Mother (介護日記)
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2002年03月30日(土) 電動ベッドの使い方

せっかく3モーターの電動ベッドが借りられたと言うのに、母は自分で使うことができない。

夜中に起こされるのは仕方がないことだ。
しかし・・・

トイレに行こうとして、自力でベッドの上で90度回転して真横になり、
脚と腰が半分落ちた状態になってから呼ぶのはやめて欲しい。(-_-;)

母はまるで亀がひっくり返ったみたいに仰向けで、身動きが取れないでいる。

だから、私はいつでも起き抜けに、重労働をしなくてはいけない。
落ちかかった母の両手を私の首に回して、チカラいっぱい抱き起こすのである。

でも今朝は抱き起こしたものの、そのまま畳にすべり落ちてしまったので、
立たせるまでにはさらに大変な思いをした。

これら一連の動作は、腰にすさまじい負担を与える。

ベッドを高くすれば、この動作も少しは楽になるものの、
すでに下半身が落ちているため、ここで高さを変えればそのまま母は落ちてしまうだろう。

なんの為の電動ベッドなのだ・・・

夜中や朝の起き抜けに、そういったことで私はキレて大声を出すこともある。

母にいくらリモコンのスイッチを教えても、理解はできないようだった。
自分が起き上がってから背もたれを上げてみたり、
わざわざ背もたれを倒してから、痛みを我慢して寝てみたり・・・ 

今朝はあちこちに貼り紙をした。

「起きる前に 必ず誰かを呼ぶこと」

そうじゃないと、私の腰も潰れてしまう。


2002年03月29日(金) 介護認定審査

主治医の所見では、介護も障害者も、再申請をできるようなレベルではない。
母の圧迫骨折はもうじき回復するのである。(痛みがとれて、あとは背中が曲がるだけ)

そうなると、借りたベッドはどうなるのか。

通常のレンタルでは、あの3モーターの介護支援ベッドは、¥17500/月 である。
介護認定が下りれば、その1割、¥1750 の負担で済むが、
このままでは2月時点を基準にして「自立」と認定されるかも知れない。


実際のところ、昨夜すでに母はひとりで動いていた。

夕飯の後、私が自分の頭を整理すべく日記の更新に夢中になっていたら、
母が食器を片付けにキッチンにやってきた。
それだけ気持ちも体も回復してしていたのだった。
それを見て、余計に私は落ち込んだ。


レフティーに相談したところ、
いつまた急に母の病状が変化するかはわからないので、
もし仮に全額自己負担であっても
2、3ヶ月はそのまま借りていてはどうか、とのことだった。


* * * * *


認定審査会は毎週木曜日の夜に行われるということで、
今日はすでにその認定結果を知ることができる。
通知が郵送されるのを待たずに、介護支援センターを通して調べてもらうと、
数分後、浅野さんから折り返しの電話が来て、要介護1になったとのことだった。

「1が出ましたから、ベッドのレンタル料の心配は要りませんよ。」

『要介護1』とは、立ち上がりや歩行が不安定。排泄・入浴などに一部介助が必要。

確かに妥当な認定だと思う。

歩行では、誰か、もしくは何かにつかまらないと不安定だ。
それでも3分以上歩けば疲れてしまう。
少しの動作であっても、息切れがする。

昨日の検診の後、SPAに連れて行ったが、
最近では母は浴槽の中に入る時には、私が抱っこをしている。
浴槽の段に座り手すりを掴んでいたのに、ふとした拍子にふわっと体が傾いたので、
あわてて支えに行ったのだった。 これではとても1人で湯船には置けない。



* * * * *


今朝は義姉からの電話で起きた。
そして、激動の10日間について話した。

突然の退職に驚いた元同僚からのメールも来ていたが、返事が遅くなってしまった。
この退職劇を、彼女達はどう思うのだろうか。

顔も洗わず、3時になってやっと初めての食事を摂っていたところ、
ケアマネージャーの松浦さんの訪問を受けた。

母は、ベッドの上でアルバムをめくっていた。
絹江が2、3歳頃のものである。

松浦さんと私との会話が聞こえているのかいないのか、
顔を見て話し掛けられないと反応がなかった。

母には介護支援センターだの、ケアマネージャーだのと言っても、
理解できるわけではないから
「これからうちの為に、いろいろとお知恵を貸してくれる方だよ」と紹介しておいた。

私が仕事を辞めたことや、
レフティーが急性胃炎になったことをそばで聴いていても、なんの反応もなかった。
たぶん聞こえていないのだろう。 母は聴く気になって聴かないと理解できない。

今後、我が家の介護サービスについては、
この松浦さんに計画書の作成をお願いすることになる。
その委託に関する届出書に署名捺印をすれば、市役所に提出してくれるとのことだった。

要介護1の場合、1ヶ月に16万5800円の支給が受けられるので、
この中で訪問介護や通所介護、福祉用具貸与などのサービスを、
うちがどのように受けるかを考えてくれると言う訳だ。
これは『16万円分のサービスをタダで受けられる』というのではなくて、
『16万円分までのサービスを1割の負担で受けられる』という意味である。

うちは現在、16万円のうちの17500円をレンタルベッドの為に使用し、
自己負担が1750円であるということになる。


2002年03月28日(木) 割り切れない思い

ホントは今日のことは書きたくない。

『自分が悪い』と認めてしまえばいいことだけど。
だけど、どうしても、割り切れない・・・
やり場のない怒り。
その裏腹に自分に対する情けなさ。愚かさ。


* * * * *


今日は主治医Kのいる木曜日、3週間ぶりの検診であった。
同時に整形外科の予約が8時半に入っていたのを、私はすっかり忘れていた。
私たちは、内科の予約時間の10時にやっと間に合う時間に到着した。

整形外科の担当医は、毎週木曜日はオペなので診察はもう無理だとのことだった。
2週に1度の注射と薬さえもらえれば、それでいい。

手首のガングリオンが痛む絹江を整形にひとり残して、母と私は内科で待った。

今日は何故か空いていて、じきに呼ばれた。



私は主治医に先週の母の様子を話した。

月曜に救急車で運んだこと。
水曜には整形外科で診てもらったこと。

もちろん、主治医の手元のカルテにはその記録が残っている。


私は、肢体不自由(体幹)で再度障害者申請をするための書類を取り出した。
市役所の職員が勧めてくれたものだった。

しかし・・・ 


『いや、それは無理だよ、ぜんぜん。
 だって、今もこうして立って歩いているんだから。
 圧迫骨折って痛いのは最初の1週間から10日ぐらいだから、
 安静にしていればだんだん良くなりますよ。
 だから、そんなすぐに寝たきりになるなんてこともないし。
 きっとしりもちでもついたんでしょう。その拍子に圧迫骨折したんでしょうけど。
 それも先週のことでしょう? もうだいぶ楽になっているはずですよ。
 老人の腰の曲がり、あれがみんな骨粗鬆症、圧迫骨折ですから。
 普通は1日、2日入院したりもするんですけどね。
 痛くて動けなかったでしょう? それで良かったんですよ。』
 

はぁ?

治る? 10日で? 

え?

ちょっと待ってよ。

救急外来の担当医Yも整形外科の担当医Wも、そんなこと一言も言わなかったじゃん。


だって、『治療レベルじゃない』って。
 
     『介護』だって。

     『肺が汚い』って。

     『骨がボロボロ』だって。 


だから、私、仕事辞めたんですよ?


激痛に苦しみ、起きあがることも寝返りさえもできなくなった母に、うろたえる家族。


『今は辛いかも知れないけれど、この激痛は今だけだからね』と、どうして言ってくれなかったのか。

『1週間もすれば楽になるから』と言ってくれなかったのか。


頭が真っ白になった。

母がすぐにも良くなるというのに、私は素直に喜ぶどころか大きなショックを受けた。

私の退職は、それほど大きな選択だったのに。

なんで? どうして? 納得できない。


「辞めることはないよ、『私の早とちりでした』って言えばいい。」

早とちりだって?


2002年03月27日(水) 出勤するという『休暇』

ロッカーだけなら出勤しなくても良いだろうけど、
机の中を片付けるためには、どうしても出勤する必要があった。

そこで、レフティーの休みの今日が、最後の出勤日になった。
ちょうど送別会でもあり、私は1日外出していた。

帰宅後、母の部屋に顔を出すと、母はまだ起きていて
「ありゅちゃん、今帰って来たの? 遅かったね、お帰り。
 んん・・・ここが痛くて・・・
 明日はお医者さんの日だから診てもらえるんだよね」と脇腹を押さえて言った。

私の顔を見て安心したような、甘えた感じだった。

背中にラベンダーオイルを塗ってをさすってあげると、
「それ塗ると痛いのが治る?」と聞いた。

「うん、治るよ」と言って、少なくなった柔らかい髪をなでてあげた。

私は子供をあやす母みたいだった。


2002年03月26日(火) やっぱり髪を振り乱し・・・

寝ていたら、レフティーが私の身体を突ついていた。
でも私は、それに気がつくまでに数分かかっていたようだ。
『うなってるよ』 と言われて、やっと起きた。

え? あぁ、トイレ。

隣の部屋へ行き、照明をつける。
母は、やはりトイレに行こうとして体位を変換させるべく懸命になっていた。

就寝時には手元に音のするオモチャを置いて、
例え声が出ない時でも私を呼べるように、と準備はしているものの、
母としては、そうそう毎晩迷惑を掛けられないと思っているようで遠慮しているらしい。

時計を見ると5時であった。

私は花粉症のせいで、喉の奥がとてもかゆかったので、うがいをしてからまた寝た。


レフティーが出勤前に私に声を掛けた。
『じゃ、行って来るよ。今日は遅くなるからね。
 お天気はあまり良くないみたいだけど。 ばぁさん?まだ寝てるよ。』

その後、私はまた眠ってしまった。


* * * * *


昨日は結局パソコンを開けていても、日記を書く余裕がなかった。

 * 肺炎とガンと骨粗鬆症について、ネットでいろいろ調べてみたり。

 * 福祉用具のカタログを見て、うちに必要だと思われるものをリストアップ。
   ・浴室で使う椅子を借りれば、自宅でお風呂に入れられるだろうか。
   ・浴室の段差を解消する工事とは、借家を返却するときに復元できるものか。

 * 退職時の挨拶の言葉をどうするか。
   ・誰にどんなお世話になったのか、どんなことがあったのか、思い出さなくては。
 
 * 退職に際し、勤務先のみんなに贈るものを何にするか。
   ・何を贈ろう? いつ買いに行こう?

 * 自分の健康維持や余暇を楽しむためには、母の介助や家事を手際良くこなすことが必要。
   ・仕事同様に創意工夫を以って、手際良く前向きに取り組みたい。
   ・家族の協力を得るためには、何をして欲しいか何をするのかを書き出しておくほうが良い。

 * 食べる量が著しく減った母に、何を食べさせるべきか。

 * このボサボサの髪は、いつ美容室に行けば良いのか。

 * 休暇のたびに、家庭の用事を頼まれるレフティーの健康状態について・・・
 

・・・ 頭がいっぱいである。


2002年03月25日(月) 介護支援ベッドとトイレの扉

昨晩は、母はめずらしくトイレに起きなかった。
目覚めた時、一瞬『やっちゃった、朝まで寝てしまった』と慌てて母の様子を見に行ったが
オムツは濡れていなかった。

痛がって眠れない母に即効の薬はなくて、
昨晩は、きういからいただいたアロマのジェルを、
背中と足の裏に塗ってあげたのが良かったらしい。


11時頃だったか、福祉用具のレンタルショップから電話が来た。
『あと10分ぐらいでそちらに着きますが、よろしいでしょうか?』

電動リクライニングベッドだ。

母はまだパイプベッドに寝ていて、
その4畳半の部屋には、まだテレビと衣類の3段カゴなどがそのままである。

『それでは、午後からにしましょうか?』と言われたが、
今朝だって、起き上がるのに大変な思いをしているのである。
少しでも早く、持ってきていただきたかった。

『ベッドはすぐに出ますが、テレビは自分だけではちょっと・・・』 と言うと
『それぐらいでしたら』 と了承してくれた。

それから、私は大急ぎで母を居間に連れて来て、椅子に座らせて待たせ、
母の部屋のお布団と雑貨を絹江の部屋に運び込み、パイプベッドを廊下に出して、
さらには、チカラを振り絞ってテレビとその下の台を運びだした。
やっぱり、ベッドのレンタル業者に、部屋の模様替えを手伝わせるわけにはいかない。
そして、私は掃除機を掛け始めた。

その最中に、何やら母の声がするので行ってみると、
『切れちゃったよ、電話だって呼んでるのに・・・』と、はぁはぁと苦しそうな顔であった。
母としては、かなりの大声を出していたのだろうけど、私は気付かなかった。

また掛かって来るかも知れない、と今度はそれを気にしながら掃除機を続けた。

すると、案の定かかってきたが、ファックスであった。
NHKから、先日の障害者認定に伴い、受信料の減免が受けられることになったという確認だった。

部屋の片付けに戻ると、来客があった。
介護支援センターの浅川さんだった。
先日、訪問してくれた平川さんは退職されたとのことで、担当が替わったのだと聞いていた。
明るくて、ハキハキした、大きな声の女性だった。50前後か。
今からベッドが来るところなのだと、迅速な手配に感謝して報告し、母に会ってもらった。
『近くまで来たついでだったので、急でごめんなさいね』

5分も話さないうちに、ベッドが到着した。
60代の夫婦という感じの業者だった。

『新品ですよ、良かったですね。3モーターだし。』
小柄でキレイな奥さんは、そう言いながら準備を始めた。
3モーター? それなら膝の部分も上げることができるんだ、良かった。
ご主人の方はダンディーだけれど、クールで無表情な方だった。

浅川さんは、仕事柄当然ながらこの業者とも顔見知りなので、挨拶を交わして帰って行った。

うちは狭い玄関、狭い廊下、狭い部屋なので、
病院並みの大掛かりなベッドを組み立てられるだろうか、と心配をしていたが、
玄関の前に大きな青いビニールシートを敷いて、
そこで一部を組み立ててから家の中に入れるとのことだった。
たくさんの数をこなしているのだろう。 二人とも手際の良い作業のように思えた。

そのうちに絹江が部活から帰宅したので、
遊びに行ってしまう前に手伝ってもらって、パイプベッドの方を解体した。

その間、母は泣き声とも取れる溜息をついたまま、テーブルに伏していた。
『ほら、ステキなベッドが来たんだよ。 これで起き上がるときも楽になるよ』 と
励ましても、母には一向に届かないようだった。

ベッドの組み立てが終わり、
操作を教えてもらって、契約書にサインと捺印をするまでに1時間ぐらいだったろうか。

業者が帰り、絹江も友達の家に遊びに行ってしまった。

まずはベッドにお布団を載せてから、母を居間から連れて来た。

溜息ばかりの母も、一瞬、『あら、すごいのが入ったのね〜』と表情を明るくした。

母をベッドの淵に座らせたものの、横向きから身体の向きを変えることは、やっぱり大変だった。

モーターで背もたれを上げたり、膝の部分を持ち上げたりするものの、
私も母も試行錯誤であって、どうすれば最小限の痛みで体位の移動ができるか悩んだ。

やっと落ちついたと思っても、身体を動かした後というのは例によってしばらく痛みが続く。
『今日もお天気が良いから、後でお散歩に行こうね』 と言っても、
『お散歩? いい、いい、それどころじゃないよ・・・』 と、ただ泣くばかりだった。

私はそれに付き合ってばかりもいられず、母の部屋のレイアウトを考えなくてはならなかった。

介護ベッドの頭のところに、母の衣類の3段カゴがなんとか納まった。
介護ベッドの下の部分は、支柱やらモーターやら、リモコンのコード等があって、
収納庫を置けるようなスペースはまったくなく、かろうじて掃除機が入る程度だった。
温風ヒーターは、風が直接顔に掛からないような向きで、前面を大きく開けておく必要がある。
そして、テレビを置くスペースがなくなった。
なんと言ってもこの部屋には、洋服ダンスが1棹置いてある。ヽ( ′ー`)ノ
テレビはみんなと一緒に居間で見るようにして、当面は絹江の部屋に保管することになった。
解体したパイプベッドは物置に運んだ。

とにかく、あっちにもこっちにもはみ出したものがあふれて、
まったくどこから手をつけて良いのかと途方に暮れてしまった。

片付けはテキトーにして、暖かい時間のうちに買物に行かなくては・・・
特に必要な物があるワケではなかったが、1日に1回は外に連れ出して、
気分転換をさせなくては、メソメソしている母を看ているこちらも鬱になってしまう。

半ばキレ気味になりながらも、母を急かし、やっと歩き始めた時には3時だった。

車椅子で動き始めれば、母は別人のように元気になった。
『あぁ、桜が満開だね〜』

そして、スーパーでは『鮭が食べたい』等と積極的になり、
老人会のお友達にも会えて喜んでいた。
『やっぱり、家にいるばっかりじゃ、ダメだねぇ』

帰宅後、母を座らせる前にトイレに行かせたが、
この時トイレの扉が邪魔に思えたので、思い切って扉を取ることにした。
母の部屋は、トイレの扉が開いた時に死角になる場所で、
母がトイレから出ても、トイレの扉を閉めないことには、自分の部屋には入れない。
しかも、介助する私と一緒に動くので、かなりストレスだった。

プラスのドライバーで2か所6個のネジをはずせば良いだけだった。
その後は、余っているカーテンを張っておいた。

一般の家庭では、かなり思い切った策であり、
レフティーや絹江が反対するだろうかと気になっていたが、二人とも、何も言わなかった。
それは、母と私に対する愛情だと受け取っていいと思う。


2002年03月24日(日) 旧友の訪問

母は昨日と同様、夜中の3時にオムツ替えで私を呼んだ。

まだ夜は寒い時なので、濡れたオムツを何時間もつけていたら熱を出してしまいそうだし、
肌も荒れてしまうと思うと、ぐっすり眠ってはイケナイのだと緊張していて、
案外起きれるものである。

その代わり、起き出したのは9時を過ぎていたけど。^_^;

朝ご飯のおうどん、母は3分の1程度しか食べれなかった。


今日も良いお天気になったが、相変らず強い風が吹いていた。

洗濯物を2回干した後、絹江は『少年マガジン』を読み^_^; 
私はパソコンを開いていたが、母は背中が痛くて気持ちもふさぎがちなので、
お買物に出ることにした。
相変らず、動かして良いものかどうかも判断できていないのだが・・・

私はお化粧をして行った。
髪はもう、伸ばしっぱなしになっているけど。
髪を振り乱して介護してます、って言うのも、今時は流行らないだろう。
患者も介護者も小奇麗でいたいと思うのは、まだ私に余裕があるということか。

買物と言うのは、買いたいものをリストアップして行かないと要領を得ず、
店内をうろうろとしてしまうものである。
今日は足りないもののチェックもそこそこに出てきてしまった。
結局、見たもの、思いつきでカゴに放り込み、6000円分も買ってしまい、
レジで清算しながら、一体この荷物を誰が持つのかと思案に暮れていた時だった。

車椅子を押していた絹江が、誰かに話し掛けられていた。

Iさんと言う母の郷里の旧友(82歳)と、そのお友達のHさん(60後半?)だった。
Iさんには年賀状で入院の件を知らせてあったが、
自身の体調が悪く身内の介護もあったので、今まで連絡を取れなかったとのことだった。
Hさんはこちらで母と知り合いになった方で、私は初対面だった。
最近買物で母を見掛けないので心配していたとのことだった。

『ちょうど、行こうと思っていたのよ』

二人はこれから買物をするところで、その後、急遽うちに来ることになった。

『部屋はどうなっていたっけ?』と、やや冷や汗気味の私。
少しでも速く帰って、片付けなくては・・・

ところが、車椅子の私たちが玄関を開け、母をトイレに連れて行っている間に、
二人はもう追いついてしまった。^_^;

『こんにちは』

はぁ、それでも買物に行って取り敢えずおやつを買ってきておいて良かった。
母が二人のお友達と話しているうちに、私と絹江はお茶の用意をした。

およそ2時間、積もる話しに花を咲かせた。
母は久しぶりに共通の話題のある友達と会えて、とても楽しそうにしていた。

ところが一方で私は、お昼を食べ損ない、3回目の洗濯物を干しそびれてしまった。
いや、実はお茶を淹れながらキッチンでエクレアをひとつ立ち食いしたんだけど(^^ゞ

二人にはぜひ、時々来て、話し相手になっていただきたいものだ。
考えたり話したりしないと、ますますボケてしまいそうである。


・・・なんて、こんな日記をチラッと書いていると、あっという間に陽が暮れているのだった・・・ 


2002年03月23日(土) 痛くて眠れない

9時過ぎに横になった母は、11時半に目を覚ました。

トイレに行くと言うので、連れて行くことにした。
そこからがまた戦いだった。

起こす、立つ、歩く、座る、立つ、歩く、座る・・・ 激痛の嵐が続く。

ここで水分補給と休憩を兼ねて、先日ゆきっちにいただいた『ハスカップ』の紅茶を淹れる。
ブドウのような、ブルーベリーのような、プルーンのような甘い香りである。
母の気持ちが少しでも反れれば良いと思ったが、そうだ、母は鼻も利かないのであった。^_^;

飲み終わったので、寝かすべく横にする。
これがまた大変であった。
30分も泣いていた。

「痛い、痛いよ〜、はぁ、なんとかならないかな? 注射とかしてくれないのかな?
 こんなの毎日続くのかな? 嫌だな〜 もうこんなんじゃ生きていたくないよ・・・
まったく歳は取りたくないねぇ、あぁ、もう死んじゃいたい・・・」

ここで、私は薬が効いても効かなくても、母の気が少しでも済むなら、と
痛み止めの座薬を入れることにした。


ところで骨粗鬆症って、結局どうすればいいの?
みんなこんなに痛がっているの? 
放っておくしかないの?

痛がって動かすことのできない人のトイレはどうすればいいの?
腰を浮かすことさえできないのに。


腰が痛いと言って、最初に痛み止めの『ロキソニン』を処方してもらったのが、1/22。
その時既に、胸骨は潰れてしまっていたんだろうか?

最後に肺のレントゲンを取ったのはいつだったろう?
どうして、先日見たレントゲンは、素人の目で見てもあんなに悪くなっていたのだろうか?


私は昨日から『家庭の医学』をめくっていた。

母がどうしてこんなに急に悪くなってしまったのか、納得が行かないのである。
肺炎がどうして1年も治らないのか、わからないのである。

あちこちめくって、私なりに判断すると『ガンが骨に転移した』のではないかと・・・

素人の判断と思い込みほどコワイものはないかも知れないが、私は納得できる答えが欲しかった。

確か、夏ごろだったか、担当医に『悪性新生物ですか?』と聞いたことがある。
母の目の前で聞くには、これの方がわかりにくくていいと思ったからである。
担当医は否定したが、それは母の面前だったからなのか?


母にはレゴはもういらない。
母にはもうテレビを見るゆとりもない。
食欲もガクンと減ってしまった。


ただただ、痛みに耐えて毎日を過ごしているのである。

とにかくあの激痛は、世に言う『末期ガン患者の最期』を表しているような気がしてならない。

母は、あとどのくらい生きられるのだろうか・・・


2002年03月22日(金) 忙しい・・・

夜中の2時に就寝したものの、3時前に母の声で起きた。
「ありゅちゃん、出ちゃったよ」と言ったのだと思う。
トイレに行こうとして掛け布団をはぎ、仰向けのままベッドの上を移動したものの間に合わず、
既にオムツが濡れていた。

今朝は7時過ぎに起床しなくてはならなかった。
昨夜、銀行に提出するための『現状報告』ともいうべき書類を書き上げたので、
近所の同僚に持って行ってもらおうと思い、メールでお伺いを立てたところ、
彼女は本日は休暇で『今、横浜にいます』とのことだった。^_^;

もうひとりの同僚とも連絡が取れず(そもそも朝は皆忙しいのだ)
駅まで行ったものの、彼女には会えなかった。(もしかすると出勤時間が違っていたかも)

自宅に帰ってお洗濯を開始。

母は、今日も激痛に泣きながら「病院に連れて行って」と言うが、
行っても治療のしようがない。

母は、起きる時と立ち上がる時に激痛が走り、
その度に「痛いよ〜痛いよ〜」と言って顔をしかめ、泣きそうになるのだった。

トイレの感覚が鈍っているようなので、こちらから定期的に連れて行くようにしている。
それでも動くたびに痛がって、またその痛みが恐くって、なかなか身体を動かせない。
仕方なく、屋外で使っている車椅子を廊下で広げて、
母の部屋まで持ち込み、ベッドの脇につけて母を乗せて行った。
(家の中で車椅子だなんて、どんなに広い家だろうと思うだろうが、
 ちなみにここは民間の借家で6畳2間、4.5畳1間の平屋、13.5坪である)
そして、トイレの中でも「痛いよ〜痛いよ〜」と、
か細い溜息を吐きながら、しばらく泣いているのであった。

『骨が潰れている』と整形外科医は表現したが、
「それって、骨折してるのと同じってことだよな?」と昨夜レフティーが言った。
身体の中心である骨がそのようであっては、さぞかし痛いだろう。

今日は今にも降りそうなお天気ながらも風が強いので、私は溜まった洗濯をしていたが、
途中、2度3度と小雨が降ってきて、その度に私は入れたり出したりしなくてはならなかった。

その間に、介護支援センターから電話がかかってきて、
先日来ていただいた平川さんが退職するので、これからは浅野さんに代わるとのこと。
介護を受けるに当たって、担当のケアマネージャーを本来は自分で選ばなくてはならないが
まったくわからないので、浅野さんにお任せした。
介護支援ベッドについては、認定を待たずに手配をしてくれるとのことだった。
その際、どういうものを希望するのかと聞かれたが、私には何もわからない。
高さを変えられ、背もたれが動くタイプを『2モーター』と言い、
『3モーター』になると、膝の部分も上がるということだった。
私が『取り敢えず背もたれが動けばいいです』と言うと、
『それでは、2モーターで注文しておきます』と浅野さんは言った。

その後、義姉(腹違いの兄の、お嫁さん)から電話がかかってきて、
『最近、お母さんはどう?』と聞かれたが、それはその、この通りの状況を説明した。

その最中に、今度はケータイが鳴った。
先ほどの介護支援センターの浅野さんだった。
義姉の電話を一旦切った。
『ケアマネージャーが決まりました。○○にある、△△という会社の松浦さんです。
 急ぎでベッドをお願いしたところ、25日の月曜になるそうですが、よろしいですか?』

え? もう、ベッドが来るの?
このあいだの話しでは、まだずっと先だと聞いていたが・・・
迅速な対応に感謝、というよりもむしろびっくりした。

状況が状況なので、介護認定を待たずに手配をしてくれたらしかった。
確かに、先日の平川さんのお話しでは、
自宅介護の家庭では、着替えやトイレの介助をしてはいるものの、
動かすたびにこれだけの痛みを訴える例は無いようであった。

それから義姉に電話を掛けなおしておよそ30分。
50代の義姉も実は骨粗鬆症気味でかかとが痛むので、
最近鬱気味で人恋しい母親には、なかなか会いに行けないのだという。
そんなわけで、うちの母どころではなかったらしい。
お母さんは、さみしくてひとりでは居られず、
毎日二人の娘や友達に電話を掛け捲っているとのことだった。
義姉のお母さんも、うちの母と同じくらいだったろうか。
お互いに慰め合い励まし合って電話を切った。

すると次にまた電話が掛かって来た。
今度は「ケアマネージャーに介護支援ベッドを頼まれた業者」からで、
月曜の納品の時間の希望を聞かれたが、特にないので『そちらに合わせます』と答えた。

そして今度は、銀行の同僚のKさんから電話をもらった。
『ロビー命』の私が繁忙日に休み続けているので、心配をしてくれたようで、
私は簡潔に現況の説明をした。
「顔が見れないとさみしくって」というKさんは、OGでありながらも、
パートタイマーとしては先輩に当たるからと、私のことをいつも立ててくれる。

みんなに心配かけてしまっているけど、ひとりひとりに連絡できず、
役席にも電話で手短かに話したキリだったので、
取り敢えず昨夜の書面をファックスで送ることにした。

それから今度は母の部屋の電話がなった。
近所のOさんである。
自身が身体障害者で歩行できないため、母がいつも呼ばれて通っていたお宅である。

病気の母を何度も呼び出すので、以前レフティーに怒鳴られ逆切れしたものの、
そこは年寄り、懲りずに電話を掛けてきていた。
母はもう、自分の部屋の電話を取ることもできないので、代わりに私が出ると
『あぁ、若奥さんですか?』と気まずそうに言った。
母の状況は以前に増して悪くなっているのだが、見えないので知りようもない。
『声だけでも聞かせて』と言うので、コードを引っ張って母の枕元に電話を持って行った。
『娘さんがいいと言うなら遊びに行くよ』と、そんな話しをしたらしく、
「Oさんが来たいって言ってるけど?」と母が私に聞いて来た。

来るなら来てよ、この状況を見てってよ、母はあなたの暇潰しにはもう行かれません・・・と
私は半ば投げ槍に思って許可をしたが、ちっとも来る気配はない。 ヽ( ′ー`)ノ 

はぁ、お天気がハッキリしないので今日はお散歩は中止。

母は今寝ているが、起きたらまた、トイレに行くために痛い思いをしなくてはならない。
動けないのは困るけど、痛いのが一番辛い。
起き上がる・立つ・歩く・トイレに座る・立つ・歩く・座る・横になる・・・
このすべて、ひとつひとつの動作が激痛につながるのだ。


2002年03月21日(木) 車椅子は院内向け?

昨日は、薬局に薬を取りに行くのをすっかり忘れてしまった。

11時過ぎに薬局から電話が来て、
『今日は祝日だから休業だけど、お昼頃までならいるから、
 薬が必要だったら横の玄関から来てくれれば・・・』とのことだったので、
買物に行く予定を少し早めて、薬を取りに行くことにした。

母はただただ腰が痛くて「私を病院に連れて行って」と泣きそうになって訴えるのを
「注射もしたし薬ももらったから、病院に行ってもやることはないよ。
 2時間も3時間も待つばかりで疲れるだけだよ。
 それより、公園の桜を見に行こう。 もう咲き始めてるよ。」と言って、
半ば無理矢理に連れ出した。

ベッドから玄関の外の車椅子までの移動もやはり大変ではあったが、
1度座ってしまえば痛むわけではなかった。

それにしても車椅子での移動は、道路では介護者にとってかなりの負担になる。

歩道の3cmの段差が辛かったり、ホンの少しの傾斜がきつかったり・・・
特に今、自宅近くでは道路工事をしていて、その回り道に当たるのが公園前の急な坂道。
行きの下りは、車椅子が暴走しないように、のけぞって進まなくてはイケナイし、
帰りは上りだから、それこそ工事現場の「ネコ」と呼ばれる一輪車で山盛りの土砂を運ぶみたいに
車椅子を含め60kgをヨイショヨイショと、押し上げて行かなくてはならない。

母が公園の桜を愛でる間に、私は後方で必死になっていた。

看護婦さんが病院内でスーッと美しく車椅子を押すことができるのは、
病院内には、段差も急な坂道もないからである。

小石に乗り上げてつまづいた時には、母の腰に激痛が走って彼女は悲鳴を上げた。

薬局とスーパーを回って約1時間、こっちがぶっ倒れそうになった。
帰宅するなり、絹江に頼んで腰に大きな湿布を2枚貼ってもらった。

それでも私は、ゆきっちとファミレスに行くのを楽しみにして、
寝たいところを頑張って(謎)お迎えの車が来るまで洗い物などをして頑張っていたのだった。


2002年03月20日(水) 1日がかり

今朝も母は介助なしでは起き上がれなかった。

私は、仕事を休んだ。
担当役席には『当分行けないかも知れない』と言っておいた。


・・・市役所にて・・・

障害者手帳が交付されることになったと言う手紙が先週来ていたので、
市役所の『福祉課』に行った。

『聴覚障害(両感音性難聴)6級』  右/92dB  左/78dB

『福祉のしおり』によれば、
タクシー運賃が10%引き、バス運賃が50%引きとなる。
JR運賃においては、
障害者本人が単独で乗車する時に限り、片道100kmを超える場合に50%引きとなる。
また「NHK受信料の免除」が受けられる。

いずれにしても、
母の場合の聴覚6級と言うのは『第2種障害者』にあたるので受けられるサービス等が少ないが
我が家にとってはタクシー代の10%引きだけでもありがたいことである。

それから、介護度が既に決定したかどうかの確認をしたかったのだが、
認定審査会は毎週木曜日の夜であり、
母については今月の28日の審査会で介護度が認定されるとのことだった。
審査会の後、認定通知が郵送されるまでには3日ぐらいはかかるので、
介護度の確認は、月を越してしまうだろう。

母の病状が進んだことから、介護申請のやり直しをする必要があるのだが、
それも結局は、最初の認定が出ないことには『再申請』はできないし、
必要な書類である『医師の意見書』も、担当医でなくては書けないので、
担当医の次の検診の28日までは、ただじっと待っているしかなさそうである。

申請を出した時点では、これほど早くに母の体調に変化が現れるとは考えていなかったが、
とはいえ、『いざ』と言うときにすぐに利用できないのは難点である。


・・・病院にて・・・

母の腰の痛みが強いので、今日は担当医がいないことを承知で行った。
1:40に病院に到着してから、内科の診察を受けるまでには1時間待ち。
私がこの2日間のことを話すと、
若い医師は、私が昨夜マジックでマークしたところを触診しただけで、
『腰椎というよりも、もっと上の方ですね』と言って、整形外科へ行くようにとカルテを回した。

整形外科はすいていたが、私たちは30分ほど待った。

整形外科には絹江と私もかかっているものの、
3人とも担当医が違うことになってしまったのは、今後少々やっかいな気がする。

整形外科のW先生は、先日の救急処置時の腰椎のレントゲン写真と母の痛みの場所を見比べて
『腰椎と言うよりも胸椎ですね〜』と、
先日よりもやや上の部分のレントゲンを撮ってくるようにと言った。

胸椎のレントゲン撮影のため、ベッドに上がらなくてはならなかったが、
それもまた母の激痛を伴って、大変な作業だった。

撮った画像を見るなりW先生は、遠慮なくハッキリ言った。
『これは全体にかなり傷んでいますね〜。ここの第6、第9が潰れています。
 これじゃ、あちこち痛くても仕方がないでしょう。 肺もこんなに汚くなってるし・・・
 肺炎だったって? BOOP、あぁ、これはそういう意味なのか・・・』

確かに、肺のあたりが真っ黒だった。
今までに母のレントゲン画像は何度も見て来ているが、こんなに真っ黒だったのは初めてだ。
これはもう、母の病気が治る可能性はないと言っているのに等しかった。

痛み止めのロキソニンは内科で既に処方されているので、
整形外科では、骨密度を低下させないように起床直後に『フォサマック錠』を服用、
また今日から内科の検診に合わせて2週に1度『エルシトニン』を注射することになった。

会計を済まして時計を見れば、すでに3時間が経過していた。


・・・家具屋にて・・・

介護保険でサービスを受けるまでにはまだ日数がかかるが、私にしてみれば既に介護は始まっている。
その中で今一番大変なことは、母の上体を起こし、立たせることである。

そこでベッドを買うことにした。
ただし、あまり言うべきことではないが「何年使うかはわからない」のである。
介護ベッドなる、電動リクライニングは、認定後そのうちに借りれるらしいので、
20万円から30万円もするようなものを、我が家で買うつもりは毛頭なかった。
しかし、ベッドを借りれるその日までの間に(何日かは定かではないが)
介護しながら自分の腰を傷めては困るので、どういう形にせよベッドはあったほうが良いと思った。

当初は、引出し付きの収納ベッドがいいのではないだろうかと思った。
座った時にそれなりに高さがあるので、立ったり座ったりがしやすいだろうと考えたからだ。
しかし、家具屋の経験上のアドバイスによって、
私たちはシンプルなパイプベッドに変更することにした。
そして、病院にあるようなキャスター付きのベッドテーブル(ベッドにまたがせて使うタイプ)を追加した。
これらは在庫があるので、今すぐに持ち帰ることができた。


・・・帰宅後・・・

帰宅すると既に6時半であった。
レフティーは8時にはボウリングに出かけなくてはいけなかった。

母の部屋を片付けて家具を移動し、買って来たベッドを二人して組み立てると、
夕飯を食べる暇もなく、着替えて出掛けて行った。

母は、いつのまにか居間でうたたねをしていたが、起こして部屋に連れて行くと
でき上がったベッドを見て、とても喜んでいた。
『これなら座るのも立つのも楽になるわぁ』

しかし、それもつかのま、しばらくするとまた腰が痛みだし、私を呼んだ。
もらった座薬の3つ目を入れることにした・・・


2002年03月19日(火) 介護支援センター

私は途方に暮れていた。

今朝、トイレに行くように促したものの、動けなかった。
うつぶせになるまでに1時間以上を費やし、そこから起き上がることができず、
這うと言っても上半身をお布団から乗り出した程度で力尽き、
いつのまにかウトウト寝てしまっているのだった。

起こしてみると、おなかが空いたというので準備をしたが、それでも起き上がることはできず、
こういう時には、寝たままでも食事を与えたほうが良いのか、
それとも病人が動こうとする気持ちを大切にして待ったほうが良いのか迷った。

結局、お昼になっても一向に起き上がれない。

と、チェックをしてみれば、オムツどころかパジャマまで濡れていた。
本人はもう、感覚がなくなっているのだろうか?

着替えは大変だった。
昨日の絹江はもっと大変だったに違いない。
夏、熱中症と腎盂腎炎になった時も、大変な思いをしたが、赤ちゃんのオムツ替えとはワケが違う。

おむつ替えのついでに、昨日もらってきた腰の痛み止めの座薬を入れることにした。

私は無力だった。
痛がる母を目の前にして、どうして良いのかわからなかった。

母はうつぶせのままで動けず、私はオムツを完全にはかすことができず、
前面はおへそよりも下までしか上げられなかった。
おなかが冷えるとイケナイので、取り敢えずシャツでかぶせた。
パジャマは片袖しか通っていなかった。

着替えさえ満足にできない・・・

みんなはどうしてるの?
痛がる時は無理にパジャマを着せなくてもいいの?
無理矢理歩かせるべきなの?
ベッドの方がいいの?
頼むと誰かが来てくれるの?
私は仕事を続けてもいいの?

私は『介護支援センター』というところに電話をかけた。
事情を話すと『30分後に行きます』と言ってくれた。

2時過ぎに平川さんという女性がやってきた。
私は昨夜修正した母について書いたものを渡した。
こういう時に聞かれることはいつも決まっているものだ。
氏名、年齢、生年月日、既往症、家族構成、緊急連絡先、直系親族がかかった病名等・・・
やりとりする時間を短縮できる。

先月の13日に介護申請をし、27日に訪問調査があったことを話すと、
もうそろそろ認定が出ても良い頃ではないか、とのことで、
平川さんが市役所に確認してくれることになった。

介護認定が出ないことには、そこから先に進めない。
介助に必要なベッドやポータブルトイレなどのレンタルの手配もできない。
デイサービスと言われる入浴と昼食のサービスにしても、
計画書の作成・市役所に届出・担当者の決定と、具体的にサービスが始まるまでには
2ヶ月近くがかかるらしい。

起き上がることもできない母の状態を見たところで、
まずは明日、もう1度病院で診てもらうようにとのことだった。

何と言えば母が起き上がるだろうかと考えた私が、
「それじゃ、今からSPAに行こうか」と言ったら、いきなり表情が明るくなった。

驚くべきSPA効果によって、平川さんが帰った後、母はひとりで起き上がった。
そしてどうにかトイレまで歩いた。

時計はすでに4時半。本日初めての食事をとった。
葛湯、バナナ、ロールパン、ミルクティー。

その後、横になるとまた背中が痛いとうなりだし、
真っ青になった唇で『お医者さんを呼んで』と言い出した。

私は母が痛がるところをマジックで印をつけた。
医者に診てもらう時に参考になるかも知れない。
痛みの場所が変わるのもわかるだろう。

私は再び入院の支度を始めた。

前に作った『入院時に必要な物、あると便利なもの』のリストはとても役に立っている。
入院が決まってからじゃなく、日頃から準備できるものは詰めておくようにすればよい。
当日入れるべきものは、別のリストを作ることにしよう。

レフティーが帰宅して1日の様子を話した。
明日はレフティーの休暇なので、病院に連れて行くことになった。

レフティーが母の背中の痛みをチェックすると、さっき私がマークしたところとは違っていた。
痛みは移動しているらしい。
レフティーは『ゲートボールに行きたい、カラオケに行きたいと言う気持ちが大事だ』と言い
かなり強引に母の上体を起こした。
とても痛がって泣きそうだったが、立ってしまうと歩くのは楽だった。

レフティーは『寝るまで椅子に座っていようよ』と言って、居間に連れてきた。
不思議なことに、椅子に座っている間は痛いとは言わなかった。

遅くなった夕飯を食べ終わると、自分で食器を片付けに行き、なんと洗い物まで始めた。


2002年03月18日(月) 救急車要請

今日も銀行は忙しく、先週に続いてヨーグルトとお茶だけで閉店までを載り切った。

昼頃、家に電話をしたけど、母は出なかった。
トイレに入っているのか、干し忘れた洗濯物を干しているのだろうと思い、
忙しいこともあってそのままにしておいた。

そして夕方、ケータイを見ると絹江からの留守電が入っていたのでかけ直した。

絹江が学校から帰宅すると、母が居間で寝たままで、見るとおもらしをしていた。
それもかなり時間が経過しており、1度ではないらしかった。
全身ずぶぬれの状態で、自分で脱ぐこともできず、ただ寝て待っていたらしかった。

絹江は自分の体重を支える事もできず、動かすと痛がる母を、
それでもなんとか起こして服を脱がせると、
肌がただれていたので、レンジで温めたタオルで体を拭き、
乾いたタオルでもう1度拭いてからパジャマに着替えさせ、
更には、脱がした服を洗濯機にかけるまで、1時間もかかったと興奮気味に話した。
母は朝から何も食べていないらしく、
私が用意したものは手付かずで薬も飲んでいないとのことだった。

私はタクシーで帰宅することにした。
通勤で利用する電車は、30分に1本しかなく、
職場から駅までが徒歩15分、駅から自宅までが15分である。
タクシーに乗れば、ここから自宅玄関前まで20分で行ける。

近所の同僚と共にタクシーに乗り込んだ。
こういう時に一人ではないということは大変に救われる。
冷静に会話をしながら乗っていた。

帰宅すると母はお布団の中でやっと落ち着いたところらしかった。
絹江は、先ほどの電話の内容をもう1度、私に説明した。
彼女は実に冷静で、我が子ながら、本当によくできた子だと思う。

私は、母の下半身のただれをチェックしようとして、腹部に触ったところ、
肋骨の下あたりをとても痛がるので心配になり、数ヶ所を押して見たが、
やはり左右対称に痛がるようなので、病院で診てもらうほうが良いと思った。

ところが時刻は既に5時を過ぎていた。

明日は休暇の予定だが、明日までそのままにして良いものか、
それとも、これは緊急を要するものなのか、素人の私には判断がつかなかったので、
かかりつけの病院に電話をかけて指示を仰ぐことにした。

『それでしたら、救急車で来てもいいですよ』とのことだったので、
近所の手前気にはなったが、そうすることにした。

レフティーのケータイに連絡を入れたが圏外なのかつながらず、
勤務先の電話を回してもらって、現状報告をした。

生きるか死ぬかといった状態ではなかったので、
私は冷静に、一応入院の準備を整えてから「119番」にかけた。

『火事ですか? 救急ですか?』

自宅の場所、患者の氏名と容態、通報者の名前と電話番号、通院経歴などを話した。
話している間に電話の向こうでサイレンが鳴り始め、救急車が出動したらしかった。

救急車は遅かった。
いや、早いのかも知れないけど、待っている身にとっては、とても長かった。
これが緊急を要する事態であったら、私はどんなに焦ってしまうだろうと考えた。

隊員は3名、1名がまず状況を確認に来て、その後から担架を持った2人が来た。
母はシーツを持ち上げられ、その布団との隙間に担架用のグリーンのシートを敷かれたが
その少しの寝返りにも激痛を感じるようで、見ている私は涙ぐんでしまった。

玄関の外に出て、車輪のついた高足の担架にシートごと乗せられ、
担架は頭から救急車に収められた。
私と絹江は大きな荷物を手にその横に座り、母を見守った。

隊員は、血圧と、心拍数と、血中の酸素濃度を測るべく、母の身体に器具を取りつけていた。

血圧  180/78
心拍数 85〜90
血中の酸素濃度 94%
鼻腔から1リットルの酸素吸入をすることになった。

装置のセットが終了したところで、救急車は走り出した。
病院までは普通車なら20分ぐらいなので、それよりも当然早いだろう。
あたりはあっと言う間に真っ暗になっていた。

隊員が母に質問した。 意識の確認の意味もあるだろう。
名前と生年月日は答えられたが、自宅の電話番号は答えられなかった。

救急車は病院玄関前につけられ、担架はすぐ脇の救急処置室というところに運ばれた。
私たちは、少しロビーで待つことになった。

隣の椅子のご夫婦も、救急の患者さんの家族らしかった。
先に処置室から出てきた真っ赤な顔をした医師から、
「たいしたことないから帰って良いよ」と、捨て台詞のように告げられ、
自分たちの事かどうか認識できずに戸惑っていたが、やがて出てきた看護婦の説明を聞いていた。
あんな言い方をする医者もいるのか、と思った。

第一、素人にはどの程度なら緊急ではないなどという判断はできないのであるから、
医者にとっては「ったく、こんな事でいちいち呼び出されたんじゃぁ」と
思うこともあるのだろうけど、それは仕方がないことだ。
放って置いて、何か起こってからでは取り返しがつかないことだってあるのだから。

あの医者が担当じゃなくって良かった、と心底思った。
しかし、あのような医者が一人だけとは限らず、私は母の容態と同じ位に、
医者がどんなコメントをするのかとおびえていた。

ずいぶんと長い間、待った。
その間、絹江からレフティーに連絡を入れさせた。
レフティーはもうすぐ仕事を終えるらしい。

やがて先生が出て来て話し始めた。
「見たところ、これといって悪い所はなさそうです。
 腰が痛いとは言うけど、どこが痛いと言うわけではなくて、背中全体が痛いと言う。
 肋骨の下が痛いと聞いていたけれど、内臓ではなさそうだし。
 老人ですから、骨も弱くなって来ているでしょうし、
 整形外科で診てもらっても、おそらくこれは治療のレベルではなくて
 介護していただくということになるでしょう。
 ご家族の方にとっては大変でしょうが、
 ご存知の通り、うちは老人向けのケアができる病院ではないので、
 特に治療の必要のない場合は、入院と言うわけにもいかず・・・
 去年、K先生(担当医)に頼まれて、私が内視鏡を撮ったのだけど、
 間質性肺炎というよりも、○×(聞き取れない)肺炎で、これは治りにくいし、
 年齢的に肺の機能も落ちているはずなので・・・」

念のため、既に帰宅したレントゲン技師を呼び戻し、
背骨と骨盤あたりの写真を撮ってみたが、これも特に異常はなく
『一般的に老人ならこのくらいは』という程度であった。

レフティーが到着し、親切にも医師は繰り返し説明をしてくれた。
先ほどの医師と比べたら、キチンと説明してくれるので、ありがたい。
しかし絹江は「なんだか面倒くさそうだった」と言っていた。

1人残った救急隊員は、出動記録?に記入すべきを医師の話しから聞き取っていたが、
最終的には『腰痛』としか書きようがなかったので、みんなで苦笑いをした。

取り敢えず、腰痛の痛み止めの座薬を入れて、予備の4つをもらって帰ることになった。

担架から、レフティーのワゴン車に乗せるまでが、また一苦労であった。
泣きそうな母をどうにかやっと座らせて、布団をかぶせた。

帰宅後、レフティーはすぐにボウリングに出かけて行った。

私は絹江と母の部屋を少しだけ片付けた。
近いうちにベッドを購入しなくては、立ち上がるにしても座るにしても大変である。
それにしても、介助なしではトイレに行けないというのでは、私の退職は必至か・・・
介護認定はまだ下りていない。


2002年03月11日(月) はかなきもの

銀行は朝から混雑していた。
ロビーの私はお客様に囲まれるような形で、常に1度に5人ぐらいを受けていた。
窓口なら一人づつお呼びして受けられるので、私はカウンターの偉大さを再確認していた。

何時頃だったろうか。
「こんにちは」とやってきた女性二人。
お一人は、つい最近お会いしたような・・・

入院中のHさんのお嬢さんだった。
「いらっしゃいませ」と答えながら、気が付くと彼女は全身黒の洋服を着ていた。

「母、亡くなりました・・・」

「え!」

ごった返す店内のロビーで私は大きな声を上げてしまい、とたんに涙があふれてきた。

上品で優しくって、いつもゴディバのチョコレートを持って来てくれた。

ロビーを移動する時には、いつも私の手を握ってくれた。
それは、痩せてはいたけど、柔らかさを感じる温かい手だった。

あれは、ボリビアにいて10数年間会えなかったお嬢さんの事を思ってのことだったろうか。

つい、このあいだまで元気にいらっしゃっていたのに・・・

母のことを気遣って「あなたも頑張ってね」といつも支えてくれていたのに・・・

先々週、Aさんと一緒にお見舞いに行った時に「また来ますからね」と約束して来たのに・・・

お嬢さんのお話では、最後はかなり辛かったようなので、
むしろお会いしなくて良かったのかも知れない、と自分に言い聞かせた。


店内は、感傷にひたる間もなく混み合っていて、私は次々にいらっしゃるお客様の応対に追われた。


2002年03月09日(土) 目覚ましよりも確実な・・・

今朝は、母がコンロの火をつける『カチッ』という音で飛び起きた。ヽ( ′ー`)ノ 

* * * * *

母の薬は現在6種類。

これを朝と夜とに分けるのも、かなり大変。

『この4つは朝だけ。 これとこれは朝晩。
 これは最初の10日分、これが2週間分しか処方できない薬で、この4種類は3週間分』

ヽ( ′ー`)ノ 

チョキチョキ切って、パキパキ折って、種類毎にお皿に並べて、
小さなビニール袋に、日付を書いた紙と共に入れる。

30分以上、かかってない?


2002年03月08日(金) こんなところから・・・

冷凍室にマーガリンが入ってた。 堯福陰Α院叩叩

レンジには、カップに入れた牛乳が入れたままになっていた。 堯福陰Α院叩叩


2002年03月03日(日) メビウスの輪

何かを頼む。
聞こえない。
もう1度、言う。
聞こえた。
返事をした。
取りかかろうとする。
何をすれば良いのか忘れる。
聞いて来る。
もう1度言う。
返事をする。
途中でまた忘れる。
また聞きに来る。
また言う。

イライラして来る。
何も頼まなければ良い。
それでは生き甲斐もなくなる。
たぶん動かなくなる。
次第に邪魔に思えて来る。
きっと部屋にこもりきりになる。

仕事で疲れる。
家ではまったりしたい。
爆睡する。
でも、どこかで気にかかる。
『誰か薬を飲ませてくれただろうか?』

食事の支度ぐらいできればいいのに。
洗濯機ぐらい使えればいいのに。
乾いた洗濯物ならたためばいいのに。
自分の部屋ぐらい掃除すればいいのに。

今日は仕事に行きますよ。
今日はゴミの日ですよ。
今日は検診ですよ。

洗濯物を干して。
食器を洗って。
お米を研いで。
缶のゴミを外に出して。
新聞を入れて。
薬を飲んで。
手を洗って。
日記を書いて。

しないで欲しいことを注意する。
翌日にはまた同じ事をする。
また注意する。
補聴器をしていない。
通じない。
返事はする。
さっきと同じ事をまたやる。

紙に書く。
貼りつける。
日記に書く。
カードを作る。
目の前に置く。
口に出して言う。

でも、また同じだ。

私が起きて部屋をのぞくと、待ってましたとばかりに『おはよう』
パジャマのまま、お布団に入っている。

家族が起きれば、キッチンは戦争状態になる。
なぜなら、うちには洗面台がない。

その戦場に、のそのそとやってくる。
出勤前にこれほどイライラすることはない。

起きたら先に顔を洗って。
そのあと、着替えて。

「それじゃ、明日からはそうするね」
明るく言うけど、やっぱり同じなんだよね・・・

言っても仕方ない。
だけど、不満は不満。
理解しようとすれば、自分の気持ちが犠牲になる。
仕事でも、家庭でも『良いコ』なんてやっていられない。

休みは母と向き合って、
外のお天気の良さをうらめしそうに
ただぼんやりと、時間の経つのをじっと待っている。


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