 一人でお金を払って、一人でちゃんと改札口を抜けて、一人でちゃんと目的の駅で降りる。
 そんな当たり前の、いまでは何も考えていなくてもできてしまうようなことが、小さな頃には途方もない難事業のように思えたのだ。だからちゃんと頭の中でシミュレーションをして、どうするべきなのかを反芻して、ドキドキしながら決行した。いま思うと本当に不思議だけれど、見る高さによって同じ行動でも違ったように見えることはきっとあるのだ。

 電車、バス、地下鉄、あるいはタクシー。それぞれの乗り物にはじめて一人で乗ったときの記憶は曖昧なのだけれど、一つだけ覚えていることがある。
 それは小学校低学年の頃に、学区内のぎりぎりのところに住んでいる友人の誕生会に参加するために、一人でバスに乗ったときのことだ。その日、僕は時間に余裕を持って小学校の近くの、線路沿いのバス停でバスを待っていた。冬の終わり頃で、アスファルトには溶けかけた雪がいびつにひしゃげていた。空は漁師が顔をしかめるような曇天で、身体の芯から冷え込んでしまうくらいに随分と寒かった。僕はつなぎを着込んでいて、手袋をしていて、ほっぺたは大きなさくらんぼを内側に隠しているみたいに赤くなっていた。
 やがて道路の先にバスの姿が見えて、それが近づいてきて、目の前でとまった。妙に間の抜けた間のあとで、プシューという音を立ててドアが開く。

 緊張のあまり、整理券を取るのを忘れてしまったのはそのときだった。気がついたときにはもう後の祭りだった。バスに乗ったことがなかったわけではないので整理券というものの存在はわかっていたのだけれど、慣れない一人でのバス乗車に緊張していて、すっかりそのことを忘れていたのだ。僕は呆然と電光掲示板に映し出された料金を見て、整理券がないときの金額を確かめる。子供は半額だったので、その金額を計算する。僕が乗ったバス停は始発の停留所からそれなりの距離があったらしく、整理券の番号は結構先に進んでいた。

 お金は当然のことながらそんなにたくさん持っていなかった。だから必死で電光掲示板を見つめていた。バス停を一つ過ぎる度に料金が上がるわけではなく、いくつ目かの停留所を超えると料金は一つ高いものとなった。そのうち、自分の所持金を超えてしまうのではないかと不安だった。整理券を取っていなかったから、整理券がなしのところの料金を払わなければならないと頑なに思っていたのだ。

 結局、そのときはバスの料金は所持金以内で納まった。そこでまたもう一つ問題が持ち上がった。280円とか、360円とかそういった金額だったのだけれど、手持ちのお金は300円とか、400円だったのだ。いまならもちろん両替をすることなんて蛇口をひねるみたいに何も考えずにできる。けれどもそのときはそれもまた大きな壁になっていたのだ。整理券の取り忘れ出すっかり意気消沈し、前後不覚に陥っていた小学生の僕は、ドキドキしながら、散々悩みながら、結局両替機を使わずに300円とか、400円とか、多目の料金を支払ってバスを降りた。両替機を使ったら、また何か大きなトラブルに巻き込まれるんじゃないかと思ってしまっていたのだ。

 ぎこちなくバスを降りて、遠ざかっていくバスの後姿をうらめしく見つめながら、僕は自分の財布の中からなくなってしまったお金のことを思った。それは小学生にとっては大金だった。バスくらい一人で乗れるよと思っていたのに、実際乗ることはできるのに、それでも整理券とか両替とか、そういうことについてはまだ全然未熟だったのだと思い知らされた。もっとちゃんとできたはずなのに。そう思いながらてくてくと冬の終わりの街を歩きながら、今度から絶対に整理券を取ろうと、両替だって絶対にやってやるんだと強く誓っていた。バスに乗っている間、心臓に悪いくらいどきどきしていた。そんな思いはもうたくさんだと思った。

 それから友人の家に行き、誕生日パーティーのごちそうを食べて、みんなでゲームをして、そんなトラブルなんて何もなかったかのような顔をして笑って楽しんだ。そしてあっという間に数時間が過ぎ、友人の家を出た。
 帰りは、バスには乗らなかった。行きのバス代の支払いで、帰りの分がなくなってしまっていたのだ。それで僕はバスで行くほどだった結構長い距離を、随分と長い時間をかけて歩いて帰った。どういう気持ちで歩いていたのかはよく覚えていない。ただ、随分と冷え込んでいたことだろうといまは思う。北海道の冬は寒く、凍てつく寒さは厳しくてときどき目をあけてはいられないほどだ。

 電車、バス、地下鉄、あるいはタクシー。それぞれの乗り物にはじめて一人で乗ったときの記憶は曖昧なのだけれど、それでもバスに乗り始めてすぐくらいのそのときのことはなぜか覚えている。
 子供の頃は、本当にいま考えると不思議でしょうがないようなことにたくさんの心配をしていた。世界はとても小さくて、それなのにその中にも未知のことは数え切れないほどあった。見上げると、未知のジャングルが覆いかぶさってくるんじゃないかと思えるくらいに多くのことを知らなかった。
 いまでは少しずつ、たくさんのことを覚えて、何食わぬ顔をして生活をしているけれど、ときどき根本的なところはその頃と変わっていないのではないかと思うこともある。いろいろなことのやり方を覚えてはいるけれど、それはただやり方を知っているだけで、素の部分はドキドキしていたあの頃のままなんじゃないかと思うのだ。やり方や常識は服や鎧のようなもので、そういうものを脱いだ素の部分は変わっていないのかもしれないなと。
 そう考えてみると、服を増やすことと、鎧の強度を高めることと同時に、素のからだを鍛えることも大切だよなと思う。双方をバランスよく強くして、ちゃんと成長はしているのだと思えるくらいにはなりたいなと思う。


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 お知らせ

 それから一年後くらいに、やっぱり一人でバスに乗っているときに、降りるべきではないバス停で降りるボタンを間違って押してしまい、誰も降りなくて、運転手が「降りる人いませんかー?」と繰り返し言うのを必死にやり過ごしていたこともありました。それも覚えています……


2004年03月16日(火) 郷愁

 今日は23時少し前に部屋に帰ってきて、ご飯を食べてから『ムーンライト・マイル』のDVDを見た。
 いまは午前1時10分過ぎで、さっき見終わったところ。
 これはタイトルに惹かれて(ローリング・ストーンズのマイナーな曲の題名とのことだ)、以前から気になっていた作品だ。物語は、結婚式の数日前に銃撃事件に巻き込まれて婚約者を失った青年が、深い悲しみに沈む婚約者の両親と一緒に暮らしていくというものだ。しかし、実は青年は婚約者が死ぬ3日間前に婚約を解消していた。けれども、二人の悲しみや怒りを考えると、それを言い出すことができないでいた。そして、同じような境遇にある一人の女性と出会って……というもの。
 物語は、静かに、悲しみをまとって続いていく。劇的な展開などはなく、ただゆっくりと少しずつひとつひとつの出来事がぶかっこうなパズルを埋めるように組み合わされていく。ダスティ・ホフマンとスーザン・サランドンという名優のリアリティ溢れる演技も手伝って、ある種のトーンを作ることに成功していたと思う。

 マサチューセッツ州の架空の小さな町を舞台にしているのだけれど、70年代という時代設定と、地方特有の郷愁を感じさせる風景が相まって、印象的な風景を作り出していた。時間がゆっくりと流れていたように見える時代と場所の感覚が思い出された。時間は等しく流れているはずなのに、その速度はときや場所によって随分と異なって感じられる。そしてこの物語は、人の優しさだとか常識だとか、まだそういうものが色濃く残っていたような時代の話だった。

 物語はゆっくりと進み、人によってはそれがもどかしく感じられるかもしれないけれど、妙に印象に残った。
 それは、胸の中にある郷愁のようなものを、やわらかく押されたように思えるせいかもしれないけれど。


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 お知らせ

 最近は少しずつレンタルDVDを借りて見ています。今月見たのは『ジェヴォーダンの獣』(うーん……)と『10日間で男を上手に振る方法』(かなり笑えた)です。


2004年03月15日(月) here and there

 今日は春を感じさせる陽気で、やけに長い歩道橋を渡っている間に吹きつけてくる風も、ずいぶんと暖かなものだった。
 その歩道橋はこげ茶色で、新興住宅地の初期の頃にできたと思われるショッピングセンターへと続くものだった。周囲には郊外特有のまっすぐで幅の広い道路がいくつも走り、駐車場が多く、その分空がやけに広く近く見えていた。
 これから散歩にはぴったりというような気持ちのよい日が増えてくると思うのだけれど、今日もそんな一日だったのだ。音楽を聴きながら、用事を済ますために訪れた郊外の新興住宅地の片隅を歩きながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

 今日は休日で、気がつくと結構長い距離を歩いていた。5月には転勤するので車を購入しようと思っているのだけれど、それまでは公共交通機関と徒歩が足になる。千葉に住んでいたときには車を持っていたのだけれど、そのときにはやっぱり車中心の日々になっていた。散歩はもちろん好きだったし、近くのコンビニに行くときなどにはもちろん徒歩だったけれど、それでも普段はやっぱり車に乗るようになってしまう。つまりは、歩く距離は確実に減ってしまうのだ。
 だからというわけではないけれど、最近は結構歩いている。バスに乗る距離を歩くとか、そういったことが多いのだけれど、それでも歩くことはいつもいつもそう思っているわけではないけれど、あらためて考えてみるとやっぱり気持ちがいいことだと思う。

 そして、歩くことについて考えるといつも思い出すのが、昔読んだ文章にあった「目的地へ向かうためではなく歩いたことが最近あったか」というような問いかけだ。そう言われてみると、結構歩いているつもりでも、なかなかないものだなと衝撃を受けたことがあった。
 だからときどき、いまでも自分に問いかけてみるのだ。

「目的地へ向かうためではなく、歩いたことが最近あっただろうか?」というように。

 これは個人的には心の健康を推し量るひとつのものさしのようなものになっている。つまり、「ない」と答えてしまうときには、個人的にはちょっとローなときで、元気で気持ちが充実しているときには「ある」とすぐに答えることができてしまうということだ。目的地のないような散歩というのは、日々の生活の中ではちょっとした余裕の中から生まれてくるとか、あるいはエクストラな部分に属している。そのため、そういうことについてすぐに「ある」と言うことができるというのは、ひとつの状態を表しているのだ。

 だから、僕は時々そういう質問を自分にしてみるし、もししていないという答えがでてくるときには、無理矢理に散歩に出かけてみるのだ。そうすると、視野が狭くなっていたり些細なことに拘っていたことに情けないよなあと気がつかされたりもしたりするのだ。いずれにしても、自分の状態を図るものさしを持っていて、それで認識できた状態についてあまりよくないものだったら、どうしたらそこを抜け出すことができるのかという方向性をわかっていること、そういったことが大切なことなのだと思う。

 また、そろそろ新入社員が入ってくる時期だけれど、よく社会人になったら心の健康を管理することがとても大切なことだと言われていて、そういった自分の気持ちの体温のようなものを測ることのできる基準を持っておくことは重要なことだと思う。


 久しぶりのDays更新。Daysの更新がない間は忙しく働いていたり、夜ご飯を食べに行ったり、働いていたり、飲みに行ったり、働いていたり、夜ご飯を食べに行ったりしていた。
 大体いつも食事に行くと、メンバーと0時過ぎ午前1時過ぎまで喋ってしまっていた。そして仕事が忙しい時期でもあったので、帰ってきてからそのまま眠るようにしていたのだ。また、休日も先輩のところへ遊びに行ったりしていたので、なんだかんだで結構慌しかった。ということで、今日は久しぶりに、用事を済ませて15時過ぎに帰ってきてから、ずっと予定がなくて部屋でのんびりすることができる日だった。
 忙しいような感じが続いていたので余裕はなかったかもしれないけれど、気持ち的には全然ローではなく、むしろやる気に溢れていたので個人的にはいい感じだった。ちょっと書いたように、上司の上司から5月に店長になることはほぼ確定だからそのつもりでいるようにと言われたこともあって、そういうのってやっぱり頑張ろうと思えるし。
 あとは、神奈川県を離れるので、いまのうちに見ておきたいところは回っておきたいなと考えてみたり。

 いずれにしても、少しだけ慌しくなりそうで、そういうのってやっぱり楽しみだよなと思う。


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 お知らせ

 最近ひさしぶりにユニコーンをよく聴いています。「自転車泥棒」とか「Maybe Blue」とか、「おかしな二人」とか懐かしいのです。


2004年03月02日(火) すき焼き

 今日は仕事が終わってから、5人ですき焼きの食べ放題の店に行ってきた。
 前から行きたいねと話していた店で、すき焼きの食べ放題なんて食べたことがなかったから、結構楽しみにしていた。
 肉は牛と豚を選ぶことができるコースにして、頼み放題。もちろん野菜も食べ放題だし、サラダバーもついている。最近は焼肉にしても食べ放題の店は結構様々な物を選び取ることができるけれど、今日の店もそうだった。
 一人だとすき焼きはしないので、久しぶりに食べるすき焼きは美味しかった。メンバーも同じだったらしく、過剰に注文をしてしまうほど。
 最後には5人ともがおなか一杯になりすぎて、言葉少なになっていた。


 今日も随分と寒かった。食べ放題の店の駐車場で後輩の車に乗り込むときにも、周囲の空気は随分と冷え込んでいた。
 しばらくはこの寒さが続くのだろうか?


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 お知らせ

 少し前に帰ってきました。いまは3日の1時30分です。


2004年03月01日(月) 冬の散歩

 今日の関東地方はとても寒くて、ここ数日の暖かさを吹き飛ばしてしまうような冷たい一日だった。朝方から断続的に降っていた雨も、昼過ぎにはみぞれのような雪に変わっていた。午後遅くに会社に寄ったときにも、寒い寒いと、いろいろな人が言っていた。

 今日は休日でちょっと用事があって出かけていた。何度か訪れたことのある駅から、初めて乗る電車に乗ってきた。窓からはたくさんの団地と(横浜は本当に団地が多い)、薄い緑と濃い茶色に沈む公園が見えていた。高架を走る電車の窓からはずっとみぞれが見えていて、やけに空間の広い空に、たくさんの雪はまるで冬が終わる前の最後の挨拶をしているみたいに見えた。

 用事が済んだ後(用事は思いのほか早くに終わってしまった)、せっかくだからと大きな公園を少し散歩した。もちろん結構(というか正直に言うとかなり)寒かったのだけれど、それでもてくてくと。小さな池があって、その水は壊れてしまった鏡の表面みたいに、随分と暗くくすんでいた。木々は寒さにうつむくように風にしなり、公園の横を走る道路の車は、スリップしないように慎重に速度を落としていた。

 肩からななめがけしているバックにデジタルカメラを入れていたので写真を撮ろうと思って取り出したら、なんとメモリースティックを入れ忘れていた。電源を入れて、「メモリースティックがありません」の文字が液晶ディスプレイに浮かぶ。あららと思った。関東で雪が降ることなんて珍しいのに。みぞれの中の人気のない閑散とした公園なんていい感じなのに。写真を撮ることができないなんて。
 でもまあいいかと、すぐに思い直す。あんまり執着心がないのももちろんちょっと考えものではあるのだけれど、それでもただの散歩をしていればいいだけのことだしと思ったのだ。

 そして、歩いているうちに調子が出てしまい、帰りは最初に降りた駅の隣の駅まで歩いた。

 隣の駅までの道は全然人気がなくて、なんだか間違った世界に出てしまったみたいだった。何もかも変わらないのに、ただ誰もいない世界。
 ちょうど歩きながら聴いていた柴咲コウの声も、そんな日常が少しだけずれてしまった世界にぴったりのような感じだったし。

 そして本当に誰ともすれ違わないまま隣の駅に着く。
 高架になっているので駅は歩道から階段をのぼっていかなければならないのだけれど、その階段の下にはたくさんの自転車が並んで停められていた。同じ方向に、ときどき倒れて停められているたくさんの自転車は、数時間もして夕方や夜になるとそのほとんどがなくなってしまう。そんなふうに思うと、飼い主を待っている忠実な犬みたいだとなんとなく思った。たとえば目を凝らしてみると、様々な種類の、主人を待っている犬がちゃんとおすわりをしているように見えないだろうか。
 変なことを考えてバカみたいだと思いながら、駅への階段を上る。ほとんど人気のない切符売り場で切符を購入して、自動改札機を抜ける。また階段を上って短いホームに出ると、僕のほかには2人しかいなかった。距離のわりに切符が高いけれど、それはやっぱり利用者が少ないからなのかもしれない。
 事故防止のためなのか、ホームはガラスの壁で覆われていた。電車がとまるところは自動ドアになっていて、電車が横付けされてはじめて扉が開く仕組みになっている。ゆりかもめや新しい地下鉄なんかでも使われているタイプのものだ。頭上の電光掲示板は電車がどの駅を出たのかを示していて、隣の駅を発車してこちらへ向かっていることがわかる。

 平日の午後1時少し過ぎ。
 窓の外はみぞれ。
 世界は広くて、いつだって斜めに傾いて少しだけ揺れている。
 そんなふうに錯覚してしまうには、ぴったりの月曜日の午後だった。


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 お知らせ

 サッカーアテネ五輪予選日本対バーレーンをずっとテレビで見ていました。
 残念……。


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