日記でもなく、手紙でもなく
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2002年08月31日(土) Sweet Coco


 大阪で少し時間が取れるように、昼前の特急で城崎を出る。
 城崎とその次の特急停車駅・豊岡の名物駅弁は蟹寿司。酢飯の上に、蟹を僅かにちらした弁当。920円という変に切りの悪い値段からすれば、この程度なのだろう。軽いスナック程度の量。

 大阪から垂水まで往復した後、梅田にあるラテン専門CD店<Sweet Coco>に寄る。この店に行くと、いつ行っても買いたいような盤が見つかってしまうという、なかなか懐の深い店の一つ。

 外資系輸入盤専門店に置かれている、中南米スペイン語圏の盤の種類と比べると少なく見積もっても5倍、特に比較的品揃えが充実している新宿ユニオンのラテン・フロアと比べても、この梅田の店のほうが2〜3倍程度は品揃えが多い。
 特に、東京の店ではあまり扱われないようなラテン・ポップスの品揃えは、恐らく日本では1、2を争うのではないかと思う。

 そんなことで、行けば必ず3〜4点ほどは欲しいものが見つかるし、最初にこの店へ行った時には、欲しいものを探すのに時間をかけるというよりも、どれを今回買わずに減らすか、ということにえらく悩んでしまったほどだ。
 店主の年季の入り方が違う。

 以前、バブル期の頃にこの店に行くと、昼でも夜でも、中南米からの日本出稼ぎ組の人々で、狭い店に客が溢れていたことを思い出す。さすがに最近はそういう人々を見かけることが少なくなったのだが。


2002年08月30日(金) 朝の陽射しも強烈な和歌山

 和歌山の陽射しは強烈だ。朝9時くらいの陽射しでも、容赦がない。
 日向を歩いていると5分くらいでくらくらしそうだ。3年ほど前に、勝浦へ行った時のことを思い出してしまう。あそこも暑かった。
 ただ、和歌山市のほうが、もう少し北にあるし、大阪からさほど離れていないので、さほどでもないかと思っていたが、これはハズレ。

 近代美術館へ行くバスの中から和歌山城が見える。再建されたものだが、お堀には水があるし、道路から見る限り天守閣の最上階はかなり高いところに見える。
 なかなか手入れも行き届いている感じがして、この前見たばかりの名古屋城よりも小ぶりながら、街とのバランスがとれ、美しい天守閣という感じもする。

 企画展を見て和歌山駅に戻ると、12時前に新大阪へ着ける特急に十分間に合う時間。
 Uさんに電話をして、落ち合う時刻を20分ほど繰り上げてもらう。

 ヒルトン・プラザで約2年ぶりの再会。
 今年福岡へ行った折、同級生のOさんに会ったという話を、以前から電話でしていたので、そこの地下の和食の店を出た折、Oさんに電話をしてみようかということになった。

 ちょうど、Oさんがすぐ出てきたので、「今、あなたの知っている人と食事をしたので、電話を代わります」と。「ええっ?」
 Uさんが電話の後、相変わらずあの人は元気だと感心していた。

 Oさんが大阪へ出るようなときには(年に2度くらいあるので)、必ず電話をしてもらい、3人で会おうということにする。

  ***

 午後3時過ぎの特急で、城崎へ向かう。
 指定をとる時、喫煙席はないので、というので諦めていたが、実は自由席の一輌が喫煙席になっているので、そちらのほうに席を取る。4人分の席を一人で使う。
 
 ちょうど午後6時に旅館に入る。
 食事は6時か6時30分か、どちらか。30分に部屋の電話で、食事の用意ができたという知らせ。
 ちょっぴりながら、蟹が出てくる。やはりリクエストが多いのだろうか。

 食事の後、エアコンを効かせた部屋でごろんとしていたら、少し眠気を催してくる。8時過ぎから、外湯へ向かう。

 城崎はもう少し涼しいかと思ったが、蒸し暑い。
 温泉に入って戻ると、一層暑くなってしまう。


2002年08月29日(木) 和歌山へ


 休みだが、8時には起きて、旅行の準備をする。
 朝から良く晴れ上がり、ぐんぐん温度が上がっている。まだまだ秋には遠い感じだ。

 12時に恵比寿で知人と待ち合わせをして、半年ぶりに食事でもしようということにしていた。
 東京駅に荷物を置いてから、恵比寿に行こうかと思っていたものの、時間的に間に合わず、新宿駅南口に近いところのコインロッカーに荷物を入れる。

 恵比寿に着いたのは3分前頃。
 既に改札を出たところで、私を待っている姿が見えた。

 そのまま広尾のヴィア・アクア・サンタまで行く。
 ひょっとして、パーティが入っているとアウトなので、という話をしながら店の前まで来ると、入口にはランチメニューが掲出されていた。大丈夫らしい。

 店に入ると先客は2組ほど。それでも午後1時半くらいまでに我々の後に5組くらいが入ってきた。

 昼に一度来たいと思っていたことが今回実現。外光が明るく、天井も高いので、夜よりも一層開放感がある。

 前菜、パスタ、魚か肉のメイン、デザート3品盛り合わせ&コーヒーというコースだと、夜の値段の半分強。内容としては、前菜の品数が僅かに少なかったり、デザートが勝手に選べないというようなところはあるが、味の水準は夜と変わらない。昼の場合、パスタが3品から1品を選ぶ形なので、この点は夜よりも選択肢が広がることになる。
 大変お得な感じがするランチだ。(なお、昼はカードが使えず支払いは現金のみとなっている。)

 大満足して、店を出る。
 午後2時過ぎ、更に温度が上がっている。

 渋谷経由で新宿へ出て、少し時間をつぶした後、東京駅へ向かおうと中央線ホームに立つと、なんと中央線は安全確認のため止まっている。確か中野駅で、人が線路に降りたということらしい。
 しょうがなく、山手線でぐるっと回っていくか、と品川方面のホームへ出たら、やはりそこで止まっていた総武線のほうが動くという。

 やれやれ。

  ***

 新大阪に着いて、和歌山までどう行こうかと、置いてある時刻表を調べてみる。これだけは、事前に確認するのを忘れていた。
 天王寺まで出て、阪和線に乗るのか、と思うと少し面倒な気がしていた。

 ところが、関西空港行きの特急が結構あり、これで日根野まで行き、そこで乗り換えをしたほうが早く行けそうなことがわかる。

 日根野で降りて、和歌山方面行き快速が5分ほどでくる。接続も結構良い。

 和歌山のホテルは、駅から3分のところにある。受け付けはオッサン2人で対応しているホテル。部屋はさほど広くなく冷蔵庫もないが、ベッドの固さ、窓は開けられるし、フロアは違うが製氷機は用意されていることなど、結構基本がしっかりしたホテルであることが見て取れた。


2002年08月24日(土) JR切符


 みどりの窓口へ切符を買いに行く。
 来週木曜日夕方から、大阪経由で和歌山、大阪へ戻ってその後城崎まで。帰りも城崎から大阪経由東京まで。
 京都経由も考えたが、和歌山へ行くことを考えると、大阪経由で、東京−城崎間の乗車券・特急券を確保しておくことにする。

 結構な金額になるかと思ったら、東京−大阪新幹線の安売りチケットを買う金額に、7千円ちょっとを加えた金額。
 これを考えると、この前名古屋往復のチケット代、確かに2万円弱ではあるが、東京から近い割には、またまたえらく高い気がしてしまう。

 行きは、新幹線と在来線特急の乗り継ぎ割引は使えないが、帰りは同じ日に在来線特急から新幹線に乗り換えることになるので、在来線特急料金が半額、乗車券のほうは、片道距離が601km以上なので、往復料金の1割引が適用される。

 和歌山までは近いし、普通でも1.5時間程度。
 ところが、城崎はさすがに遠くて、特急で2時間40分。山陰線というのは、さほど距離はないように見えるが、結構時間がかかる。


2002年08月20日(火) ウォーホール


 久しぶりにMさんとソニー・ビルで落ち合って、昼に食事をする。ソニーは、お盆を過ぎた19〜20日は臨時休館になっていた。
 数寄屋橋のブォーノブォーノ、何となく2人にとっては懐かしい場所だ。

 横尾忠則展を見てきたという話をしていたら、ちょうどMさんが海外にいた時、横尾ご夫妻にパーティで会ったことがあって、えらく本人は若く見えた、というようなことを聞く。

 話がどこでそうなったのかわからないが、ウォーホールの話になった。
 ウォーホールって、どこがいいのだろうか?

 私自身、例のキャンベル・スープの缶の絵とか、マリリンだとか、それでもいくつか思い出すものはあるが、それを見てどうということはないのだが.....

 ただ、ひょっとすると、あの人の絵をちょっと飾ったときの、空間の変わり様に着目したほうがいいのかもしれない、という話もした。
 たぶん、あの人の絵というのは、一枚複製画でもいいのだが、そこにさりげなく置くだけで、空間そのものが一挙に変わってしまうような力があるのかもしれない、と。

 Mさんが、冷蔵庫にウォーホールの絵葉書を絵葉書フォルダーに入れて飾ったときだけ、Mさんの子供が反応したという。これは面白い話だった。


2002年08月16日(金) ドレスデン157年ぶりの大洪水


 エルベ川やドナウ川の洪水のニュースが毎日更新されていく。
 13日に、この一週間で洪水により68名が亡くなったことが伝えられている。チェコやドイツ(旧・東ドイツ)、ルーマニアなどの被害が大きいようだ。
 チェコの首都プラハ市内では非常事態宣言が出されたし、動物園ではうまく移動できた動物もいれば、インド象など、水位が上がって興奮状態に陥り、射殺せざるを得なかった、というような記事や、ドレスデンの駅が水に使っている写真なども出ている。

 ドレスデンでは、この季節の標準水位が2m程度しかないエルベ川の水位が、今回の雨で一挙に8.5mを超えたという。
 「ドレスデンの市の中央部のツウィンガー宮殿では、ラファエロ作の名画『システィナのマドンナ』などの収蔵品を展場場から外して避難」というような内容の記事も今日見かけることになる。
 
 このツウィンガー宮殿には、古典絵画館や陶磁器博物館が入っているそうだが、初めてフェルメールを見たのが、このドレスデン国立美術館展が日本で開催された時だった。

 脇道にそれてしまうのだが、確かその1〜2年前頃に、谷川俊太郎<散文>という本が出ている。大学を卒業して、ぷらぷらしていた1年間。その時に、この本に出会っている。
 そんな時期だったこともあり、谷川氏のこのエッセイから、いろいろな影響を受けたような気がする。

 しかし、この本が今でも忘れられないのは、その冒頭に、「フェルメールへの渇き」というタイトルのエッセイが載っていたことだ。
 フェルメールの絵の美しさを、見事な文章にしているのを見て、自分も一度は見てみたいものだと思っていた。
 フェルメールという画家のことは全く知らなかったものの、その後作品点数の少なさなどを知るにつれ、日本で見られる機会はまずないのではないか、そんなふうに半ばあきらめていたところに、このドレスデン美術館展が開催された。

 フェルメールとはいえ、当時日本ではまだまだ知られていなくて、今ほど多くの人が関心を持っていなかったのも事実。
 たまたま、先に見に行った人が、図録を買ってきていて、その表紙が、フェルメールの<窓辺で手紙を読む女>だった。

 結構くすんだ色の絵だなぁ.....というのが、その図録を見た時の第一印象。これが、フェルメールか?という、ちょっと拍子抜けした気分でもあった。

 その後会場へ足を運ぶことになるのだが、そのフェルメールの絵の前には(今だとまず考えられないことだが)、ほとんど人がいない。たまたま、誰も見ていないその絵の前に立ったら、実はそれがフェルメールだった、というほうが適切だろうか。
 しかし、その絵を眺めれば眺めるほど、その色彩と描かれている人物、それを取り囲む空間などに惹きこまれ、そこを全く動けなかった自分がいたことを今でも忘れられない。
 窓ガラスに、手紙を読む女性の顔がうっすらと写りこんでいるところ、本当に柔らかい光を、これだけ描ける画家がいた、ということの驚き。

 ドレスデン美術館展では、フェルメールのこの絵以外の展示作品のことなど、今や他には何も覚えていなかったりもするのだが.....
 ドレスデンの宮殿の展示場から避難した絵の記事を読んで、私に初めてフェルメールを見る機会をつくってくれたのが、この美術館だったことを思い出した。


2002年08月15日(木) 終戦記念日


 まだ生まれていなかった1945年の今日、日本は終戦を迎える。
 原爆が落ちなければ、敗戦の決意をしたのだろうか、とも思ったりする。

 たまたま、ある掲示板を見ていた時。ヨーロッパでは、今日は「聖母マリアの昇天日」という祭日にあたることもあり、サルツブルグ音楽祭の実況中継が放送された、と書かれていた。


2002年08月12日(月) 名古屋・栄公園<オアシス21>の大屋根


 名古屋の地下鉄・栄駅降りてすぐのところに、何か新しい屋外ホールのような建物を建てている――ように見えたものは、栄公園<オアシス21>の中心部であったことを知る。

 シンボルとなるガラスの大屋根が地上14メートルに設置され、ちょうどその枠組みが道路からよく見えて、一見すると屋外ホールでも作っているのかと見間違える。
 形は楕円形で、外周部は幅3メートル程度の歩道(園路)になり、一周すると200メートルという、比較的巨大なガラス屋根である。しかも、ガラスの上面に水が流れる構造になるという。
 この屋根が、水の宇宙船「地球号」と見なされる。

 人工地盤緑化や屋根のガラス面に水を張るなどのことにより、都市部の温度上昇に拍車をかけないようにする、というように、コンセプトの底辺には、環境・温度対応という点が置かれている。

 ちょっと作りすぎ、金のかけすぎというようなきらいがなきにしもあらずだが、新しい公園づくりに挑戦する、という意欲は、確かに伝わってくる。こんな公園は、確かに東京にも大阪にもない。
 地下はバスターミナルになり、地下鉄や栄地下街とつながる形になる。今年10月完工を目指して、最後の工事が進んでいる段階だ。


2002年08月09日(金) 名古屋城から栄へ


 金山にある美術館を見た後、地下鉄・金山駅へ降りると、名古屋港方面と、名古屋城のある市役所前、どちらのほうにも行けることがわかりました。
 名古屋城には、一度も行ったことはありません。港の風景にも心惹かれましたが、見たことがないのなら、名古屋城に行くのが先だろうと思いました。

 たぶん、名古屋城へ行って天守閣に上がっても、どうということはないのだろうという気はしていました。
 予想通りの結果でしたが、鯱は雌雄あることを初めて知りました。考えれば当たり前のことかもしれませんが、想像上の動物で、麒麟や龍と同じカテゴリーに入れられるので、雌雄を曖昧にしたままイメージを作ってしまうようです。(なお、英語表記は<dolphin>となっていました。ドルフィン=イルカとすぐ考えてしまうので、英語表記だと、作り物の鯱の顔のいかつさとは、イメージが重なりません。)

 名古屋城の外堀も内堀にも、水がなく、底が見えていて雑草が顔を出していました。
 その代わりと言えるかどうかわかりませんが、地下鉄の市役所前駅を出たところに、木陰に囲まれて、少し大きな噴水があり、朝からずっと動いていましたので、ここのベンチで少し休憩。

  ***

 栄の駅を降りたところにある、愛知芸術文化センターの駅寄り手前、その左側は、現在何やら大掛かりな工事をしていて、また何か新しい屋外ホールのような建物を建てているように見えます。

 通りを渡ったところに、<Cha for Tea>という看板が見えましたので、そこへ入ってみることにしました。中国茶や茶を使った点心類などの他にも、コーヒーやジュース類などもメニューに入っています。
 出てくるまでに、少し時間がかかりましたが、蝦の入った焼饅頭というのを食べたことがなかったので、これを桂花烏龍茶とともにオーダーしました。直径5〜6センチ、厚さ1センチ程度の大きさの焼饅頭が2つで500円弱。これが大当りで、醤油も何もつけなくとも、大変美味しく食べられました。


2002年08月07日(水) HAYASHIの数量化理論

 日本の統計学者で世界的に有名な林知己夫氏(元文部省統計数理研究所・所長)が、6日亡くなったというニュースをタクシーの中で聞く。家に帰った後で、TVのニュースでも流れた。
 学生時代に、この人のことを聞いて、実際には会社に入ってから、2−3回セミナーなどで話を聞く機会があった。かなり明瞭に話をする人だったことを今でも記憶している。

 世界的に有名になったというのは、この人の<数量化理論>によるものだ。
 一般的な統計処理において、それまでは、その分析対象となる、例えば、ある質問に対しての回答であるとか、対象者における何らかの反応などの分布状態を仮定して、その分析の考え方や、様々な処理手順などが用意されていた。典型的には、正規分布を仮定するとか、カイ2乗分布を仮定するとか、そのような仮定が成立していると見なして、処理を行っていたようなことが多々あった。
 しかし、アンケートなどでよく使われる、「この中から好きなものをいくつでも選んで下さい」とか、「○○について、次のようないくつかの意見がありますが、あなたはそれぞれについて、そのとおりだと思うか、全く違うと思うか、5段階でお答えください」などという質問と回答のパターンなどでは、予め反応分布を想定できるようなものは、かなり少ないのが現実だ。
 このような場合、たぶんこのような反応分布であろうと想定し、その分布に基づく統計処理をする――などのことも、やってやれないことはないが、見かけの相関に邪魔されてしまい、その分析結果が本当にそのようなことなのかどうか、時々疑わしく思われるような結果がでてきてしまったりもする。

 先にあげたような、アンケートなどでよく使われる、質問に対して予め回答のカテゴリー(選択肢)が用意され、それに対して回答してもらうような場合、カテゴリー変数とか質的変数と呼ぶことで、それまでの量的変数と区別し、それらのカテゴリー変数(質的変数)を、反応分布を想定せずとも、多くの質問と回答の間にある共通の要素を抽出したり、予測の際に重要なファクターを発見したりするのに効果的な処理概念とその処理手順を提示した。これが、数量化理論のざっくりとした話である。
 林氏は、この理論を、現実の選挙予測や、価値観の分析に適用して、その成果を提示していくことになる。理論と実践のバランスがとれていた人であったに違いない。

 ただ、この数量化理論が生まれてきた背景には、林氏がいた統計数理研究所で、戦後日本人研究というのが行われ、その国際比較を行っていくような場合、どうしても旧来の処理方法ではうまく結果が出てこなかった、ということがあったらしい。それならば、ということで開発されたものが、数量化理論だったとも。そのような意味からすれば、極めて実務能力の高い人であったようにも思われる。
 日本人の価値観の研究では、この分析によって、日本人の価値を支配している考え方に<保守−革新>、<古い−新しい>という基本的な軸があることを、いくつもの事例により明らかにしている。この日本人の判断基準は、現在でもまだまだ残っているようだ。

 戦後日本で、このような新しい統計処理の概念が出現することで、世界から注目されると同時に、これに刺激を受ける形で、米国の心理学者などが、新しい処理や尺度構成法を生み出していくことにもなった、ということも聞き及ぶ。84歳。


2002年08月06日(火) CD-Box<いしだあゆみ・これくしょん〜さすらいの天使>

 ちょうど1年前の8月に、弘田三枝子コレクションが出ているが、同じ体裁・6枚組で、いしだあゆみのボックス・セットが8月下旬に発売される。138曲を収録予定(過去のちあき、弘田などのボックスよりも収録曲数は多い)。
 この人も、筒美京平作品を歌った歌手として、記憶に残る人だ。

 1970年前後、どちらかというと鼻にかかったようなぺったりした声で、いしだあゆみは筒美の作品を歌っていた。筒美の作品も、バカラックのぱくり(典型的には<ブルーライト・ヨコハマ>=ウォーク・オン・バイ)などを積極的にやっていた頃。そんなあざとい時代の音楽であるところが、いしだあゆみという歌手に似合っていたし、そういう時代の人の心に、いしだの声というのはものの見事に溶け込んでいたような気がしないでもない。そんな時代が凝縮された貴重な音楽の遺産が、いしだあゆみのコレクションだ。

 弘田三枝子のボックス同様、初めてCD化されるライブや、カバー曲(洋楽・邦楽両方)などが多数含まれている。かつて、アナログLPで、カバー曲を聴いたことがある。決してうまくはなかった。
 しかし、その時代が、いしだにカバーを歌わせているのだ。

 いしだの声でカバー曲を聴くことで、その時代がより浮き彫りにされてしまう。その面白さ、他の歌手では決して真似のできないことだ。


2002年08月05日(月) 暑さぶり返し


 4日は未明にも、その日の夜にも、2度も雨が降り、温度だけはかなり下がったものの、家の中にいると湿気が多い感じがして、ついエアコンをつけてしまっている。それでも、夜寝る頃にはかなり涼しい感じで眠る....
 が、今朝、朝日が出た途端に暑い感じ。

 昼間はどんどん温度が上がるし、空気はまたまた熱気を孕み、外へ出ていると、すぐ涼しいところを探している自分がいる。

 帰り道、週末の名古屋行きチケットを購入。名古屋も東京以上に暑そうな気配だが。


2002年08月03日(土) 南青山・根津美術館

 地下鉄・表参道の駅から、根津美術館方向に久しぶりに歩きました。

 途中、右手にPRADAのビル。まだ建築途中(やっと建ちあがってきたところ)なので何ともいえないのですが、決してさほど大きい気はしません。ややこぶりな感じ。
 銀座とともに表参道あたりには、ブランド・ショップの旗艦店が、この2年ほどで急増しました。結構、それらは偉そうな感じにつくられていたりもします。確かに超一流ブランドですから、それなりの権威性というのは、どうしても必要ではあるとも思いますが.....

 久しぶりに根津美術館の中に入ります。美術館入り口の門から美術館の建物まで、敷石の工事をしていて、少し埃っぽい感じです。
 今回は、明日まで開催されている<肥前磁器〜山本コレクションの優品〜>の企画展を覗きにやってきました。70点弱の伊万里と鍋島焼を中心に構成されています。

 日本の肥前を中心にした磁器が、中国清朝の焼き物が内紛により輸出できなくなり、その代わりに日本が技術力を高め、磁器類の輸出をしていくことになる....
 肥前鍋島藩は、藩をあげて技術力向上を奨励し、その礎を築いていくわけです。

 今回展示されていたものを見る限り、福岡で見た故宮博物館所蔵品の磁器というのが、ちょうど清朝期のものだったので、そのへんと比較しながら見ることができました。初期伊万里(17世紀初め〜半ばの頃)の染付(白地に青の文様の磁器)などは、まだまだ白い部分がグレイに近く、青の文様も限りなく黒っぽく見えました。やっと17世紀後半もかなり過ぎてくると、我々が思い描くような染付らしくみえてきます。
 それでも、白地の部分などは、中国の磁器と比べるとまだまだ白くありません。地の美しい白さを出すというのが、いかに至難の技であったか、今回の展示をみることで、またまた再確認をしてしまいました。

 同時に、伊万里らしい色彩とパターン、その美しさが感じられたのが、18世紀近くになって作られた<染錦菊花散文花形鉢>。このレプリカも、売店に売られていましたが、レプリカで何と10万円ほどする価格でした。
 更に、18世紀前半につくられた<染錦団菊文透鉢>あたりになって、かなり繊細な透かし技法の鉢が見られました。伊万里で磁器製造が始まってから100〜150年にして、清朝磁器にやっと肩を並べるくらいになった、というところでしょうか。

 もちろん、一部のものをみただけの印象ですし、当時の伊万里や鍋島のものでも、優れたものはもっとあったのかもしれません。
 かたや、故宮博物館に置かれている<宝物>クラスのものと、かたや個人がコレクションしたものの寄贈品ですから、もともと比べるべきものではないかもしれません。

 根津美術館常設展示の中には、中国・商の時代の青銅器がかなり数多く置かれていて、これも興味深く見ることができました。紀元前25〜11世紀頃という添え書きがされています。本当に古い。どれも、祭祀のような場や空間に用いられたようなもので、それらの一部に形どられている怪獣を見ていると、南米の古代文化などとも限りなく近いような印象を受けてしまいます。

 美術館の外は、茶席の庵があちこちに置かれた庭。池には大ぶりの鯉が10匹以上いるのですが、人が近づくと餌がもらえると思ってか、すぐ足元まで近づいて顔を出してきます。
 以前、もうずいぶん昔のことですが、根津美術館のこの庭の一部の道路から、骨董通りのほうへ抜けられた記憶があるのですが、現在では骨董通り側の門は閉ざされたままになっています。


2002年08月02日(金) 2日続きの雷雨


 昨日は午後9時過ぎ頃から夕立。
 熱い空気に嫌気がさして、冷房の効いた店にいたので、雨も雷も全く気が付かずにいた。
 店を出ると、その雨が残っていて、隣にあったコンビニで傘を買うはめになる。

 上野駅では宇都宮線(東北線)が、少しの間止まっていたようで、既に発車しているはずの電車が、まだ出発できずにいるのだが、宇都宮線は後5分で再開、発車というアナウンスも聞こえてくる。
 宇都宮線のすぐ発車する次の電車のホームに行くと、さすがにガラガラ。この電車も10分か15分くらいで発車するだろうと思って乗り込む。すると、5分もしないうちにまもなく発車します、というアナウンス。ラッキー。

 どこも夕立の後で、空気が冷やされて気持ちがよい。涼しい空気が家の中まで入ってくる。

 *****

 今朝の新聞を見ると、7月はどこも暑かったようで、平均気温で1〜2℃平年よりも気温が高かったという記事があった。
 東京・熊谷・横浜などではとりわけ暑く、平年よりも2.2〜2.6℃も高かったという。平均2.5度高いということは、1ヶ月30日として計算すると、延べ75℃高かったということだ。
 ただ、これでも実感とは少し異なるので、もう少し実際に近づけると、例えば、平年と変わらない日が3分の1の10日あって、残り20日のうち10日は平年より1〜2℃高い、と仮定して考えてみる。この1〜2℃高いということは、延べでいえば15℃分くらいである。先の延べ75℃からこの15℃を引いても、のこり10日で60℃分高かったという勘定になる。
 つまり、本当に平年よりぐんと温度が上がった日の上がり方の平均は6℃というとんでもない数が出てくる。10日もこれだけ温度が上がった日があれば、それはそれは暑い日だ。

 *****

 今日も、午後3時過ぎから、西の方から雲で暗くなり始め、稲妻が光ったと思ったら、大粒の雨が降り始めた。
 はっきり確認できた稲妻が、200〜300本は少なくともあったのではないだろうか。雷鳴がゴロゴロと聞こえるだけの、またせいぜいピカッとどこかで光っても、稲妻をはっきりとは確認できないような雷というのが、東京ではごくごく普通である。5〜10分くらいの間に、10本ほども稲妻が見えると、おおっ!という感じになる。
 それが、(昨日もそうだったらしいが)遠目に黒い雲と建物の間を1分くらい見ていれば、5〜10本の稲妻が確認できる。かなり激しい雷。
 不思議なことに、(時々ドーンという音がするものの)会社で稲妻を見ている限りだと、音そのものは今回さほどでもなかったようだ。

 午後6時過ぎに雨が上がり、銀座から西の方を見ると、青い空にピンクの夕焼け雲が美しく見えた。
 昼間の暑さは、今日もどこかへと消えている。


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