彼岸とひとは云う訳だけど。 - 2006年03月17日(金) お彼岸にはお墓参り、が日本の通例だと思うんです。クリスチャンとかの方は違うんでしょうけど、一般的には『お彼岸』って云って、お墓参り、しますよね。 今年はどうにもこうにも仕事の兼ね合いで、所謂『彼岸』の期間中にお参りに行けそうもありません。だから、自分の家で線香立てて、お墓のある方角に向かって祈ってみたりね。 お彼岸―――というものというか習慣の発祥を知らないわけですが、お彼岸ってお盆とは違うんだよね。お盆は、亡くなった人が家に帰ってくるって言うから、迎え火たいて導きして、送り火たいて帰り道を迷わぬよう、ってやるんですものね。 じゃあ、お彼岸っていうのは『彼岸』とどこかが繋がる期間なのかしら。 繋がるんだけど、おうちまでは帰れないから、お墓にお参りに行くのかしら。 『彼岸』と、最も距離が近付いたりする、そういう時期だから『彼岸』とそのものズバリな名称で呼ばれるようになった期間なのかしら。 距離が近付いてしまうから、誘われる人も多い―――そんな期間? という印象が否めないんですよ、『彼岸』の頃って。 気がついたら、ああ、あの人を亡くしたのもこんな時期、と思ってしまうんですよ。 『彼岸』に惹かれる季節なのかしら。 生とか死とか、そんなことが生々しくまざまざと考えてしまう時期、それはなんだかいつも春の初めとか秋の終わりとか。 単に鬱病だからじゃん、とか言われてしまうと身も蓋も無いわけですが(そうよ私は春・秋鬱者…自覚はある)、生まれ変わる季節と眠りにつく季節、それがなんだかどうしても苦手ですね。 生まれ変わる事も、心を完全に閉ざして眠ることも出来ないで、生身の水の身体で苦しんじゃったりしてるとね。それをしろ、と強制されているような居心地悪さで、何だかどうしても座りが悪い。心の。 だから、できるだけ他の方向に意識を向けたいと思ってしまう訳です。 『楽しい』と、脳が快楽のサインを送ってくるような出来事なら、とりあえずやっとけ、なわけです。ただ、薬と男は一歩引いて考えようね、と自分に諭しながら。 …いや、偉そうに人様にそう説教かましといて、自分が薬や男に引っかかったらシャレにならん(笑)。 そんなカンジで、『快楽』のシグナルを探しています。 些細でもいいから、『快楽』の小さなサインを拾い集めて、掻き集めて、ああ、結構幸せかも、と自分を騙す。 『幸せ』ってのは心の状態であって、立場とか何とか関係ないからね。 何不自由するでもなく生きていて好きなことも出来て、一体何をぬかすかと思われる向きもおありでしょうが、心がね、『幸せ』という状態じゃないと、それは『幸せ』ではないのですよ。 極例を出してしまえば、心中したカップルがどんなに『可哀想』と周囲に思われたって、本人たちが納得の上で、それが一番『幸せ』になる道だと思って選んで見事心中できたなら、本人たちは『幸せ』な訳ですよ。 …いや、別に自殺奨励してませんよ、ただの喩えです。 う〜ん、自分がこれ以上暗くなるのはあれなんで、別のこと考える事にします。 これが、長年『鬱』という病気と付き合ってきた人間の、ある意味一番いい逃げ道の確保の仕方なのかもしれませんね。 知りませんが。←言いっ放しか -
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