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書くほどのこともない日常
日記とか、更新とか。

2003年05月31日(土) 不動産屋に言えないこと。

人の都合を考えろ。

確かに明日は休みで、予定も特に無いし、家を欲しいと思ってもいるが、だからと言って、休日の総てを奪おうとするな。


こっちの要望を聞け。

土地を紹介してくれと言ってるのに、なんで建売住宅の資料ばっかり封筒に詰めとるのじゃ。


嘘をつくな。

「御希望の地域の土地は、御希望の坪数だと、○○○○万円くらいしますよー。だから、注文はやめて建売に……」
じゃあなにか、貴様の奨める新築物件の建物部分の価値は、差し引きすると、キッチンからリビング、風呂まで含めた4LDK二階建てが、合計でたったの200万円かい。
本当だとしたら、却って凄いけどな。


大事なことを隠すな。

来年、横浜市は、所有してる土地をかなり売りに出すらしいじゃないか。
そんなことひとことも言わず、「今すぐ買え、そら買え、やれ買え」って貴様ら……


質問には答えろ。

判らないことを「確認します」と言って放置するな。
「出来ないことは無いと思います」とか言わずに明確に答えろ。


時間を喰いつぶすな。

「いまひとつの物件」をたくさん見せたあと、最後に一押し物件を見せれば、そりゃー良く見えるだろうよ。
そういう手を使ってくる、というのも、実は知ってたよ。
だけど、二回目もそれをやって、挙句に、「最後に見せる一押し」が、前回の一押し物件と同じってなんだよ。


人の話を聞け。

絶対、聞いてないだろう。
全体的に受け答えが的外れ。


これを全部貫徹すると、商売が成り立たないんだろうなぁ。
……ずぶの素人には辛い戦いがつづく。



2003年05月27日(火) 「太陽と月に背いて」

ランボーと、ヴェルレーヌの愛と背徳の日々を描いた作品である。
主演は、美少年時代のレオナルド・ディカプリオ。
一番印象的だったのは、
以下、ネタバレ御免。
























禿で髭面のオッサンのヴェルレーヌが受で、十六歳の天才少年という設定のディカプリオ演じるランボーが攻か!!!



……いかん。つい、専門用語が出てしまった。

いや、もう、これが一番驚いた。
実は、ヴェルレーヌは映画中では二十七歳だったこと。
ヴェルレーヌのとんでもないDV男ぶり。
物凄く、綺麗に綺麗に撮られたディカプリオ。
その綺麗さをぶち壊し、コントラストを強調したかったのだろう、無作法な放尿シーン。
そして、芸術家ふたりの苦悩。

それらが、全部ぶっ飛んだ。

しかし、映画が進むにつれて、ヴェルレーヌが受であることに、違和感が無くなって行った。
なんせ、映画の中の、禿げたオッサンのヴェルレーヌは、めっちゃくちゃ、優柔不断なのである。
詩人として行き詰まり、資産家の、美しい妻も捨てられず、傍若無人で、生活力の無いランボーに傷つき、苦労させられつつも離れられない。

芸のためなら女房(ヴェルレーヌ)も泣かすそれがどうした文句があるか、と言う態度のランボーの方が男らしい。

さっき、馬鹿でかい字で書いてしまった、ヴェルレーヌが受、という衝撃シーンを、かなり早い段階で見てしまったので、後が間延びしてしまった感がある。

いや、そんなことを引きずる方がどうかしてるんじゃないかとも、思わないでもないのだが……

ヴェルレーヌが、ランボーの余りの無体に腹を立て、彼から去って行こうとするところが、もう少しドラマチックだったら、もうちょっと面白かったかもしれない。

「僕が悪かった!ひとりでは暮らせない!」

と号泣するディカプリオを、もうちょっと長めに見たかっただけ、とも言えるかもしれない。

……一応、芸術作品なんだろうから、こんな見方はどうかと思うのだが、でも、最初の衝撃のせいで、こんな見方しか出来ない。



2003年05月25日(日) 中華街→赤レンガ倉庫→ランドマークタワー

日曜なので、人が多かったが、楽しかった。

アリアを通じて知り合ったお友達と、悪企みをしつつ、雑談。
いやー、楽しかった。

しかし、アリアの友達って、どうしてみんな、こんなに個性的なのだろう。



2003年05月24日(土) あれから、もうすぐ一年。

ポルノグラフィティの「MUGEN」を聴きながら、なにげなく、

「これ聴くと、思うんだよね。毎年、日本でワールドカップやってくれないかって」

と、ランディに言ったら、大爆笑された。



2003年05月22日(木) 地味に祝う。

ランディの誕生日。
タイミングよく、ランディの仕事は休み。

いつの間にか、結局なにもせずに過ぎてしまった結婚記念日のお祝いも兼ねて、外食しようか、と言ったが、ランディが起きないので、ちょっといい肉が、いつもより安かったので、買ってきて焼肉にした。

借りてきたビデオで、「怪・赤面ゑびす」を観る。
わたしは面白かったと思ったのだが、ランディには不評。

「必殺仕事人じゃねーか」

まあ、確かにそれっぽくもあるな。


その後、「みんなのいえ」を観た。
「ラヂオの時間」のように、呼吸困難になるほど爆笑することは無かったが、面白かった。
端役にこっそり凄い大物を使っておいて、最後にネタばらしする、と、いうやつも、絶対やるだろうと予想はしていたが、やはり笑ってしまった。
古畑任三郎シリーズでもあった、男三人の三角関係、という三谷氏のお気に入りだと思われるシチュエイションもあって、なかなか楽しかった。



2003年05月20日(火) 「癒し」という言葉について、再考。

前々から、「癒し」という言葉は、「自分探し」や「勝ち組・負け組」と並ぶほど嫌いだった。
アリアも日記で取り上げるほど嫌いであるらしい
流石はつきあいの長い友だけある。
趣味も好みも生活環境も、離れてしまったが、そういう感覚を分かち合える友は、得難いものである。と、たまには素直に表明しておく。

何故嫌いなのか。
流行の言葉だからか。いや、もはや流行とは言えない。
この便利な言葉は、鬱陶しいことに、きっちり定着してしまった感がある。

足裏マッサージも、感動する本も、絵画鑑賞も、身体にいいものを食べることも、南の海に旅行することも、動物と戯れることも、植物を育てることも、子供と接することも、全部『癒し』のひとことで片付けられるんだから、そりゃー使い勝手がいいだろう。

だけど、本来、『癒し』とは、そんなにお気楽な軽い言葉だったのか?
そうじゃないだろ。
『癒し』という言葉には、だれかを『癒したい』でなく、『癒されたい』という受身の願望が見え隠れするから嫌いなのかもしれない。
「疲れてるの。辛いの。苦しいの。病んでるの」という時代の弱音の集大成なのか。
そう思うと、ますます嫌いになってきた。

『癒す』という能動的な使い方をする人が余りいないのも妙だ。
『癒し』を売り物にする側も、『癒しの空間を御提供いたします』だの、『癒しグッズを取り扱っております』『癒しの時間を過ごせます』だのという言い方をする。
絶対、どっかで、『癒し』というキーワードで儲けてる人たちも、自分達が使ってるその言葉の中身が空っぽだと自覚してるに違いない。
『癒す』というのは、そう簡単に出来ることでは無いと、皆、無意識に、知っているのだろう。
それはある意味当然のことだ。
病を『癒す』のも、心を『癒す』のも、そんなに簡単なものではなかったはずである。
医師たちは、太古の昔から、長い時間をかけて、人を『癒す』ために、様々な努力、研究を重ねて、今の医療を確立したのだろうし、古今東西の宗教家たちは、人の心を『癒す』ために、過酷な修行をするのだろう。

アリアは、『癒される』を『和む』と言い換えていた。
それも言い得て妙。ナイスな訳だ。

んでは、わたしも違う言葉で言い換えようか。
『愛する』『愛される』としておこう。
自分を愛する、動植物を愛する、芸術を愛する、人に愛される。
全部、心地よく、心身によさげではないか。

……いかん。
アリアじゃあるまいし、『愛』なんて言葉を連呼するのは性に合わん。
アリアならともかく、わたしが、そんな言葉を日常の会話で使ったら、一気に周囲が引いてしまう。
しんたさんには「疲れてませんか?」と心配され、作戦さんあたりには「おっとこまえのらるごさんはもういないのですね」と言われ、えむせぶんさんは、「わはははははははは」であろう。

では、もっとシンプルに、かつ、汎用性の高い言葉で。


『楽しむ』


うん。
わたしはこれで行こう。



2003年05月14日(水) ものは言い様。

アートというものは、凡人には判らないものだと思っていた。

が、美術系の大学に進んだアリアを通じて、この人とか、この人とかと知り合ったり、更に、この人を創作仲間に引き込んだり、必ずしも、判らないものではないのだ、というように考えるようになった。
少なくとも、アートする人たちは、少なくとも、偏屈ではあっても、偏狭ではなかった。
アートする人と知り合ったからといって、アートを判ったわけではないのかもしれないが、つまりは、ド素人が、的外れなことを言ったって、少なくとも、この人たちは、許してくれるだろう、とたかを括ったのであった。

べつにわたしは、アートで商売したいとか、評論家になりたいとかいうのでは無い。
せいぜいがところ、たまーに美術館やデパートの展覧会に足を運んだり、画集や絵葉書を買う程度。
お気楽に、自分の中で、ボキャブラ天国の如く「シブ知8.1」とか「バカパク6.7」とか採点して、後は


好きか、否か
かっこいいか、否か
凄いか、否か


というような直感で良し悪しを決めて良いのだ、と思うことにした。

で、その直感で、思った。

これはともかくとして、これは、全部の項目で「否」だ、と。

アートの価値観には、上記のようなものだけでなく、


新しいか、否か


というものあるようだが、これが新しいのは、ウェブサイトやプログラムというものが新しいからだと思う。
と、いうことで、


欲しいか、否か


も、否。
たとえ、数年後、数十年後に、こういうものが、アートの世界で一ジャンルを形成したとしても、ブラクラもどきや、ニュースサイトのHTMLをいじってテキストを消しただけのアートなんぞ、わたしは認めん。



2003年05月13日(火) 余分なもの、足りないもの。

アリアに良いと奨められたので、コントレックスなる水を買ってみた。
飲みにくいという話だったが、さほどでもなかった。
しかし、まあ、決して美味くはないので、冷たくして、起きぬけや、風呂上りに飲んでいる。
トイレが近くなり、足のだるさが無くなった気がする。
浮腫みが取れているのかもしれない。

風邪は治っているはずなのに、いつまでもいつまでもしつこく咳が出るのを心配して、ランディが、コンビニで亜鉛とヘム鉄のサプリメントを買ってきてくれた。
咳は相変わらずだが、寝つきと寝起きがよくなるに伴い、体調も良くなってきた。


コントレックス 1.5リットル198円(近所のスーパーにて。定価はもう少し高い模様)

亜鉛サプリメント 30粒(約二週間分) 350円

ヘム鉄サプリメント 60粒(約二週間分) 250円



……つくづく、安くつく体質だ。



2003年05月10日(土) 不動産屋初体験

ランディもわたしも、ぎりぎりまで行動を起こさないタイプであるのを心配して、ランディのお父さんが逢う度にケツに火を点けてくれる。
ので、とりあえず、渋るランディを引きずって、近所の不動産屋に行ってみた。
店頭の物件を見てると、おねーさんにお茶でもどうですか、と言われ、椅子に座ると、やたらと若いおにーさんが出てきて、手際よくアンケート用紙の欄を埋めて行った。
で、気がついたら、来週末に、物件を見に行くことになってしまった。

「……えーと……幾つか、案内して戴けるんですよね?」

と、我に返って尋ねてみたら、

「はい、御希望を満たす物件は、十件ほどになると思います」

……十件……これって普通か?
いや、不動産屋は、はじめてなんで普通どういうものなのか判らないのだが、おにーさん、気合入り過ぎじゃないか?

高い買い物するときの常として、同業者を何件か回り、競合させる方がいいと言うが、他もこの調子なのか?

……でかい買い物だから、じっくり長考すべきなんだろうけど、気が重くなってきた。



2003年05月05日(月) 顛末が気にかかる。

ランディと、久々に整体に行き、ドトールでジュースを飲み、晩飯に天麩羅なんぞ買った帰り道、ちょっと珍しいものを見た。

若い男女が言い争っている。

「なんで、いつもそうやって逃げるわけ!?」

と、痴話喧嘩の常套句を口にする女の子。

「逃げてねぇよ」

と、これまた、絶対、逃げてるんだろうな、と思わせるありがちな受け答えをする男の子。

昔、好きだったバービーボーイズの歌を思わせる会話である。

周囲は、その声のする方を見た後、礼儀正しく目を逸らし、耳だけダンボにしている。
わたしとランディも、それに倣って、彼らの前を通り過ぎようとした。

すると、いきなり、女の子が、壁に追い詰めた男の子の襟を掴んだ。
あーあー、Tシャツの襟んとこが伸びそう、とか思いつつ、横目で見ると、なぜか、男の子は、笑っている。
そういや、前にも地下鉄の中でサラリーマン同士の喧嘩を見たことがあるが、喧嘩を売られてる方は笑ってたな。
あれって、恐怖の余りなのか、取り繕おうとしてるのか、それとも、ドラゴン・ボールに出てくるサイヤ人キャラのように戦闘前にわくわくしてしまうのか、謎だ。
物凄く気にはかかったが、どう見ても痴話喧嘩だし……と思いつつ、通り過ぎた後、男の子の声が聞こえた。

「たすけてー」

もはや、女の子の詰る声は悲鳴と化して、言葉を聞き取れない。

「たすけてー」

男女が逆ならともかく、だれも助けないだろうなあ、と思いつつ、自分たちも、その場を後にしたのだが……

「だれかたすけてー」

……万が一、あれが恋人同士の痴話喧嘩じゃなかったんだとしたら、まずかったかなぁ?
まあ、あんな人の多いところで刃傷沙汰にはなるまい。


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