眠剤なしのはじめての夜と朝の間。案の定と言いますか早速と言いますか、イヤナコトガアリマシタヨ。ちょっと宇宙人訛りになってしまうくらいに厭だったんですよ。
夢を見ました。「薬なしでは巧く寝つけない」ことと、それによって「定められた時間を寝過ごしてしまい、約束の時間に遅れてしまう」ことへの潜在的な不安が見事に映像化されて、それを主観的に見てしまう上に「これは夢だ」とよしんば判っていたとしても自力で覚めることはできない訳ですから、最早や拷問ですよ。
まるで「新世紀エヴァンゲリオン」の「電車」の場面を、「時計じかけのオレンジ」のように無理矢理に延々と見せられているような苦しさです。眼が覚めた途端にどっと疲れが押し寄せてきました。目覚めた瞬間にくたくたです。「悪夢」とはこのような夢を言うのだと思いました。
それほど苦しいのだから早く忘れてしまうのがよいのだろうとは誰にも明らかなのだとはぼくも思うのですが、眼が覚めて意識がはっきりとした途端に「これは記録しておかなければならない、早くしないと忘れてしまう」と夢の内容を急いでメモ書きにしてしまった自分が何だか哀しいように感じます。
記録して、まとめて。それについての考察と合わせて他人さまに読んで頂けるかたちにしなければ、と考えてしまうところがもの書きの性ってものなのでしょうか。何せ今朝ほど絶望的な気分になったのはおそらく生まれてこれまでになかったことなので、書いておくべきだと思ったのでした。
だから、今日付けの当記事にはその夢の詳細とその夢についてぼくが思ったこと、考えたことを書こうと考えていました。しかしそうすると、何とも辛気くさい記事になってしまって読んでくださるみなさまにしんどい思いをさせてしまうでしょうし、午後になってうれしいニュースを入手したことで見事に気が晴れてしまったので、厭な話は御蔵入りにします。
あまりの疲労感と絶望感と睡眠不足(眠剤を服めないため)で「今日は一日寝込む」と思っていた上に食事が巧く摂れないために低血糖で目眩は起こすわ、外出先で大雨に見舞われて足止め喰らった上にずぶ濡れになるわで、誰に何を訊かれた訳でもないのに「だめです」と繰り返し呟いていたぼくの気分をぐーんと昂揚させてくれたのは、このニュース。
千秋真一(指揮者)、CDデビュー。演奏はR☆Sオーケストラ。「のだめカンタービレ」が「ラヴコメディ」か否かの論議はさておいて、千秋くんが(タクトを)振るならブラームスも聴いてみようではみようではありませんか、という偉そうな気分になれました。千秋くんが振った曲は沢山ありますが、その中で「ブラいち」が選ばれた理由は、やはり「R☆Sオーケストラ」が演奏するという一点でしょうか。
どちらかと言うと、Sオケのちょっと危うそうな演奏を聴いてみたい気がするのですが。Sオケのベートーベン3番だと、別トラックでのだめも入れると思うのですよ。いや、「のだめのピアノ」は禁じ手か?
「のだめカンタービレ」という作品のすごいところは、演奏場面に書き文字が一切ないのに(ないから?)画面から音が聞こえてくること。聞いたこともない曲ですら本の中から聞き取れてしまいます。
それほど読み手のイマジネーションを刺激する作品に、具体的な音を与えてしまうことはもしかしたら自殺行為なのかもしれませんが、多くの人をクラシックへの入口へと導くということは決してよくないことではないのでしょう。クラシックもポップスもロックも、何れもやはり「音楽」で、分野の別を問わず「聴く」ということは、作中でミルヒ(シュトレーゼマン)が言うように「楽しい音楽の時間デス」から。
ついでと言ってはナニですが。
クラシックの智識はあるが漫画を読まない人のための、「のだめ」への入口。……このように、「楽しい音楽の時間」のことを妄想込みで考えていると、起き抜けの重苦しい疲労感は身体の中からすうっと抜けてしまって、すっかり愉しい気分になったのでした。御陰さまで御覧の通りの長文を書くだけの元気が出たのですよ。
「夢」の話も「ニュース」の話も、ぼく以外の人にしてみれば何れもたいしたことのない話なのでしょう。そんな他愛のないことでぼくはいつも大きな波に揺られますが、それが愉しくても苦しくても「生きている」ということなのかな、と、いまとても旨い玉ねぎを喰いながら思っています。
ああ、この玉ねぎの旨さは劇的と言える。有難う。
【今日の前途よれよれ】
浅く短くしか眠れないみたい。亡くなった人の「安らかな」眠りを祈る意味が判った気がする。