5千の民族があれば、5千の正義があるとある人はいう。 尤もだと思う。正義とは本来そういうものなのか。 土地によって違っていれば、時代によって変わるもの。 正義に外れれば法にも触れる。 正義は憲法と似てなくもない。 精通してるという事なのだろう。 正しくない行いをすれば罰せられる。 憲法は正義の上に成り立ち、それを守るもの。 なのに、いや、だからなのか。 国によって時代によって正義は違って来る。 おかしなものだと思う。これは決していけない事だと 誰しもが思う事でも、他の誰かには正義になる。 たとえば親殺しは死刑だという。しかし子供殺しは必ずしも そうなりえない。でもこの定めには頷ける。 親を殺すなんてもっての外。どんな親でも。 といって、子供ならばいいというわけでもないのも知っている。 ある国では子供の基礎学習である足し算・引き算の例えに 拳銃を用いるらしい。この拳銃とその拳銃を足したらいくつ? または埋まってる地雷と爆発した地雷の数の差し引きで 引き算を覚えたり。その学習のうらにしっかり見えてるのは 「戦争」の二文字。それを理解出来る子は利口であり その心を大きく養うことは正義であるという。 確か自分が子供の頃のそれは果物や本だった。 拳銃や地雷なんて言葉は決して使われず、 もし使う大人がいればこの国では悪だろう。 これを始めてしった時、衝撃が走った。 言うところのカルチャーショックというやつだと思う。 しかしそれ以上に何とも言えない感情がある。 この小さな国の小さな人間関係でさえ、 人と違う正義に唸る事もしばしば。 叫びたくなり衝動に口をふさがれることだって、ざら。 ならば、ここまで違う異国の正義とどう戦っていけるのだろう。 人が人として生まれた時から絶対に大事にしてるであろう正義と、 国や時代によって作られていく正義。 文化というのは複雑なものだと改めて感じた、 ちょっとした事実のお話。
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