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2004年04月07日(水)
■『バカの壁』 ★★★★★

著者:養老孟司  出版:新潮社  ISBN:4-10-610003-7  [EX]  bk1

【内容と感想】
 一元論へ痛烈に警鐘を鳴らした一冊。少し話題が振れぎみなので細部に捕われていると作者の主張が汲み取りにくいが、多元論を目指すことが争いを無くしより良い未来の築ける方向性だと、一貫して示唆している。つまり、命の多様性を礼賛している。

 この本は手近にありながら何となく読まなかったのだが、実際に読んでみると私にとっても考えをまとめるためにとても重要な本だった。今まで漠然と考えたり感じたりしていたことが、一歩進んで言葉となって、ここで説明されていた。またそれまで気付いていなかったこともいくつか指摘され、既製概念を覆された。

 タイトルとなっている「バカの壁」とは、興味のない人に何かを説明してもそれが理解されない、そんな壁のことである。実はこのタイトルがあまり好きではないのでなかなか読む気になれなかった。ここでは意思疎通をさまたげる壁の正体がいろいろあげて説明されている。その一番の原因は、人によって興味の対象が異なり、脳の中での処理のされ方も異なっていることである。また同じ人の中でもその時の状態で感じ方で処理のされ方が異なっている。そして中でも気をつけなければならないのが安易に自分が絶対正しいと思い込むことで、思考を停止してしまう状態だという。

 私にとって新しい視点となり面白かったことの一つは、
本来意識というのは共通性を徹底して追求するものなのです。その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。人間の脳の特に意識的な部分というのは、個人の差異を無視して、同じにしよう、同じにしようとする性質を持っている(P48、49)
という指摘だった。そもそも意識に何か性質があるかもしれないという発想そのものがなかったので面白かった。確かに言葉が違っても何らかのコミュニケーションが成立するところを見ると、意識は共通化しようとする性質を持っているのかもしれない。

 また、
「個性」は脳ではなく身体に宿っている(P52)
という指摘も私には真新しくて面白かった。個性はもともと初めからその人に与えられている(備わっている)ものであり、(それをどう磨くかはもちろん個々人の努力や興味によるのだろうが、)それ以上でも以下でもないのだそうだ。

 それを聞いて私は友人の言ったことを思い出した。彼女の姪は小さい頃から読書好きなのだそうだが、いわく、それは親が絵本を読み聞かせたから読書好きになったのではなく、生まれながらにして姪自身が読書を好きだったのだと。好きだから親に本を読んでくれとせがむ。食事の途中に抜け出してはいつの間にか本を読んでいる。親が本を読み聞かせたかどうかに関係なく、まさに生まれながらにして本好きだったのだと。

 作者は、そもそも個性は肉体の差違の中にあるので、それを意識の中に無理に求めることは止め、むしろ意識はいかに共通できるかを求めることの方が重要だと説く。
 むしろ、放っておいたって個性的なのだということが大事なのです。(P69)
 それより、親の気持ちがわからない、友達の気持ちがわからない、そういうことのほうが、日常的にはより重要な問題です。これはそのまま「常識」の問題につながります。
 それはわかり切っていることでしょう。その問題を放置したまま個性といってみたって、その中で個性を発揮して生きることができるのか。
 他人のことがわからなくて、生きられるわけがない。社会というのは共通性の上に成り立っている。人がいろんなことをして、自分だけ違うことをして、通るわけがない。当たり前の話です。(P69、70)

 それから、人は本来変化するもので、情報は変化しないものなのだが、現代ではそれが逆転して認識されている、という指摘も面白かった。
流転しないものを情報と呼び、昔の人はそれを錯覚して真理と呼んだ。真理は動かない、不変だ、と思っていた。実はそうではなく、不変なのは情報。人間は流転する、ということを意識しなければいけない。(P54)

 言われてみれば、自分のことを時の流れの中で連続して自分であると認識しているが、全く同じもの(情報)から受ける印象は、その時々の状態や気分によって確かに変化する。経験するということは人を否応なく変えてゆく。知らなかった自分に戻ることは出来ず、身体も変化し続けている。

 最後に、結論として述べられている一元論と二元論の話はとても興味深い内容で、私が今まで考えて来たことを補い一歩進めてくれた。作者はここで一元論を否定し、二元論(多元論)の世界がより良いのだという考えを強く主張している。

 実は私の好きな『ハイペリオンシリーズ』(ダン・シモンズ作/早川書房刊/SF)と『イティハーサ』(水樹和佳子作/集英社・早川書房刊/SFコミック)がこの二元論の世界を目指す話で、私はこれにとても共感していた。『ハイペリオンシリーズ』はその最終巻の『エンディミオンの没落』で、「生命は多様性を目指すべきだ」という思想が選ばれる。またイティハーサは「答えが一つしかない」未来を拒否し、「人それぞれにそれぞれの形で」答えがある未来を選択する。どちらも素晴らしい名作で、しかしそれ以上に私はそこに提示されていた、「それぞれに合った価値観が同等に存在する」という世界観に惹かれた。対するたった一つの形態なり答えなりでは、いずれ停滞し失速してしまう未来しか予測されない。

 作者の否定する「一元論」も前出の二作と同様、一つしか無い正しさを目指す考え方のことを差す。一つしか無い正しさは、自分が間違っている可能性などいっさい考慮せず、他者の正しさを自分の正しさとは違うという理由で否定する。一元論は排除することか組み込むことで、相反する意見をこれまで駆逐して来たし、これからもそうであろうと予測される。
 一元論と二元論は、宗教で言えば、一神教と多神教の違いになります。一神教は都市宗教で、多神教は自然宗教でもある。(P195)

 対して、ここで言う「二元論」とは、例えば陰と陽のように、異なるものが同等に存在する考え方だ。どちらが正しいかではなく、立場により正しいことが異なるという考え方だ。だからここで言う「二元論」=「多元論」である。絶対的な正しさは無いが、他者の正しさを認め得る、寛容な考え方である。日本古来の八百万の神々はまさにそれだ。

 別に私は宗教にも哲学にもまったく詳しくないのだが、女性がありのままの形で存在することは、この二元論の元でなければ窮屈だということを、経験的に感じてきた。それは無理矢理合わない靴に足を入れる様なものなのだ。

 ところで「二元論」をググッてみたところ、「善悪二元論」などの言葉が多く引っ掛かり、作者の言う意味での二元論とは少し違っていた。善悪二元論といった考えはここで言う一元論と同じである。一つの絶対的な正しさとして「善」が提示され、それと合わない考えは「悪」として排除される考え方だ。この考え方の恐さは、二つの異なる善が対立する時、自らの信じる善の絶対的な正しさを追求するあまり、互いに対立したものを悪として排除し、お互い譲り合わないことである。これは終わりのない戦いしか生み出さない。

 では、作者の言う一元論とか二元論とは何なのかを検索してみた所、どうやら哲学の世界で「絶対論(主義)」と「相対論(主義)」と呼ばれるものがこれとほぼ同じものに見えた。

 作者は楽で思考停止状態の一元論から脱して「人間であればこうだろう」ということを不変原理に置くべきだ、と提唱している。その普遍原理(方法・手段)がきっと愛であったり思いやりであったり優しさであったりするのだろう。一元論のままそれを実行しようとすると、自分の考える正しさに固執しすぎた時押し付けになるし、対立した時には排除することになる。だから意思の疎通が成り立たない。二元論を守りながら対話と理解によって解決しようとする姿勢が重要なんだろうと思う。

 現代世界の三分の二が一元論者だということは、絶対に注意しなくてはいけない点です。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教は、結局、一元論の宗教です。一元論の欠点というものを、世界は、この百五十年で、嫌というほどたたき込まれてきたはずです。だから、二十一世紀こそは、一元論の世界にはならないでほしいのです。男がいれば女もいる、でいいわけです。
 原理主義というのは典型的な一元論です。一元論的な世界というのは、経験的に、必ず破綻すると思います。原理主義が破綻するのと同じことです。(P198)
 一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。(P204)

 それこそが『バカの壁』の正体だとくくられている。


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