のづ随想録 〜風をあつめて〜
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【のづ写日記 ADVANCE】

2004年12月19日(日) チキン弁当

 久々の更新である。更新が滞っていた間、何度もココへ足を運んでくれた奇特な方、大変お待たせいたしました。
 まだ年内に1、2度の出張の予定を残しているとはいえ、とりあえず先週で年内の大きな仕事の山を乗り越えた、という感じだ。来週は取引先との軽い忘年会があり、“彼女”のクリスマスコンサートに出かける予定だ。おまけに25日には『トライ・トーン』という俺が愛してやまないアカペラグループのクリスマスコンサートにも夫婦そろって行くことになっている。聖夜にアカペラコーラスを満喫、というのもなかなかではないですか。

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 出張で足を運んだ山形へ向かう新幹線の車内誌で見かけた記事で『チキン弁当』を紹介していた。
 今は幼いころのクリスマスの想い出をモチーフとした松本人志作詞の『チキンライス』というクリスマスソング(なのか?)が話題を呼んでいるけれど、俺には『チキン弁当』にまつわる幼い記憶がある。
 『チキン弁当』をご存知か。駅弁のひとつなのだが、もしかしたら食したことがある人もいるかもしれない。
 チキンが入っているバスケットをイメージしたオレンジ色のパッケージに、から揚げが3ヶとチキンライスという、内容はシンプルな駅弁である。社会人となり頻繁に新幹線に乗るようになると、社内でビールと駅弁――というヨロコビも覚えるのだが、俺は駅の売店でいつもこの『チキン弁当』を見かけると、少しだけ胸が締め付けられるような不思議な感覚を覚えるのだ。

 幼い頃小児喘息を患っていた俺は、小学校の6年間をほぼ毎週、母に連れられて都内の病院に通院していた。毎週木曜日、授業を給食前で早退して自宅に戻り、母と一緒に地元の駅から1時間ほど揺られて病院に向かい、たった一本の注射を打ってもらうのだ。時には常備の喘息の薬ももらっていたような気もする。その頃母はパート勤めをしていたはずだから、この木曜日には俺と同じようにパートを早退していたのだろうか。
 元気なときは問題ないのだが、喘息の発作が出ている状態で病院まで行くこともしばしばだった。あの喘息の発作の苦しみというのは経験者でないと理解できないだろうが、食事どころか呼吸すらできなくなってしまい、子供ながらに「死ぬ」と何度も思ったものだ。うずくまるようにして背中を丸めると少しだけ呼吸が楽になるのだが、母と一緒に病院に行かなければならないときに、苦しさに道端にうずくまったりすると母は厳しく「立ちなさい」「歩きなさい」と俺を叱り、強く腕を引いた。俺はまさに母に引きづられるように病院まで連れて行かれるのである。
 そんな状態で病院にたどり着き、いつもの注射を打つと(あまり酷い発作のときは点滴を打ってもらうこともあったが)発作はあっという間に治まってしまう。呼吸することを実感することってあまりないと思うが、俺は子供の頃から呼吸できるヨロコビを知っていた。
 それまでの発作が嘘のように病院を後にすると、母もすこし穏やかな表情になっていた。
 帰宅の電車に乗る上野駅で、俺は時々『チキン弁当』を買ってほしい、と母にせがんだ。売店のショウケースに並ぶ見本には派手なオレンジのパッケージに好物のから揚げが入っていて、なんともチキンライスも美味そうに見える。もともと鶏肉好きだった俺にはこれほど魅力的なものはなかった。
 今から思うと、母が上野駅で俺に『チキン弁当』を買ってくれるのは、こんな風に発作が治まったときだったようにも思える。
 病院での治療が終わる時間はだいたい4時過ぎ。そんな時間に駅弁を食べたいなどといっても「晩御飯が食べられなくなる」と叱られるのが常だったが、時折、俺は母が買ってくれた『チキン弁当』を常磐線の対面座席で母に見守られながらモリモリと食べて帰るのである。
 今になって、母はどんな想いでわが子が『チキン弁当』を頬張っている姿を見つめていたのだろう、と思う。


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