「硝子の月」
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2002年06月18日(火) <首都へ> 黒乃、朔也

 しかし、乗り込む方法はどうあれ、ルウファの選択は正しかったと言える。
 馬車の歩みは、やはり速いのだ。
 午後の強い日差しを避けるようにフードを目深にして歩く旅人達、それをどこ吹
く風と追い越して、威風堂々と闊歩して行く。
 小一時間ほどの間に、窓から見える景色はだいぶ変化していた。そして、窓の内
側の人間模様も。
「あの…。冷たい水でもお持ちしましょうか?」
「え?」
 声に顔を上げると、深青色ディープブルーの瞳が心配そうに覗き込んでいた。
「え、あ……いや、その、いい…です」
 ティオはいつの間に息が触れるほどに近づいていた彼女から、慌てて顔を背け
た。慣れない丁寧な言いまわしになっていることには気付いていない。
(なんだよ…俺?)
 さっきからどうにもふわふわ浮いたような気分になって、傷がズキズキするの
か、それとも脈がどくどく打ってるのか、よく分からなくなってきている。
「お嬢様。そのようなことは私共がいたしますので…」
 荷台側に控えていた従者は落ちつかない様子である。得体の知れない旅人への警
戒にしても、少し過剰だ。よほどこのお嬢様が心配なのだろう。
「冷たい水があるんですか?」
「皆さんと会う前に水売りが通りかかったんです。素焼きの甕に入った水って、冷
たくて美味しいですよ。よろしければどうぞ」
 と彼女は笑顔で勧める。
「それじゃあ頂こうかしら?」
「あ、俺もいいか? こう暑いと喉が乾いてよ」
 ルウファはすでに自然体でくつろいでいる。グレンはその隣で馬車の中を珍しげ
に見回していた。
「ティオはホントに飲まなくていいのね?」
「ああ…」
 お嬢さんの隣に座ってから、ティオは借りてきた猫のように大人しくなってい
た。
 相棒のアニスといえば珍しくティオではなく、お嬢さんの膝の上で翼を休めてい
る。
「すごく綺麗な鳥ですね…。私、生まれて初めて見ました」
 アニスは賢い鳥だ。ティオ自身が思うことだが、もしかするとティオ本人よりも
人物眼があるかもしれない。
 その彼が、彼女に撫でられるまま眠るように目を細めている。
 相変わらず蹄の音と共に馬車は一定のリズムで揺れ続けていた。首都ファス・カ
イザ周辺の街道は、流石に路面が整っているようだ。よくクッションの効いた座席
も手伝って快適とも言える乗り心地である。
「傷が痛むなら、いつでも言ってくださいね。御者にゆっくり走るように言います
から…」
 さっきから黙ってうつむいているのを「きっと傷が痛むのだろう」と解釈されて
いるらしい。
「あ、…はい」
 優しい言葉にそっけない返事しか返せない。その澄んだ瞳すらまともに見れない
自分が、もどかしかった。原因が分かってから尚、それを考えて変に意識してしま
う。
(ちょっとだけ…似てる……のかな?)
 ちらっと盗み見るように見た横顔は、ルウファとの会話の度に微笑と小さな驚き
とを繰り返していた。横から見ると、長い睫毛がよく分かる。
「ところで、さっきの方は本当に置いてきてよろしかったんですか?」
「いいんです。ちょっと口が利けない可哀想な人なんですけど、付きまとわれて困
ってたところなんですよ」
 ルウファは屈託のない笑みでそう言うと、グラスの水を美味しそうに飲み干し
た。

「まあ、そうですか……。ええと、」
 少女はやや困惑したように呟き、ふと目を瞬かせる。
「そう言えば、まだお名前もお聞きしていませんでしたね」
 言われてみればそうだったか、とティオは考える。たしかに馬車を呼び止めて転がり込んだどさくさで、まだ名乗った記憶も名乗られた記憶もない。
「私はアンジュ。アンジュ・クリスティンです。
 ……みなさんは?」
 おっとりと微笑んで名乗った少女に、にっこりとルウファが笑う。
「私はルウファ。ルウファ・ルール……よろしく、アンジュさん」
 冷たい水のお陰で機嫌がいいらしい。少なくとも笑顔は本物に見えた。
「俺はグレン・ダナス。そいつの保護者だ」
 グレンに指差され、ティオはわずかに顔をしかめる。しかし横でアンジュが自分の言葉を待っているのに気付き、慌てて口を開いた。
「ティオ・ホージュ……そいつはアニス」


紗月 護 |MAILHomePage

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