moonshine  エミ




2006年12月27日(水)  畏れながら生きること

父の長兄が亡くなった。
長兄というのは正確には間違いだが、長男は小学校にも上がる前に夭折したので、親戚の中では亡くなった人がそう呼びならわされている。
父は終戦前の生まれ、鹿児島の田舎の8人兄弟の末っ子なので、亡くなった人とは20才ほども年が離れており、幼い頃は兄弟というより親子のような関係だったようだ。
その頼もしい兄は10年前に脳梗塞で倒れ、危機的な状況は避けられたが、以来、養護施設に入り、歩行はおろか、言語もままならないまま、長い時間が過ぎていた。
私たち家族は3年近く前に鹿児島に行き、見舞った。きれいにしつらえられたベッドの中、もの言わず、ただ、父とよく似た大きな目だけをぱっちりと開いて、もの言いたげに横たわっている小さな姿を。

人はみな、死ぬ。
うちの両親は共に多兄弟の末っ子で、二人とも両親は早くに、そしてもう何人か、兄姉も見送っている。
私は最後の祖母を2歳になる前に亡くしているので、祖父母の記憶はまったくない。
それでも、いや、だからこそだろうか? 身近で自分を慈しんでくれた人たちが、自分より先に、ひとりまた一人といなくなるということに対する想像力を、ずいぶん小さな頃から人一倍もっているように思う。
それでいて、本当に近しい人の死をまだ経験していない。
たぶん最初にやってくるのは、両親どちらかの死だ。
そのことに対する、言葉にはできない感覚的な恐怖が、昔から、沁みついている。
とても損な性分のように思う。
親はまだまだ元気なものだ。という気持ちでいる同年代の人たちも、20代後半になってもまだ多いものだ。私のおびえとは裏腹に、うちの両親はこれまでさしたる大病もせずに還暦を過ぎたが、私は本当に学齢になるかならないかの頃から、いつか来る親の死というのを、なぜか強く意識してきた。どんなに親と喧嘩をしても、反抗期でも、『それでも親がいなくなれば、どんなに自分は泣くだろう?』という気持ちがいつもあった。

逆にいえば、私が人に対して優しい気持ちになれることがあるなら、そういう前提ゆえだと思う。
人はみな、いつか、死ぬのだ。
愛する人に、先に死なれる。自分も、愛する人を残して死んでいく。
その限界を経験する、あるいは、経験することを想像する、
それは、本当に悲しいことだけれども、人間らしい感情の源なのかもしれない。
大事にしたいと思う。
肉体があるということに対するよろこび、それがいつか失われるという畏れの気持ちを。

さて。
今日は、忙しい日だった。久しぶりに3時間もの残業をした。
急にやってくるいくつもの仕事、でも、やらなければならないことというのを目の前にすると、人間、多少はしゃんとするものですね。
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